霊的教訓の真髄は確かに単純素朴かも知れないが、全ての人間がそれだけで満足するかというと、そうはいかない。ある日の交霊会で[宇宙が創造された目的は何か]という難しい質問が出された。その質問者は具体的にまずこう訊ねた。

-人間は徐々に進化を重ねて、究極的に大霊の中に吸収されてしまうのであれば、なぜ人間を創造する必要があったのでしょうか。

「私は、人間が最後は大霊に吸収されてしまうという説をとっているわけではありません。いつも申し上げているように、私は究極のことは何も知りません。始まりのことも知りませんし、終わりのことも知りません。
 私に言わせれば、[存在]にはいつからということはなく、いつまでということもなく、いつまでも存在し続けます。地球上の全生命が他の天体の生命と同じように霊の世界を通過して絶え間なく進化し、意識が完全性を目指してゆっくりと上昇していきつつある状態が[存在]です。
 その意識なるものがいつ芽生えたかについても私は何も知りません。いつ完全の域に達するかについても知りません。私には完全とか吸収(寂滅)とかの時が来るとは思えません。なぜなら、魂というものは霊性を高めて向上するにつれて、言い換えれば、過去の不完全性の不純物を払い落とすごとに、更に大きな進歩の必要性を自覚するものだからです。進化すればする程、なお進化すべき余地があることに気付くものです。高く登れば登る程、その先にまだ登らねばならない高い所があると知ることの連続です。
 私の考え方は、大霊の一部である意識の、生活の中における開発と発展に主眼を置いています。この意識なるものは、私の知る限り無窮の過去から常に存在してきたものですが、それが様々な形態を通して顕現し、その表現を通して絶え間なく洗練されつつ、内在する神性をより多く発現していくのです。
 これまで、ありとあらゆる生命現象を通して顕現してきて、今なお顕現し続けております。今人間という形態で表現している意識も、かつては動物・鳥類・魚類・植物その他の生物と、無生物と呼ばれているもの全てを通して表現されてきたのです。これからも進化と成長を続け、発展し、拡張し、神性を増し、物質性を減らしていきます。それが創造の全目的です。大霊の一部である意識が、千変万化の形態を通して絶え間なく顕現していくということです。
 そのことに加えて、私は是非次のことも申し上げておきたいと思います。それは、人間の存在を創造の大事業と切り離す、或いは、縁のない存在として考えてはならないということです。なぜなら、人間もその創造活動に参加しているからです。創造的エネルギーが人間を通して働いているのです。あなたの人生、あなたの努力、あなたの葛藤が、無限の創造活動に貢献するということです。
 一つ一つの生命がそれなりの貢献をしております。その生命が高級になればなる程、つまり愛他性を増し排他性を減らすにつれて、変化に富んだ創造の世界に美しさを加えてまいります。画家や音楽家や詩人だけが、美への貢献をしているのではありません。あらゆる生命が-そのつもりになれば-美をもたらすことが出来るのです」

創造の問題は必然的にバイブレーション(波動・波長・振動)の問題となる。

-スピリチュアリズムでは[バイブレーション]という用語がよく使用されますが、これを分かり易く説明して頂けませんか。

「生命のあるところには必ず運動があり、リズムがあり、鼓動があり、バイブレーションがあります。生命は活動せずにはいられないのです。静止したり惰性的になったりすることはありません。生命には必ず運動が付随します。その運動を理解し、その意味を理解するには、まずその定義から始めなければなりません。
 私がバイブレーションという時、それはエネルギーの波動となって顕現している生命のことで、無数の生命形態ないしは現象の一つを指しております。存在するものは全て振動(バイブレイト)し、何かを放射し、活動しております。私達がこうして地上へ働きかけることが出来るのも、バイブレーションのお蔭です。
 私達は、普段は物的感覚の領域を超えたバイブレーションの世界で生活しております。霊的エネルギー、霊的パワー、霊的現象は、ことごとく物質より感度の高い、微妙なバイブレーションが成り立っております。
 地上のように、物質に浸り切り包み込まれている世界と交信する為には、次の二つの方法の内のどちらかを取らなければなりません。すなわち、人間の側がその低いバイブレーションを高めてくれるか、それとも私達霊側がその高いバイブレーションを下げるかです。両方が歩み寄ればよいのでは・・・・誰しもそうお考えになるでしょう。ところが、どうして、どうして、なかなかそう上手く行かないのです。いつも私達の方が、遠路はるばる下りて来なければなりません。地上世界からの援助はそう多くは望めないのです。
 この霊媒(バーバネル)を使って喋る為に、私は私本来のバイブレーションを下げております。その状態から脱け出て私本来の界へ戻る時は、その界に合った意識を取り戻す為に、バイブレーションを加速しなければなりません。このように、全てはバイブレーションの操作によって行われるわけです。それを簡潔に説明するには、バイブレーションという用語しか見当たりません。
 それにしても、長い間霊的な分野のことには一切耳を貸そうとせず、目を瞑ってきた科学者が、今になって、物質の謎を解くカギはバイブレーションにあるという認識を持ち始めたことは、興味深いことです」

