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カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 正義と愛の法

霊の書 正義と愛の法 目次

自然の権利と正義

財産権-強奪

隣人愛

母の愛と子の愛

○正義の感情というものは、天性のものですか、それとも獲得された観念ですか。
「諸君の感情は、不正の観念に対し、自然に反発を覚える、正義の感情はかように天性のものである。精神の発達で確かに正義の感情は発展する。しかし、精神の発達が正義の感情を創り出すわけではない。神はこれを人間の心中に置き給うた。それ故に、諸君は素朴で原始的な人々の間にも、知的に進歩した民族より、更に確かな正義をもつ民族を見るのである」

○もし正義が自然の法とすれば、なぜ人によって受取り方が違うのですか。同じ事を甲は正義とし、乙は不正義と思います。
「それは、正義の感情に人間の感情が混入して、品格を落とすからである。天与の感に感情が混入すれば、物事は歪んで見える。そのような事が多い」

○正義はどのように定義したらよろしいですか。
「正義は、他者の権利の尊重、この中に在り」
-その権利とは何か、これを定義して下さい。
「二つある、人間の法と自然法。人間はその性格と慣習に合わせて法律を作った。この法律で権利を定めたが、それは開化発展と共に変化していくものであった。今日では、諸君の法は完全から程遠いとはいえ、もはや中世で権利としたものをそうとは認めていない。諸君の目には奇怪に見えても、当時は正義であり当然だったのである。それ故、人間の定めた権利は必ずしも正義に適ったものではない。しかるに、この権利によって社会関係が規定されたりもする、個人的生活には、良心の裁きにのみ従うべきものが多々あるというのにである」

○人間の法に定められた権利とは別に、自然法に従うと、正義の基盤は何ですか。
「キリストは申された、あなたが人からしてもらいたいと望むことを、人にしなさいと。神は人間の心の中に、全ての正義の真正の規準として、次の願いを置き給うた、自分の権利を尊重してもらいたい、誰しもがその胸に感じる者として」

○人間が社会に生きる上で、何か特別に必要な義務がありますか。
「左様、その第一は、他者の権利を尊重することである。これを尊重する者はいつも正義であろう。地上では、正義の法を多くの者が実行しない地上世界では、諸君は報復に頼る。そしてこの事が人間社会に混乱と揉め事を起している、社会生活は権利を与える。そしてそれに応じた義務を課す」

○人間は自分の権利について幻想を持ちがちです。どこまでが本当の自分の権利なのか、それを教えてくれる何かがありますか。
「同じ状況にある隣人の立場に立って、隣人は自分の対してどう認めるか、それが権利の範囲である。この逆も同じである」
-各人が隣人の権利を自分の立場から計るとすれば、権力者に従属していればどうなりますか。そんな原理では、無政府的となり何もかも滅茶苦茶になりませんか。
「自然権はピンからキリに至るまで万人に同様である。神は一部の人を上等の土くれで飾られたわけではない、神の目から全ての人は平等である。自然権とは永遠である。人間が定めた権利は、人間の制度で滅びる。しかし、人は各々はっきり自分の力量や無力さを感じるものであり、また、その知徳の故に尊敬できる人へ、一種の恭順の意識を持つものである。で、次の一時は大事なことだが、自己を優者と思う者は、人が自分に従ってくれるこの権利に対して、自分も義務を心得ているということ。このように、権威に優者の英知が伴うところ、不従順もないということ」

○純粋に正義を実践する人物の人格は何と申したらよいですか。
「イエスの範に従う者、これ真の正義の士と言えよう。彼こそ正義そのものである、隣人愛を実践する者である」

○人間の自然権の中の第一は何ですか。
「生存権。それ故、何人も他者の生命を奪う権利はない。また、人の生命を危険に晒してよい権利もどこにもない」

○生存権は、人間が働かずに休む為の、蓄財の権利を認めますか。
「認める。しかし、そうするのなら、家族の為、蜂のように誠実に働くこと、自分一人の利己の為の蓄財であってはならない。動物の中には、人間にこの種の範を示しているものもある」

○人間には、自分の労働で蓄財した財産を、守る権利がありますか。
「神は申されなかったか、[汝盗むなかれ]と。イエスは言わなかったか、[カエサルのものはカエサルに返せ]と」

○所有欲は人間の自然なものですか。
「左様である。但し、それが自分の為だけの時、自己満足の為の時、これは利己主義である」
-ですが、所有欲は合法的なものではありませんか。不安のない生活をする者は、他人の重荷にはなりませんから。
「人の中には、貪欲で他者への利益など無視して蓄財する者がいる、唯ただ自分の満足の為にである。皆さんは、こんな事を神が喜ばれるとお考えか。これに反して、額に汗して働きながら、他者を助ける手段を手にする為に蓄財する者がいる。彼は隣人愛の法を実践する者であり、また彼の労働は神の祝福を受けるものである」

○正当な財産の性格とは何ですか。
「人を傷つけないで手に入れたものでない限り、正当な財産などどこにもない」
〔注解〕愛の法、イエスの法は、自分が人からしてもらいたくない事を、人にするなというのだから、この法に違反する獲得方法は、暗黙の内に罪とされるものである。

○財産権は無制限のものですか。
「正当に獲得されたものは間違いなく、すべて所有物である。しかし、前に述べたように、人間の法は不完全であって、自然法に反した因習的な権利を設定する。この為、人間は進歩に応じて、また正義の認識を重ねるに応じて、改変をする。一つの時代に権利と思われたものは、他の時代には野蛮に見える」

