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自殺の霊的知識へ

カテゴリ:★『シルバーバーチの霊訓』 > シルバーバーチ 霊言集

○肉体のある内は、霊界の美しさは分からない。かの世界の光・色・風景・木・鳥・川・山・花、その美しさを皆さんはまだ知らない。だから死を恐れる。

○死が恐ろしい顔で人の心を脅かす。だが死んで初めて人は真に生き始めるのだ。今貴方は生きている、しかし本当は死んでいると言っても過言ではない。然り、多くの人は、霊的事物に対しては、死者も同然だ。か細い生命力が、弱々しい肉体の中で、明滅している。だが霊的なことには、何の反応も示さないのだ。だが地上では、徐々に霊力が力を増していく。そうして暗黒が次第に後退していく。

○霊界を地上と比べれば、その差は筆舌に尽くし難いものがある。いわゆる死者である私達は、皆さんと比べれば、生命について遙かに多くのことを知っている。

○ここに来て、芸術家の夢は現実となる。画家と詩人の夢想が現実となって現れる。天才は自在の表現力が発揮出来る。地上の束縛は消滅し、天賦の才と持ち味が、互いに助け合いつつ遺憾なく発揮される。
 ここでは、気持を表現するのに、言葉などという不便なものはいらない。思想、これが生きた言葉であって、電光石火の速さでそれは伝わる。

○ここには、私達を悩ませるお金等は無い。争いもなければ、弱い者苛めもない。ここで強者とは、自分より不幸な者へ、何か与えてやれるものを持っている者のことである。
 ここには失業がない。貧民街もない。どんな利己主義も存在しない。ここには派閥というものは一切なく、私達は唯一つの宗教をもっているだけだ。私達には一冊の教典もない。唯神法の働きがあるだけで、それが私達を導いている。

○死ぬことは悲しいことではない。地上で生きること、それこそ悲劇である。
 利己主義と強欲と貪欲の雑草が生い茂り、まさに息絶えそうな神の国を見ること、それこそ悲劇である。

○地上には、霊界の輝きの一片だに、絵に描き得た画家は一人もいない。又音をもって、この輝きを少しでも奏で得た音楽家は、一人もいない。更には言葉をもって、その美の欠片すら、表現し得た作家は一人もいない。

○今は五月、地上も今は美しい季節、辺り一面、神の御業が世を飾っている。しかし今皆さんが見ているものは、霊界の美のほんの影法師にすぎない。ここには、皆さんが夢想だに出来ない、美しい花や木や鳥や山や小川がある。いつの日か、皆さんもこの美しさを味わう時が来よう。そう、皆さんは幽霊になるわけだが、しかし、それこそまさに、皆さんの真実の存在であるのだ。

○皆さんは霊界に来ているのだが、そのことを少しも覚えていない。毎晩のように、皆さんはこちらの世界を訪問している。これは将来の準備の為だ。こうしておかなければ、死後霊界生活を始めるに当たって、大きなショックを受けるだろう。さて、皆さんは死後こちらの世界へ来ると、初めて生前訪問の記憶を思い出す。

○(問)死後、低い境涯に行く霊魂の状況はどうでしょう。彼等は睡眠中の訪問-恐らくは低い世界-を思い出しますか。又その記憶のお蔭で、自分の状況が良くなることがありますか。
(答)低い世界へ堕ちる霊魂は、生前睡眠中に行った世界へ行くのである。だが、その記憶があっても、自分の今の実状を理解するのには役に立たない。というのは、彼等の置かれたその世界は、大変現世の姿に似ているからである。他界は低い世界程、その外観が現世に似ている。それは波長が鈍重だからだ。高い世界に行く程、その波長は漸次精妙となる。