続いて[祈り]の問題が持ち出されると-

「祈りとは何かを理解するには、その目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願い事を口にしたり、決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するような調子で陳腐な言葉を大気中に放っても、耳を傾ける人はいませんし、訴える力をもった波動を起こすことも出来ません。
 私達は型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が込もっておらず、それを口にする人自らがその内容に無頓着であるのが普通です。永い間それをロボットのように繰り返しているにすぎないからです。
 真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかし、いかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労力の代用とはなり得ません。
 祈りは、義務を回避しようとする臆病者の非難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果律を少しも変えることは出来ません。
 人の為にという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出る祈り以外は、全て無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)(注)な行為であるが故に自動的に応答のある祈りです。自動的ですから、その応答は必ずしも本人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す、自然な結果です。

(注 サイキックというのは五感の延長としての、オカルト的な超能力が生じさせるもので、物質次元の中に入る。スピリチュアルというのは、物質次元から脱して霊的次元のエネルギーや法則が生ぜしめるもの-訳者)

 あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して、正直に、正々堂々と、真正面から取り組んだ時-解決の為にありたけの能力を駆使して、しかもなお力が及ばないと悟った時、その時こそ、何らかの力、自分より大きな力をもつ存在に対して、問題解決の為の光を求めて祈る資格が出来たと言えましょう。そして、きっとその導き、その光を手にされる筈です。あなたの周りにいる洞察力に富んだ霊は、あなた方の魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。例えば、あなたが本当に正直であるか否かは、一目瞭然です。
 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求める為の祈りもあります。すなわち、肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して、本当の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならば、その魂の行為そのものが、自動的にそれ相当の結果を招来するものだからです。
 このように、一口に祈りといっても、その内容・動機を見分けた上で論じる必要があるのです。
 ところで、キリスト教の[主の祈り]のことですが、あのように型にはまった祈りは、人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起原においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。儀式の一環としては重宝かも知れませんが、人間にとっては何の役にも立ちません。
 そもそも[神]とは法則なのです。自分で解決出来る程度の要求で神の御手を煩わせることはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした(とされる)時代から二千年近くも過ぎました。その間に人類も成長し、進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句の通りを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人に分かり易い言葉で述べたことは事実です。
 今のあなた方には、父なる神が天にましますものでないことくらい、お分かりになるでしょう。完全なる摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているのです。この宇宙のどこを探しても、完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。神は地獄のドン底にいるわけでも、天国の一番高い所に鎮座ましますものでもありません。大霊として宇宙全体にあまねく存在し、宇宙の生命活動の一つ一つとなって顕現しております。
 [御国の来まさんことを]などと祈る必要はありません。地上天国の時代は、いつかは来ます。必ず来るのです。しかしそれがいつ来るかは、霊の世界と協力して働いている人達、一日も早く招来したいと願っている人達の努力一つに掛かっております。そういう時代が来ることは間違いないのです。しかし、それを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛かっているということです」

-モーゼの「十戒」をどう思われますか。

「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。
 人間の永い歴史のどの時代に述べられたものであっても、それをもって神の啓示の最後と受け止めてはいけません。啓示というものは連続的かつ進歩的なものです。その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられているのです。理解力が及ばないほど高等過ぎてもいけませんが低すぎても駄目で、つまり、理解の及ぶ範囲より一歩先んじたものでなければなりません。
 霊界から授けられる叡知は、いつも時代に一歩先んじております。そして人類がその段階まで到達すれば、次の段階の叡知を受け入れる準備が出来たことになります。人類がまだ幼稚な段階にあった時代に、ある特殊な民族の為に授けられたものを、なぜ、当時とは何もかも事情の異なる今の時代に当てはめなければならないのでしょうか。
 もっとも私は[十戒]ならぬ[一戒]しか持ち合わせておりません。[お互いがお互いの為に尽くし合うべし]-これだけです」