○イエスが言われた人類同胞の愛という言葉の、本当の意味は何ですか。
「全ての人への博愛、他者の不完全性への寛容さ、人の非道の行為の許し、これらである」

○イエスはまた、汝の敵を愛せよ、と言われました。しかし、我々の敵を愛するとは、我々の自然の性向に相反します。また敵意は、霊的に共感するものが欠けているから、生まれるのではありませんか。
「確かに、人間が自分の敵に、優しさや熱い思いを抱くなど、難しい事だろう。また、イエスもそのような事を命じたのではなかった。[汝の敵を愛すること]は、その者を許すことである。また悪に対して善を返すことである。その事によって、諸君は相手よりも優れた者となる、恨みをもってすれば、相手の下に自分を置くことになる」

○慈善についてのお考えをお尋ねします。
「乞食にされることは、肉体的にも精神的にも、人間の品格を落とすことになる。それは人間を動物にすることである。神と正義の法に基づく社会状況では、弱者を助けるにしても、自尊心を傷つけずに支給が行われる。生活の資は働けない全員に保障される。偶然のままに放っておかれたり、故人の善意に任されたりせぬように」
-慈善を非難なさいますか。
「非難すべきものは、生活の資を与えることでなく、そのやり方である。イエスの説いたように慈善を理解する者は、手をこまねいて待つことをせず、貧しい者を捜し求める」
「本当の慈善とは、必ず愛と優しさをもつもの。それは慈善の行為と共に、慈善を行うやり方、その上に成り立つものだから。奉仕は、心遣いを込めて行われれば、二重の価値を生むもの。しかし、傲慢な態度ですれば、欠乏は無理にも無くなりはするが、受取った者の心には少しも心が通わない」
「また心得られよ、見栄は神の目の中で、善行の価値を滅ぼしてしまう。イエスはかように申した[自分の右手のした事を、左手に知らせるな]と。高慢と虚栄で慈善を曇らせることのないよう、諸君等にかように命じて教えてくれている」
「諸君は物を与えるだけの慈善と、愛の慈善とを、しかと見分けねばならぬ。最も貧窮な者は、路傍で物乞いする者ではない。屈辱を恥じて物乞いをしない、本当に貧しい多数の者達である。これら無言で苦しみ黙している者達である。真実に愛の心を持つ者は、これら隠れた気の毒な人々を求め、見栄も何もなしに救いの手を差し伸べる」
「互いを愛せよ、これが全宇宙を統べられる神の法である。愛は生きとし生ける有機体を引き付ける法である。この引力は非有機物体の愛の法である」
「決して次の事実から目を逸らしてはいけない。進歩の程度のいかんを問わず、それが肉体をとっていようと、霊界にあろうと、全ての霊はいつも二つのものの間に置かれている。即ち、教え導いてくれる優れた者と、自分がこれを教え導く義務をもつ自分より劣った者達との、二つの間に置かれていること、この事実から目を逸らしてはいけない。それ故に慈悲深くありなされ。あなたに一円を乞う乞食に銭を与えてやるだけでなく、貧窮を隠している貧者を見出すことによって。あなたの周辺にいるこれらの者達を発見することに心を込められよ。彼等の無知彼等の不徳を軽蔑せずに、導くことをしなさい。彼等をより良い状態にしてやりなさい。自分より劣っている人達にいたわりと愛を持ちなされ。それと同じ愛を、低い進化段階の生物達にも持つようにしなされ。これによって、諸君は神法に従う者となろう」
                                                         聖パウロ

○自分の欠陥の為に、乞食に身を落としている人々はありませんか。
「それはある。しかし、もし良い精神教育によって神法実践の道を教えられていたら、このように身を滅ぼす乞食になることはなかったろう。地球改善の究極の実現は、このような教育が普及することに、主としてかかっている」

○母性愛は美徳ですか、それとも、人間や動物に共通の本能的な情ですか。
「その両方である。自然は母親に、その子供の生命を支える為に、子に対する愛を植え付けた。動物の中には、母性愛が子に対する食物の供与を限度として、限られているものもある。その仕事の必要がなくなると、母性愛も消える。人類の場合は、母性愛は生涯続く。それは非利己的献身という性格を持ち、美徳の座にそれを置く。これは死後も続き、死の彼方から子供の生涯を見つめる。それ故、人間の場合には、動物以上の何かが母性愛にある事を見てとれよう」

○母性愛が自然の情なのに、なぜ母親が子供を憎むことがあるのですか。生まれる前からこれを憎むことさえありますが。
「母性愛の欠落、これは生まれる子供の霊にとって、試練であったり罪の償いであったりすることがある。その子が前生で、悪い父、悪い母親、悪い子供であったような場合に。どの場合でも、悪い母親は悪霊の再生に限る。この母親は子供の人生に障害を投げようとする霊、子供が選択した試練に子供を屈服させる為に。だが、このような自然法への反逆は罰せられずにはおかれぬだろう。子供の方の霊は、人生に投げ入れられた障害を克服すれば、報いられる者となろう」

○親を悩ます子供を持つ両親の場合、子供がまともだったら抱いた愛情を、子供に感じない事には、情状酌量の余地があるのではありませんか。
「ないですな。自分の子供を鍛えることは、親に与えられた仕事である。この使命とは、子供を正道に引き戻す為の最善の努力を尽くすこと、これである。それだけでなく、親の流す涙は、生まれた時からその子供に植え付けてきた、悪いしつけの結果である。身から出た錆、親は自分が蒔いた種子の、悪い収穫を刈り取っているのである」

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