○(問)私達は目が覚めてから、睡眠中の他界訪問を思い出すことがありますか。
(答)皆さんの霊が肉体から離脱している時は、脳という現世的束縛から自由になっているわけだ。本人の進歩の程度にもよるが、そういう場合は、本人の意識は他界の波長で経験を重ねながら、その意識をちゃんと持っている。但し一旦霊が肉体に戻り、睡眠中の霊の経験を記憶に呼び戻そうとすると、これは上手くいかない。つまり脳と霊とでは、器の大きさが違うからだ。小さな脳は大きな霊の経験を受け入れることが出来ず、記憶を歪めてしまう。
 これは丁度、小さな袋の中に、多くの物を押し込もうとしているようなものだ。袋にはほんの少ししか入らない。だから皆さんはこれを押し込もうとする、すると物は姿形がまるで違ったものになってしまう。眠りから覚める時の状態は上記のようだ。
 しかしながら、本人の魂が向上していて、意識の程度も進んでいれば、霊界のことが分かっている。だからこの場合は、脳を訓練すれば、容易に記憶を残しておくことが出来る。
 私は皆さんと話をしたり、あちこち霊界の案内をしてあげた。そして「現界へ帰っても、忘れてはいけないよ」と言ってあげるのだが、皆さんはそんなことは、すっかり忘れてしまっている。

○(問)睡眠中の他界訪問は、それはそれなりに積極的な意味があるのですか。それとも、それは単に死後の生活の準備にすぎないのですか。
(答)睡眠中に手助けをしてあげられる人々が沢山いる。だから皆さんの中にも、こういう仕事を睡眠中にやっている人達もいる。だが一般的には、これは準備の為である。皆さんは色々な場所へ連れて行かれる。それは死後の準備として役立つからだ。もしこうしておかなければ、現界から他界と、全く事情の違った世界へ入って来た時、ショックが大きすぎて、永い間それから立ち直れなくなるから。

○予備知識のある者は、他界へ入るのも容易、これがなければ、慣れるまで長期にわたり、眠って休まねばならない。これは丁度、戸を開けて戸外の陽光の中へ出るようなもので、それには光に慣れる必要があるということだ。
 この世でもあの世でも何ものも失われることはない。人の心から放たれる奉仕への念・行為・欲求・その一つ一つは必ずどこかで誰かの役に立つ。もし貴方がその念をもてば、必ず貴方の傍に、貴方を助ける者達が近付いて来る。

○(問)もし、ある人が死後のことを何も知らずに死んだ場合、その人は私達の思念に反応を示したり、その意味を理解したりしますか。
(答)死後の目覚めは、自分の死の自覚から始まる。だから、死後についての知識をもっていれば、それだけ早く目覚めが来る。死についての無知・誤解・迷信や歪められた教義・神学、これらは何としても打開せねばならない。これらは死後の生活にとり何の役にも立たない。又こういう誤解を解くには、魂は永い時間かけて、まずもって新世界に慣れる必要がある。だからういう魂は、長期間にわたり休憩の状態に入る。
 地上には、病者や怪我人の為に病院がある。そのように私達も、傷ついたり弱った魂の為に世話をしてやらねばならない。しかし地上で大きな奉仕や愛に身を捧げた人は、死と共にその人への善意や愛情や祈りが、霊界にまで伴い入って来て、その波長が本人を助けるので、魂の目覚めは早められる。

○(問)霊魂不滅を認めないで、死が全ての終わりと信じている人が死んだ場合、どうなりますか。
(答)彼とても死によって一切が終わるわけではない。又その思想は大自然の事実と反しているのだから、いつか目を覚ました時、死の事実と直面せねばならない。
 さて、その目覚めにどれ位の時間がかかるか、これは、本人の魂の進歩の程度いかんによる。

○(問)上記のような人の死には、困難が伴いますか。
(答)それは本人の魂の進歩いかんによる。概して現世から他界への移行には困難はない。一般的には死につつある人に意識はなく、無意識の内に他界へ移行する。この移行を意識に留める者は進歩した魂のみである。

○(問)もしその人が善人であって、しかも死後の生存を信じていないとすれば、そのことの為に何か苦しみを受けることがありますか。
(答)善とか悪とか、私にはその言葉の意味は分からない。しかし質問の件については、本人の送った生活いかん、即ち本人が尽くした他への奉仕いかん、内在の神性の発揮にどれ程機会を生かしたか、唯これだけが問題である。勿論、死後存続については、知らないより知っている方がよろしい。だが何といっても一番の眼目は、毎日どんな生活を送ったか、これである。