-[霊力]とはどんなものでしょうか。実感があるのでしょうか。目で見て描写出来る性質のものでしょうか。

「随分解釈の難しい言葉をお使いになられましたね。[実感があるか]と仰るのは、どういう意味でしょうか。五感に反応するかということでしょうか。その意味でしたら、実感はありません。真実味があるかという意味でしたら、知識に真実味があり、叡知に真実味があり、進化に真実味があり、愛に真実味があり、ありとあらゆるエネルギーに真実味があるように、霊力にも真実味があります。
 私達にとっては、勿論真実味がありますが、霊覚が発達せず、その真実味が認識出来る段階まで来ていない者には、その存在は実感出来ません。一種のエネルギーです。霊的なエネルギーです。生命活動を操るエネルギーです。無知な人、偏見を抱く人、迷信に動かされるような人は、自分で幾つもの精神的障壁をこしらえ、その一つ一つが霊力の働きの障害となります。それがいつになったら突き崩せるかは、その障害の性質によって違ってきます。
 人によっては、霊的なものに漠然とした概念すら抱くことなく、地上生活を終えることがあります。そういう人は生命がすなわち霊であり、霊がすなわち生命であること、地上の全生命は霊力のお蔭で存在が維持されていることに気付きません。霊的実在については全く無知で、言わば、死が解放してくれるまで肉体という牢獄の中に閉じ込められた生活送るわけです。といっても、死んで直ぐに実在に目覚めるわけではありません。ご存知のように、それには永い調整期間が必要です。
 そうした、完全に無知な人とは別に、生命現象を創造し、支配し、導いている超越的エネルギーを、何らかの体験の中でチラリと垣間見る程度に意識する人もいます。更には、あなた方のように、こうして直接的に知識を獲得して、日常生活の中で霊力の恩恵にあずかる人もいます。心と精神と魂の窓を開いた方です。こうした方は、地上の生命現象の全てを表現している霊力と同じものの道具として、いつでも使われる用意が整っている方です。
 霊界の方でも、あなた方を通して他の受け入れ準備の整っている者を少しでも早く目覚めさせようと腐心しております。そうしたことに使用されるのは、みな霊力なのです。生命現象の全てを統制している力は、私の霊団が操作し、私がこうして話すことを可能にしてくれている力と同じものなのです」

そのシルバーバーチ霊団とホームサークルとの繋がりについて出された質問に答えて、こう語る。
「信じることです。わけも分からずに信じるのではなく、確固とした知識の上に立った信念を持つことです。確信です。これは使い古された用語ですが、私は何一つ新しい教えは持ち合わせないのです。それがあなた方の精神構造の一部となり切るまで、私は同じことを声の続く限り何度でも叫び続けます。確信を持つことです。あなた方が、あなた方なりの役割を果たしてくださっていれば、私達は私達なりの役割を果たします。決して見捨てるようなことは致しません。
 人間がインスピレーションにあずかるチャンスは幾らでもあります。ところが、取り越し苦労・疑念・不安、こうした邪念が障害となっているのです。こういう念が心に宿る隙を与えてはなりません。
 あなた方の協力を得て為さねばならない仕事が山ほどあるのです。目的意識を忠実に持ち続けることによって、私を援助して頂きたいのです。これまでの私の永い体験をもってしても、容易に克服出来ない障害が沢山あります。だからこそ、皆さんの私への忠誠心、確信、なかんずく、大胆不敵な心、つまり恐怖心・悩み・心配を精神に根付かせないように心掛けることで、私の力となって頂きたいのです。
 行く道を問題が過ぎることがあるかも知れません。が、構わないで放っておけば、そのまま行ってしまいます。居座ることはありません。解決出来ない程難しい問題は生じません。背負えない程重い荷を背負わされることはありません。取り越し苦労はいけません。明日がもたらすものに不動の信念と断固たる精神で立ち向かいなさい。万事上手く行きます。
 世の中には、あなた方のように霊的真理を手にした者による救いを求めている人が大勢います。あなた方は、そういう人を援助し、使命を果たす備えが出来ていなければなりません。どうのこうのと立派なことを言っても、それを人の為に役立てなかったら、つまり自分が手にした知識を他の人に分けてあげなかったら、折角あなたに授けられた知識の本来の意義を、自分の人生で生かしていないことになるのです。
 為さねばならないことが山ほどあります。私達の努力によって喜ばせてあげられる人が、あちらにもこちらにも大勢いることを自覚して、心躍る気分で仕事に邁進しようではありませんか」

