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カテゴリ:★『霊の書』 > 霊の書 神法すなわち自然法

霊の書 神法すなわち自然法 目次

自然法の性格

自然法に関する知識

善と悪

自然法の区分

○自然法とは神法のことである。これが人間に幸福をもたらす唯一の法である。人が為すべきこと、してはならぬこと、これをこの法が教えてくれる。この法に背いた者は不幸となる」

○神法は不変のものですか。
「永遠であり不滅である。神ご自身のごとく」

○神は一つの時代にこれを是とし、他の時代にはこれを非となさることがありますか。
「神は誤りを犯し給わず。人間は不完全であるから、自分の作った法を変更せざるを得ない。しかし神法は完璧である。物的宇宙にしても、精神的宇宙にしても、永遠の彼方より神の定め給うた法により調和が保たれている」

○神法の目的とは何でしょう。私達の道徳的行為以外のことにも、関係をもっているのでしょうか。
「自然の法は全て神法である、神は一切の創造者であるから。科学を探求する者は、物質界の自然の法を探求しているのであり、善を追及する者は、魂の中にある自然の法を学び、且つこれを実行しているのである」
-この二つの自然の法の分野をきわめることは、人間に可能でしょうか。
「左様、出来よう。片方だけでは十分とは申せぬ」

○神法は全ての世界を通じて同じものですか。
「理性をもって推し量ってみられよ。神法はそれぞれの世界の特性に相応しいようになっており、そこに住む生命体の進歩の程度に釣り合っている」

○神は全ての人に、神法を知る手段を与えておられますか。
「全ての者がこれを知るが、全ての者がこれを理解するわけではない。最もよく神法を理解する者は、善を追及する者達である。しかしながら、やがて全ての者が神法を理解するに至る。進歩の彼方に完成の時が来るからである」

○霊は肉体に宿る以前の段階では、神法をよく心得ているものでしょうか。
「その霊の発達程度に応じて、神法を心得ており、地上に受肉しても直感的な記憶を留めているものである。しかし、邪悪な本能が働くとこれを忘れてしまうことが多い」

○神法はどこに記されているのですか。
「意識の中にである」
-神法が意識に記されているのなら、人間に神法を啓示する必要があったでしょうか。
「人間は神法を忘れた、これを誤解した。神は人間がこれを想起することを望み給うのである」

○神は誰かに、神法啓示の使命を与えられたことがありますか。
「ある。いつの時代にも、この使命を担う者達がいて、人類を進歩させる為に、高級霊達は地上に受肉した」

○人類を導くなどと言いながら、過ちを犯し、間違った論法で人類を迷わせた者はいませんでしたか。
「神霊に感じもせぬのに、野心によって、受けてもいない使命を受けたと僣称(せんしょう)した者達が、人類を誤り導いたかもしれぬ。それにも拘わらず、結局は、彼等は天才であったが故に、その誤りの教えの中にも、偉大な真理がなかったとは申せぬ」

○本当の預言者の性格は何ですか。
「真正の預言者は、神の霊気を吹き込まれた高潔な人物である。彼は、その言葉とその行為によって認められる。神は真理を伝えるのに、虚言者の口を使われることはない」

○神が選び給うたその典型は誰ですか。
「イエスである」

○神法すなわち自然の法を、人類に伝えたのはイエス一人だったのですか。イエス以前には、人類に、自分等の直感以上の知識はもっていなかったのですか。
「神法はどこにでも書かれている、このように申したことはなかったか。それ故に、知恵を求めて沈思した者達は全て、太古よりこれを理解し教えることが出来た。彼等は完全だったとは申せぬが、その教えによって、種を播く地盤が準備されたのである。神法は大自然の書物に記されている故に、これを求めさえすれば、人はこれを知ることが常に可能である。この故に、彼等が選び取る教訓は、高潔な人士の手により、いつの時代にも伝えられてきた。また同じ理由によって、神法は、なお不完全で知を欠き迷信的とはいえ、野蛮の域を出た民族には、いずれもこれが認められる筈である」

○真実の神法を既にイエスが教えているわけですから、今更霊からの教示にどんな役割がありますか。更に私共に教える何かがあるのでしょうか。
「イエスの教示は寓話的であり、たとえ話をもって語られている。それは当時の時代と地域状況に応じたものである。今日では、真理は知的にこれを語るべき時代となっている。諸君等の中、何人がこれを理解しこれを実践しておられるか。故に、今日神法を述べ、これを拡げていく必要があるのである。我等の使命は、全ての者の目と耳を打つことである、その鼻柱を叩き潰す為に。また、人々の偽善の覆いを剥ぎ取ることである。道義と神への信を卑怯にもその手で覆い隠している偽善を暴く為に。我等はイエスの述べた神の国の到来を準備するものである。つまりは、人がその感情に委せて勝手に神法の解釈をしていたり、また、全き愛である神法の意味を曲解したりしている、これらを不能とする為の解釈を与えることによってである」