○(問)愛し合っている二人は霊界に入ってから、再び一緒になりますか。又若返りますか。イエスはあの世には結婚はないと言っていますが。
(答)男と女が互いに愛し合い、その愛は一身同体のようであり、現界に在りながら同じ霊界に住んでいるような二人なら、死によっても二人は離れることはない。かえって死によって魂は自由となり、物質界にいた時よりも、更に緊密に一つとなるのである。
 しかし二人の結び付きが、魂のそれでなく、肉体だけの結婚で、霊的には別の世界に住んでいたものなら、死によって二人は離れ離れとなり、それぞれ固有の霊的世界へ入って行くのである。
 イエスがあの世には婚姻はないと言ったのは、肉体の結婚をさして言ったので、魂の結婚のことではなかった。男があり女がある、これはお互いがお互いに役立つからである。女は男に、男は女に必要である。神は、男女二つの原理をもって、完全なものとなし給うた。人が霊界で進歩するに従い、両者の相違は段々なくなっていく。

○(問)他界で罪を犯すことがありますか。他界では、一般にどんなことを罪というのですか。
(答)勿論、罪を犯すことはある。霊界での罪とは、利己主義の罪である。唯地上と違うところは、その罪がすぐ露見するということだ。心に罪を抱けばその途端にそれがばれてしまい、その結果がたちまち現れること、地上世界とは比較にならない。罪の結果は本人に記され、その為本人は霊的に低下する。

○(問)肉体を離脱して後、人が霊の世界でまとう媒体は、肉体程に固く、かつ真実なものですか。
(答)肉体より遙かに真実で堅固である。地上とはいささかも実体をもった世界ではない、それは霊界の投影にすぎない。霊界こそは本当の世界、だが霊界に入ってみなければ、このことは理解出来ないだろう。

○(問)物質界が私達の目に映るように、霊的な目には、霊界は自然であり、かつ物体のように見えるのですか。
(答)それは遙かに実体をもったものに見える。皆さんは、現在いわば囚人である。貴方の周囲には、肉体という壁がそびえ立ち、貴方を閉じ込めている。だから、貴方は本当の自分というものは、ほんの僅かしか発揮していないのだ。

○(問)霊界では、心と心で意思を通じ合うのですか。それとも言葉を使うのですか。
(答)言葉を使わずに話が出来るようになるまでは、言葉を使う。

○(問)死の時、息が実際に止まった時、どんな事が起こるのですか。
(答)もし魂の意識がはっきりしていれば、幽体が次第に脱け出ていくのが見える。次いで、ふと自分が霊の世界にいることに気付く。そこで、彼は自分を迎えに来てくれた霊達の存在に気付く。これは新生活を始めるに当たって、中々役立つことなのである。もし死の時、魂が意識を失っていれば、助けられながら死の関門を通過し、必要な所へ-それは病院であったり、憩いの家であったり-連れて行かれ、そこで、新生活を自覚する為の準備を受けるのである。

○(問)私達が死んで霊の世界に入ると、故人となった親戚の者達に会うのですか。
(答)もしお互いに愛情があれば会うし、なければ会うことはない。

○(問)貴方達霊魂が住んでいる霊界の境域は、地球とか太陽とか遊星とかを、取り囲んでいるのですか。
(答)いや、そういうものではない。霊界の境域とは、こことかそことかの、場所的な境界をもつものではない。又、球体とか星とかという形をとって在るものではない。それは広大な宇宙の部分、しかもあらゆる世界のあらゆる生命と、交じり合い浸透し合ったものである。皆さんはこれらの霊的世界の幾つかを知っている。しかしまだ知らない世界が色々ある。何となれば、宇宙にはまだ皆さんには分かっていない生命が生存する星が、沢山あるからである。

○(問)霊魂の移動する速さには、制約がありますか。
(答)私達霊魂の移動には、時間と空間の制約はない。霊界に生きている者にとって、限界というものは何一つない。私達は地上世界のどこへでも、思念と同じ速さで移動出来る。しかもそれは思念の移動でなく、実体そのものの移動なのだ。唯霊的進歩の段階に応じた制約というものはある。つまり、その段階を超えて上へ行くことは出来ない。つまり、自分の人格の占める位置より、上の霊界へ行くことは出来ない。制約といえばこれであるが、しかしこの制約も、霊魂の霊的生活上の制約ということである。