 別の日の交霊会で、これから霊媒のバーバネルがトランス状態に入ってシルバーバーチが喋り始めるのを待ちながら、二人のメンバーがスピリチュアリズムの宣伝活動の価値について議論し合っていた。やがてシルバーバーチがバーバネルに乗り移って、こう語った。
 「私達がこうして地上へ戻ってくるのは一体何の為だとお考えでしょうか。少数の特殊な人の為?それとも大勢の人々の為?
 私達の説く真理は、一握りの人の為に、どこかの小さな団体、或いは秘密結社のようなところに仕舞い込んでおくべきものでしょうか。真理を知らずに迷い、絶望的になり、或いは悲嘆に暮れている数知れない人々の姿が、私達の目に見えていないとでもお思いでしょうか。
 私達がお届けするメッセージには重大な目的があるのです。世界中の人間に例外なく宿る宇宙の大霊、すなわち神の崇高な資質を顕現させることを目的としているのです。まず第一に、人生を支配している法則-物的生活・精神的生活・霊的生活を支配している法則の存在を説かねばなりません。
 続いて人生の目的、地上に生まれて来た理由、内部に宿る素晴らしい能力、潜在的神性、人間に為しうる貢献度、目指すべき理想的世界、身に付けるべき知識、到達出来る極致を理解させなければなりません。
 私達の説く真理は、最後は地上の全ての人間、それも地上に生きている内に実生活に応用することによって実地に学ばせる為に、地上の隅々に至るまで広められるべき使命を担っているのです。誤りを訂正し、不足を補い、これまでに人間が愚かにもしでかしたとの後片付けをするだけで、何十年も何百年も費やします。地上の人類がこうまで無知でなければ、そのエネルギーを別の用途へ向け、時間も無駄も省けるのですが・・・
 ここにお集まりの皆さんには、既にその知識があります。霊的知識について少しばかり多くのことを学んでおられます。霊的交信の素晴らしさも味わわれました。永遠に別れてしまったと思っていた愛する人との縁を、再び取り戻されました。遠大な神の計画の一端をご覧になりました。そしてその見事な構想に驚嘆されました。霊力の証も幾つかご覧になられました。高い世界からのインスピレーションの喜びも味わわれました。高い世界の知識の泉に近付かれました。
 こうしたことは一体何の為だったのでしょうか。自分一人で楽しむ為?勿論違います。知識には責任が伴います。今度は代わってあなた方が、その知識を自分に出来る範囲内で広めなければならないのです。あなた方が得た喜びが何であれ、それを他の人に回してあげるのが責務です。そうすることで一人でも多くの人が霊力に近付き、高い世界で待機している高級霊の愛を知り、これまで多くの男女に大霊の雄大な計画の一翼を担う道具となる決意をさせた、その強烈な力によって、更に多くの人が魂を鼓舞されるように努力しなければならないのです。
 知識に制約を加えようと目論む人種とは、縁を切ることです。知識は自由に広められるべきものです。それが無知と迷信と、余りに永い間、人類の足枷となってきたものを全て打ち崩すことになるのです。知識こそが魂を解放し、大霊からの授かりものである自由の喜びを満喫することになるのです。
 太陽の輝きを拝める筈の人間が、ローソクの明かりしか知らないとは、何という愚かしいことでしょう。私が一個の道具にすぎないように、皆さんも道具です。どこの誰ということなく、全ての人の心を解放してあげるのが私達の仕事です。それが地上世界に進歩をもたらし、大霊の子全てが霊的摂理に基づいて意義ある人生が送れるように、社会秩序を改めていくのです」