○真理は、誰の手にも届く所に置かれていませんでした。これは何故ですか。
「物事は何ごとも、その時が来なければ、近寄っては来ない。真理とは光の如きもの。人はこれに一歩一歩目が馴れていくもの。そうでなければ、人は目が眩んでしまうのである」
「今日まで、神はいま人が受け取っているような、深く示唆に富んだ真理の通信を受けることを許し給わなかった。しかし古い時代にあっても、それを真理なりと信じ、世俗から知識をしっかりと守り続ける人々が存在した。世には御承知の通り、いかがわしい顕幽通信が沢山撒き散らされているが、古いものは或いはその中の、ほんの真理の断片と、諸君は左様お考えかもしれぬ。それにも拘わらず、これら古い時代の哲学、伝承、宗教、いずれも無視してよいものではない。その中には偉大な真理の種子が混じっている-それらは相互に相矛盾しており、つまらぬ装飾物が多すぎて、捻じ曲がっているけれども-今日では、その真実性が見分けられる心霊主義の鍵を使えば、容易にこれらは整合され得るのである。それ故に、古いものは無視してはならぬ。その中に多くの学ぶべきものがある。学べば得るところが極めて大なるものがあろう」

○道徳法を定義すれば、何と言ったらよろしいですか。
「道徳法とは間違いのない人生を送る法、換言すれば、善と悪を見分ける為の法と申すべきか。それは神法の遵守を基本とする。人が善をその目的、その道として選ぶ時、人は正しく道を踏んでいる、これが神法の道である」

○善と悪をどのようにして見分けたらよろしいですか。
「善とは神法と一致するもの、悪とは神法から外れるもの、これが目安。従って、善行を為すとは神法に従うこと。悪を為すとは神法にもとること、これである」

○人は善悪を見分ける手段を持っているのですか。
「𠮟り、神を信じ、善を為す望みを抱く時、それがある。神は善悪二つを見分けるようにと、知性を授け給うている」

○人が道を誤っている時は、善悪のけじめが狂っていることなのですか。これも、明らかに間違っていながら、自分では正しいと思い込んでいるのですか。
「イエスは申した[人から自分がしてもらいたいと思う事を、人にも為せ]と。全ての道徳法は、この戒めの中にある。これを諸君の法となせ、その時、道を誤ることはない」

○善悪の法、互恵と連帯の法、これは言うは易く、中々行うは難しいものがあります。自然の法の中に、この行為をうまく規制してくれる安全弁がありますか。
「過食すれば身体を害する。この不快感、神は人に必要な秤を与え給うた。この物差しを越えれば人は罰せられる。万事がこの通りである。自然の法は全ての人に、この必要な限度を刻み付けている。この限度を踏み出せば、人は苦しみを受けて罰を受ける。人は万事においても、[もう充分]この声に注意を向けておれば、身を苦しめる病気の多くは避けられるのである」

○この自然界に、なぜ悪などがあるのですか。悪とは道徳上の悪のことですが。神は人類をもっと良い環境の中に創ることが出来なかったのですか。
「既述の通り、霊は素朴で汚れのないものとして創られている。神は自ら道を選択するように、人間に自由を与えられた。もし誤った道を選んで悪に馴染めば、その分だけ彼の人生航路は長くなる。もし彼の前に山がなければ、人は上り下りのあることを知る機会はない。もし岩がなければ、世に固いものがあることを知ることもない。霊には経験が必要である。そのゴールに至るには、善悪ともに知らねばならぬ。この為に、魂は肉体を身にまとうのである」

○社会的立場が違えば、人の抱く欲求もまた夫々違ってきます。それ故、自然法は、万人に通用するとは思えませんが。
「地位や状況の違いは自然であり、進歩の法に従っている。その為に、万有に働く自然の法の統一性が否定されるわけのものではない」

○善悪は誰にとっても絶対的なものですか。
「神法は誰にとっても同じ。しかし、悪は悪を犯そうとする思いの中に住む。善は常に善であり、悪は常に悪である、人の立場が何であろうと、相違があるとすれば、責任の度合いだけである」

○野蛮人が本能のままに人肉を食べる時、これは罪を犯したことになりますか。
「悪の本質は意志にあると、先程申しましたな。されば、人はその心の光に応じて罪であり、罪ではない」