○(問)生物が住んでいる星には、地球の霊界とは別の霊界があるのですか。
(答)皆さんのいわゆる霊界とは、あらゆる星のあらゆる生命を包含する、宇宙の霊的な表現にすぎない。

○(問)では、霊界とは唯一つのものがあるだけですか。
(答)そうだ。しかしその一つの霊界が無数の霊界となって現れている。地球の物質界と同じように、地球以外の星も、それぞれ霊界で囲まれている。つまり、これらの星も、物質的表現だけでなく、霊的な表現をもつものであるから。

○(問)それら霊界の間には、いわば地理的な境界がありますか。
(答)地理的なものはない。だが、精神的な範囲という意味では境界がある。しかもその境界はある程度まで、その星の物質界の影響を示すものである。
(問)その境界とは、いわゆる天体と天体との間の境界のようなものですか。
(答)そうだ、地上生活の影響を超えて霊が進歩する迄は、当分の間、霊界にもそういう境界があるというわけだ。

○(問)死刑執行人は他界に入って、どんな裁きを受けますか。
(答)もし、本人がこれはいけないことだと知っていれば、知っているが故の罪に対する罰を受けねばならない。又これを知らなければ、罰を受けることはない。

○(問)肉食に対する罰を死後受けますか。
(答)もし皆さんの魂が進歩していれば、又、もし皆さんが、神の被造物の弱いものを食べることは、間違いだということを知っていれば、いけないと知りつつ犯した罰を受けることになる。もし魂が未発達ならば、肉食を誤りと気付かないから罰はない。常に、知っていることに対しては、代価を支払わねばならない。その代価とは責任である。

○私の霊界通信は、霊媒の語彙と霊媒の魂の進歩の程度、この二つの制約を受ける。私が通信を送る場合、霊媒の語彙が貧弱だったり、魂が進歩していないと、どうしても思うような通信が送れない。つまり、通信したいと思う内容を受け入れてくれないわけだ。だから霊媒の魂が進歩していくと、今まで通信出来なかったことが通信可能となっていく。
 私は言葉を送るのでなく、思想を送る。つまり、私は霊媒の脳のどこにどんな言葉があるかを、今日ではよく知っているからである。そこで、私は予め準備しておいた思想を、すっかり通信することが出来る。

○この霊媒を使い始めた最初の頃は、色々困った事があった。例えば、霊媒の脳からある言葉を取り出そうとすると、それと関連のある別の言葉まで飛び出してくるのである。そこで私は神経中枢、特に脳中枢の統御法を勉強し、正しい言葉だけが使えるようにしなければならなかった。といっても、完全に不要な言葉が除去出来るというわけではない。何となれば、霊媒を通じると、ある程度霊媒の用語の色合いが、私の思想に加わることがあるからである。しかしながら、その為私の通信したいと思う本旨が変ってしまうということはない。

○人間の肉体は大変複雑なもので、これは実際他人の肉体を、霊媒として使った者でないと分からない。心臓を鼓動させ、血液を流動させ、肺臓を収縮させたり膨張させたり、全ての神経中枢には絶えず正常な刺激を与えておくようにせねばならぬ。又霊媒の潜在意識の流れを断ち切り、自分の思想を絶えず流しておくようにせねばならぬ。これはとても容易なことではない。いわばこれは、赤ん坊が一歩一歩と歩く勉強をするのと同じ事で、霊媒使用も初めはこうして一歩一歩学んでいく。現在では、私はこれが自動的に行なえるようになっている。

○又通信を送る為には、霊媒の潜在意識に、通信の道を作らねばならない。その為私達は永年にわたり、私達の思想や考え方や用語を注入するのである。
 もし、霊媒の潜在意識の中にある思想を使いたければ、潜在意識中の既知の道の方へ押しやってやればよい。これはレコードをかけるのと同じことで、溝に針を置けば、後は自動的に動くというわけだ。しかしそれと違って独自の通信を送るとなると、予め新しい溝を作っておかねばならぬわけだ。