最後にこれからの見通しについて-
「私の関心事は真理を普及することだけです。真理こそが最も大切です。私の言う新しい世界が基盤とすべき永遠不変の霊的真理を理解して頂く為に、私は、ひたすら自分を役立てることだけを考えております。その大事業から外れたことをする人は、本来同胞の為に捧げるべきエネルギーを無駄遣いしていることになるのです。
 私達がこうして地上へ戻って来たそもそもの目的は、聞く耳を持つ人間の魂に刺激を与えて、新しい世界の為に地上の人間なりの役割を果たして頂くことにあります。地上世界は、形式への盲従が度を越しております。因襲を大切にし過ぎます。私は、知識の普及と、それを今なお暗闇にいる人々の啓発の為に使用して頂くこと以外には、関心はありません。私にとって宗教はたった一つしかありません。人の為に自分を役立てること-これだけです。教会・聖堂・信条・教理、こうしたものには私はまるで興味がありません。行為・生活・動機-これで評価します。
 霊的な知識を得た人が、それを正しく普及していく上において心しなければならないことは、それを無理矢理押し付ける事によって、肝心の霊界からの働きかけの邪魔になるような事態になってはいけないということです。霊力は勝手に制約したり命令したりすることは出来ません。発現出来るとみたら、どんな人を通してでも流入します。私達が欲しいのはそういう道具、霊媒、普通の男女-霊力が受け入れられ、霊の教えが語られ、知識が伝達されるような精神構造をした人達です。これは、のんびりと構えてはいられない問題です。
 私はなぜこの地上へ戻ってくるのか-実は、霊界へ送り込まれてくる人間の中に、もしも地上で霊的知識を身に付けていたら、こうまで酷くはならなかったであろうにと思われる敗残者、堕落者、霊的生活への備えがまるで出来ていない者が、あまりに多すぎるのです。無知と恐怖と迷信と偏見に満ちた者ばかりなのです。そうした地上の暗黒面を助長している勢力を打ち崩すことが、私達の仕事なのです。
 私はそれを敢えてスピリチュアリズムと呼ぶつもりはありません。私は自然法則について語っているだけです。[父なる神]などという言い方も致しません。私は宇宙の大霊という呼び方をしています。法則に目を向けます。宇宙の創造の目的に目を向けます。
 人間は霊的に成長しなければならないのです。もしも地上で為すべきことの一部だけでも成就出来たら、避けようにも避けられない宿命である次の霊的生活への準備が整ったことになります。そうなるように仕向けるのが、私達がこうしてあなた方の世界へ戻って来る目的です。同胞である地上人類への愛に発しているのです。情愛の絆が我々を結び付け、私達があなた方に真理を語り、代わってあなた方が同胞の為にそれを語り継いでくださればよいのです。
 私は、ただ私が見てきたままの事実を述べているだけです。そしてその評価は、あなた方の理性に訴えております。それが最高の判定者であると考えるからです。とにかく正しい知識を広めることです。迷信を突き崩すのです。光明を輝かせ、闇を無くすのです。古くからの誤った権威を亡ぼすのです。強欲・貪欲・私利私欲・旧態依然たる教理と慣行の息の根を止める為に、何とかしなければなりません。
 そうしたもの全てが霊力の敵です。断じて無くさないといけません。新しい世界にとっての障害物です。行く手を邪魔するものは、たとえ一時的にせよ、神の計画を妨害していることになるのです。真理はいかなる組織・団体よりも大切です。難しく考えることはありません。真理は極めて単純なのです。ところが人間はそれでは気が済まないのです。
 形式と慣習を好みます。よその形式と慣習を真似したがります。よそが教会を建てると、自分のところも教会を建てないと気が済みません。よそが祈祷で儀式を始めるようになると、自分のところでも賛美歌をこしらえます。もっとも、その多くの文句が同じで、歌い方を変えているだけですが・・・よそが説教を始めると、自分達も説教を始めます。
そんなことをしなくても、ただひたすら霊力を第一に考えておれば、大霊についての知識と霊的法則の普及の為の合流点は、幾らでもあるのです。そのことが何より大切です。
 レンガはあくまでもレンガです。建築物はあくまでも建築物にすぎません。そんなものに手を合わせてはいけません。忠誠を捧げるべきものは宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理です。そのことを知った者は、その真理の炎を絶やさぬように努力し、向かうべき方角も分からずに迷っている人々に、いつでも希望と慰めと啓示を与えてあげられるようになることが勤めです。
 地上界は暗黒に満ちております。人生に疲れ、生きる意欲を失い困惑している人々、慰めの一言、一片の真理を渇望している人々が大勢います。あなた方による援助を必要としております。そういう人々の為に、あなた方は一刻を惜しんで真理普及の為に努力すべきです。その霊的真理こそが、その人達にとって人生を建て直す磐石の土台となることでしょう」