○悪は、時にはもののはずみと思えるものがあります。例えば、ある場合には、それは物の生命を奪うに至るまでの破壊の必然と申しますか。このような場合も神法の違反と言えますか。
「この場合も、事の成り行きとは申せ、悪は悪である。ただ、魂が浄化していれば、それに応じてこのような必然性と申すか、それも消えていく。この場合、過ちを犯せば彼は前以上にけしからんことになる。というのは、自分が何をしているか、その行為を前よりもはっきり知る者となっているから」

○人のせいで、そういう立場に置かれて、我々が悪を犯すということがしばしばあります。この場合、どこに一番の不都合な点がありますか。
「過ちを犯す原因となった者にある。つまり、人のせいでその立場に置かれ、過ちを犯す破目になった人は、道を誤らせた者よりも罪は軽い。何となれば、人は自分の犯した悪の罰だけでなく、人をそこに誘い込んだことの罰を受けねばならぬものだから」

○他者の悪行で利益を受ける者は、その犯行に参加していなくても、その犯行に参加した者と同じように罪がありますか。
「ある。ある罪から利益を受ける者は、その罪に参加することである。恐らく、その罪の実行には尻込みしたのであろう。しかし、悪が実行され、それから利益を受ければ、それはその行為をしたのと同じ事だ。そのことはまた、もしそれが自分に可能なら、敢えてしようとすれば、彼はその犯行に参加していたという事であるから」

○悪をしようと思うことは、その悪をすることと同じことですか。
「それは場合による。悪への欲求を自分で抑えることは良いこと、特にそれがやれる状況にある時には。しかし、やりたくても機会がなくて、それをやらなかった場合は、その悪をしたのと同じことである」

○神の目から見てよしとされ、未来の幸福を確実にするには、悪をなさなかった、この事で充分でしょうか。
「いや、そうではない。善を為すこと、自分に出来る限りの、この事がまた必要なのである。人は自分の為した悪の全てに対してだけでなく、し損なった善全てに対しても、その報いを受けねばならぬのである」

○その立場上、善行が行えないという人がいましょうか。
「善行が出来ないという人は一人もいない。善が行えないというのは利己主義の為である。他者と交わっているという事実がある限り、人は善行を為す機会を持つ。人が利己的でない限り、人は日毎善行の機会を持っている。何となれば、善事を為すとは、人に物を施すことに限らない、他者が助けを必要としている時、出来る限りの手助けをその人にしてあげること、これであろう」

○人の置かれている立場によって、悪徳や罪が非常に犯し易い、そういう事がよくあるのではありませんか。
「左様。しかし、これは本人の霊が出生の前に既に選んだ、試練の一つなのである。これによって抵抗の力を得んが為に、試練に身を晒すことを彼は選んだのである」

○悪徳の雰囲気の中に人が投げ入れられれば、悪への衝動は抑えられないのではありませんか。
「衝動は強い、しかし、堪えられない訳ではない。というのは、人は悪徳の中にあっても、徳行を為す機会を見出すものだから。悪徳の誘惑が充ちている中で、徳をしっかりと守る人は、もともと誘惑に負けないだけの力を充分備えている人であり、また、この試練を通じて、彼は周囲の人々に良い影響を与える使命を、果たしているのである」

○徳行の価値は、その時本人が置かれていた立場で、評価が違ってくるのでしょうか。換言すれば、善行には程度の差が色々あるのかという事ですが。
「徳行の価値とは、それを為す困難度にある。もし自己犠牲と努力がなければ、善事の価値はない。神はそれを、富者の多額の献金よりも、貧者の一灯をもって計り給う。イエスはその事を、老婆の例え話をもって教えたではないか」

○イエスの隣人愛の教えの中に、神法の一切は含まれるのですか。
「確かに、隣人愛の教えの中に、人が人に為すべき義務の一切が包含されている。しかし、これを具体的にどう実行するかを、人々に示さねばなるまい。でないと、今日これを実行するにしても、尻ぬけになってしまうのではないか。更に、天地の法とは、人生の全ての局面を包含しているものであって、諸君が指摘する法はその一部にすぎない。人には明確な指示が必要である。金言は余りに漠然としていて、さて、どう適用するかの段になると、戸惑うものである」

○自然法は十区分に分類したらいかがでしょうか。即ち、崇拝・労働・再生産・保存・社会・平等・自由・正義・情愛・隣人愛。
「神法を十区分に分けることは、モーゼの十戒にある。またこう分ければ、大事な点を逃さず、人生の全局面を覆うことになろう。それ故、この分類でよかろう。但し、この分け方が絶対だということでなしに、状況に応じて別の分け方もあり得る、という含みを残すことにして、上記のうち、最後のものは最も重要である。と申すのは、この隣人愛の中に、他の区分の一切が含まれるから。またそれ故、人間の霊性の長足の進歩は、この法の遵守いかんにかかっているのである」

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