○私がこの部屋に入る時は、壁を突き抜けて入る。私の波長からすると、壁は物質と感じないからだ。だが、私が霊媒のオーラの中に入ると、固い壁の中に入った感じとなる。それはオーラに私の波長を合わせるからだ。今の私には、霊媒のオーラは牢獄であり、霊媒の肉体の五感によって制約を受けている。
 私は波長を落とさねばならないし、霊媒の波長は上げねばならない。この操作を習得するのに、私は十五年を要した。
 霊媒のオーラの中にいる時は、暗闇の中で物を見ることが出来ない、それは霊媒の肉体の制約を受けているからだ。私は、霊媒が子供の時代に学ぶべきことは何でも学んでおかねばならなかった。唯、霊媒の足を使うことはないのだから、足の勉強の必要はなかった。唯、霊媒の脳と手の使い方を知ろうと勉強した。

○私が霊媒に憑りながら、同時に他の霊からの通信を代弁する場合、霊媒の耳で聞いているのでなく、私の耳で聞いている。私にもオーラはある。これは霊媒のオーラのように鈍重なものではない。さて、私が霊媒のオーラの中に入っている時、別の霊魂が来て私のオーラに彼の思想を注入している。これは皆さんが電話をかけながら、他方では傍にいる別人と会話をしているのと同じ事だ。これは二つの異なった波長を使っているわけだ。皆さんはこれを同時にはやれないが、交互にならこれがやれる。

○物質界とは鈍重で緩慢な世界。霊界通信に当たっても、霊の方で精妙高級の波長を無理に下げていくと、途中で霊感が滅失してしまったりする。霊界を光の世界とすれば、地上は暗黒陰湿の世界である。

○皆さんは、光まばゆい太陽の本当の姿を見たことはない。皆さんが見ている太陽は、色褪せた太陽のイミテーションにすぎない。丁度月が太陽の影を反射しているように、地上の太陽も、霊界の太陽の色褪せた反映にすぎない。

○私は地上に来れば、籠に入れられた小鳥のようなもの、ここを去る時はあたかも無限の空を嬉々として飛んで行く鳥である。死とは、鳥籠の戸を開くこと、捕われの身の鳥が空へ放されることである。

○皆さんが私に通信を求める時、私は、皆さん宛の通信を私に伝えてくれる波長に、自分を任せる。すると通信が私に伝えられてくるのだ。調子がよい時は、易々と必要な通信が全て得られる。もし何か悪条件、例えば交霊会場付近に邪魔が入ったりすると、急いで通信を別の通信に切り替えなければならない。つまり別の波長での通信を始めるわけだ。

○ある霊からの個人的な通信を取り次ぐ場合、聞きながらその言葉を繰り返しつつ伝える。これは私が霊媒を通じて話すのと同じ波長で、相手の話を聞けるからだ。しかし高級な教訓を取り次ぐ時は、波長が違う。それは別の意識が使用されるからだ。この場合、私は絵や幻や符号や直感で印象を受信せねばならない。それは丁度、霊媒が私達からの通信を印象させられる方法と同じだ。この時は、私は皆さんがシルバー・バーチとして知っている波長より、更に高級な波長を発揮せねばならない。
 画家が霊感を受けると、平常とは違った波長と感応している。この状態の時、彼は一つの力の虜となっており、これあればこそ、画布に映像を写し取ることが出来るのである。だがこの霊感が一度去ると、もはやその力はなくなってしまう。私が霊的法則の真理を通信しようとする時は、高級霊と感応出来るような意識を、自分の中に発揮せねばならなくなる。これによって初めて、高級霊は私に感応し、私はその伝達係となることが出来る。

○(問)通信霊は、霊媒の身体の中に入って話をするのですか。
(答)必ずしもそうではない。大抵の場合は霊媒のオーラを通じて霊媒を動かしている。
(問)通信霊は、霊媒の発声器官を利用するのですか。
(答)時にはそうすることもある。今の私は、霊媒の発声器官を使って話をしている。又しようと思えば、自分の発声器官を臨時に作って、話すことも出来るが、これは力の無駄使いというものだ。まず私は霊媒の潜在意識を支配する。これで霊媒の肉体器官の一切が、私の思いのままとなる。この場合、霊媒の意志は横へ退いてもらう-これは本人の承認のもとでそうする-こうして暫時、私は霊媒の肉体の主人となるわけだ。通信が終わると、私は霊媒のオーラから退く、すると霊媒の意識は元に返る。
(問)霊媒の幽体も、肉体の外へ出してしまわねばらないのですか。
(答)そうすることがしばしばある。だがこの時も、幽体は常に、幽体との繋がりを保っている。

○(問)交霊会を開く前には、現象の邪魔になる霊魂を除去するように、準備をしなければならないのですか。
(答)その通り、一番よい準備とは、皆さんが心に愛をもつことだ。これがあれば、皆さんの周りには、愛に満ちたものだけが集って来る。

○(問)交霊会にあたって、霊界では何か注意をしますか。
(答)まず道を清め、霊界のサークルと地上の皆さんのサークルとの間の調和に努め、よく一切の要素を混ぜ合わせて、最良の結果を生むようにする。私達はこの目的に向かって高度な組織的な団体として働く。

○(問)霊魂と感応し易くなるには、どうしたらよろしいか。
(答)私達はあらゆる努力を払って、皆さんに近付こうとしている。だが近付けるかどうかは一に皆さんのもっている雰囲気いかん、皆さんの魂の進歩成長いかんにかかっている。霊的なことに何の関心もない人には、私共としては、どうにも近付く手がかりがない。魂が生き生きとして、知覚と理解に溢れていれば、必ず私達はこれに近付いて交わりを深め、自他一体となることが出来る。
 私達が近付ける人物とは、必ずしも神霊主義者と限ったわけではない。霊的事物に知識と理解がある限り、神霊主義者であるかどうかは問うところでない。どうか感受性に富み、心にゆとりのある人物となってもらいたい。
 こういう人に私共はどんどん近付いて行くのである。心に恐れや悩みや悲しみを抱いてはいけない。こういう人には、私達の方で近付こうとしても、何とも出来ない壁が出来てしまうのである。

○(問)私達が親しい死者に念を送れば、先方に届きますか。
(答)これは両者の魂の進歩の程度いかんで違ってくるから、簡単には答えられない。つまり、死者の魂の程度が地上の本人と同程度なら、その念は届く。だが、両者の魂の程度が相当違っていれば、その念は届かない。

○(問)私達が死者についてあまり考えすぎると、死者の進歩の妨げとなりますか。
(答)地上の皆さんには、霊界の私達の進歩を妨げるような力はない。私達霊魂の進歩は、ひとえに自らの行為いかんによって定まるのであって、皆さんによってではない。

○(問)どうしたら霊能者となれますか。
(答)神に仕えようと志す者は、誰でも神の霊媒である。どうしたら魂が進歩するのか、もう一度説けと言われるか。何度も話した通りだ。自分のように人を愛しなさい。奉仕をしなさい。進歩向上を心掛けなさい。内在の霊性を発揮させることなら何でもやりなさい。これこそ最高の霊能発揮というべきである。どうしたら霊視者となるか、そんなことはどうでもよい。唯どうしたら魂の目を開くことが出来るか、神の光が貴方に届くか、これだけをお伝えしておこう。霊媒への道も又これと同じである。

○(問)世俗を離れ、孤独の中で瞑想する神秘主義によって、善いものが得られると、貴方も信じておられますか。
(答)それは「善いもの」の内容いかんによる。勿論、俗塵を離れれば、霊力を開発するには具合はよろしいだろう。善いものとはこの点までだ。だが私からすれば、世俗を離れるより、むしろ世俗の中にありつつ、刻苦奮励して、内在の珠を磨き、この天賦の力をもって世の為人の為に奉仕することの方が、遙かに立派なことである。

○私達霊界人は、一人で事を行うということはない。協力が法則であるからだ。私達はその仕事に必要な全ての個性の人々を集めて、これをうって一丸として、出来るだけ完璧な一団を形成する。
 そしてその中の一人が全体の伝達係となる。私はそういう伝達係なのだ。仕事の成果とは、集団の団結の成果である。仕事が上手くいくというのは、個々人が全体によく溶け込んでいるということである。
 指導者が賢明なら、各成員にそれぞれ最も適した仕事を割り当てる。これでこそ最高の結果が得られるというものだ。これはあたかもオーケストラのようなもので、各人それぞれの楽器を奏しながら、全体が一つの調和のもとに演奏すればこそ、完璧な結び付きといえる。仮にその中の最小の一人でもが音を誤れば、他が全て秀れた奏者であっても、不調和を生み出す。協力は法則である。

○(問)心霊現象の場合、列席者の心霊力が利用されますか。室内の器物も利用されるのですか。
(答)その通り。敷物・カーテン・書物・家具、何でも利用する。私達霊魂には肉体がないから、他の物質を使わねばならない。そこで、現にそこにある物質から、ある程度物質の原料を獲得することになる。私達は物質を破壊しないように、色々な物から小量ずつ獲得する。もし大量に取ると、皆さんの目の前で家具はバラバラに壊れてしまう。

○(問)物質化現象をやる実験室のカーテンの傷みが早いことがあるが、それはそういうわけですか。
(答)その通り。だが私達は慎重にやっている。物質化に必要な色を、物体から取り出すこともあるが、皆さんが私達の仕事をよく知るようになれば、そこには一分の無駄もないことが分かってもらえよう。だが何といっても、最大の力は皆さん各人の内部から出る力である。これこそ最大の原料である。
 霊媒は交霊の力だけでなく、自己の霊魂のもつ力をも発揮せねばならない。霊媒の霊魂の力が高ければ、エクトプラズムの性質も高まるということを知ってもらいたい。私達は石ころや棒切れを取り扱っているのではない。霊媒内部の生命のエッセンス、これを取り扱っているのだ。だから、霊媒のもっている思想や人格や心理は、エクトプラズムの中にこもる。

○交霊会で、現象の生起を求めて待っている時間、それは決して無駄ではない。皆さんと私達との結び付きは強められ、皆さんの魂の力がどんどん集められている。

○皆さんの魂が目を開き、波長が段々高級になるにつれ、皆さんは更に高い偉大な霊力に結び付いていくことになる。その霊力は目に見えず耳に聞こえなくとも、霊的な永遠の実在である。皆さんは日ごと影を追い幻を求め、その場限りのものに目を奪われて暮らしている。だが沈黙の中で、調和や愛の中で、皆さんの魂は絶えず進歩していくのである。その進歩は遅くても、狂いはなく確実である。

○皆さんの内在の神は開顕し、もっともっと神性を発揮出来るようになる。それは、今皆さんがここに一箇所に集まり、心が一つに解け合っているからだ。かつてイエスも言ったように、人が二人でも三人でも、心を一つに集まれば、必ず神がそこに在って祝福を送り給うと。私達も同じ事を教えるのだが、人はこれを聞いてくれない。

○心理は不変である。人の心は変るが、真理は変るものではない。それは真理が知識に基づき、知識は神から来るものであるから。神こそはあらゆる霊感の源泉、中心である。このことは甚だ易しいこと、簡単な道理だが、地上の者は、これを難解なものにしてしまった。

○皆さんは神に心を一つに向けながら、ここへ来て座っている。そのことは一瞬たりとも無駄になってはいない。愛と調和の気持をもってここに集まれば、そこには必ず力が生じ、その力によってこの世界からあの世界へと、橋が架けられる。この橋を通り、霊界から多数の霊が地上へやって来る。そして地上に、新しい光と新しい力と希望とを、もたらそうとするのである。どうかこの事実を忘れないように。
 我々がこうやって談笑している間にも、実はその背後には、大きな目的が存在しているのである。その目的とは、この地上に、皆さん一人一人を通じて、神法をいよいよ発揮させようということである。その目的に向かい、皆さんはいずれも身を捧げて来た。この共通の目的をいよいよ強く、神を更に強く受け入れようとするにつれ、皆さんは神の力を、地上へ更に更に多くもたらすことになるのである。

○(問)交霊会でニコニコしていることは良い結果を生みますか。
(答)皆さんの魂に喜びが満ちていれば、それだけ皆さんは神に近付いていることになる。人は神。地上で、この貴方を犯すものは何もない。このことを思い出しなさい。私が永年かかって、皆さんに教えたいと思ったのはこのことである。もし皆さんが物質に心を煩わしているなら、皆さんは、この教えを学ばなかった者というべきである。
 とは言っても、私は決して物質を無視せよと言っているのではない。人は物質の世界にあって自己を発揮し、又しかるが故に、人はこの物質世界に責任を負う者であるから。しかし、決して、人が神であり、神が人であることを忘れてはいけない。神のものである力、即ち貴方の中にある力、この力あればこそ、貴方はいかなる物質にも勝って、それらに犯されるものではない。
 これがまさしく、一切の悪を退け、病気を克服して、あらゆる障害と闘うことの出来る力である。しかしこの力を用いる者の数は極めて少ない。昔イエスもそのことをこう教えている、「天国は汝等の内に在り」と。

○(問)お話によると、人は自分の器に応じて、霊的な知識を受け入れるということですが、とすると、未完成な人が霊媒を通じて霊魂不滅の証拠を求めることは、賢明な事と言えますか。
(答)証拠はいくら集めても、魂の進歩とはならない。人の受容能力とは、どれだけその人が霊的世界へ入り込んでいるか、どれだけ霊的世界の真理を理解するだけの魂の進歩をもたらしているか、そういうことである。このことを証拠の収集と混同してはいけない。この両者の間には、何の関係もない。世の中には、死後生存の証拠をもっていながら、しかも魂は一向に、霊的なものに触れていない人々がある。

○地上世界では、大きな意識の中で起こった体験を、小さな意識の中に記憶しておくことは大変困難である。人は死によって、初めて生きることを始めるのである。

○人は睡眠中に霊魂界へ行く。これは未来の生活に霊魂を慣らしておこうとの、神の定められた摂理である。こうしておけば、いよいよ死が来てもショックを受けることなく、霊魂が他界へ行ってから、隠れていた記憶が蘇りつつ、新しい環境に次第に慣れていくのである。これはあたかも、人が幼時に心を馳せれば、自ずからその記憶が蘇ってくるのに等しい。
 人は魂の進歩の度合いに応じて、行くことの出来る段階が違ってくる。睡眠中の人は全て霊魂のままで動き回るが、行動範囲に限界のある人もある。中には、睡眠中に霊界の暗黒界へ行く人もある。これは本人の魂の程度が釣り合っているからそこへ行くこともあるし、又自ら進んで、奉仕に役立つ為に出かける場合もある。
 他界の霊魂の中には、地上人の幽体が傍に来ることによって、助けられる者が沢山いる。バイブルにも、イエスがいわゆる地獄へ降って行くくだりがある。イエスは睡眠中に行ったわけではないが、原理は同じである。
 睡眠中の経験を記憶しておくように訓練することは可能だ。しかしこれは意識を訓練して、脳細胞に記録させるようにするわけだから、集中的な努力が必要である。これは人により難易の差がある。つまり肉体と幽体との連絡が緊密であるかどうかが問題であって、容易に記憶出来る人は、立派な心理的霊媒の素質があるといえる。

○(問)夢とは何ですか。夢には、一向に霊魂旅行の記憶とは受け取れないものがありますが。
(答)夢には色々ある。その一つは肉体的な現象であって、脳が眠って暫時、静かになると一種の反射運動を起こす、これが夢である。又夢には食べた食物によって起こるものもある。しかしこの外に霊魂界での経験が夢となるものもある。唯これは断片的にしか、人の記憶には残らない。夢はしばしば歪められてしまうことが多いが、
その理由は、人が霊魂界に来ると、地上的制約から解放されるが、さてこの霊的経験を記憶に残そうとすると、地上的制約にかかって歪められてしまうのである。

○(問)睡眠中に私達の霊魂は肉体から離れ、肉体は空き家同然になってしまうが、この場合、邪悪霊等に憑依されないように、何か手立てが立てられていますか。こういう悪い憑依を防ぐ役を務める守護の霊魂があるのですか。
(答)自然の法は、こういう憑依を防ぐようにちゃんと出来ている。即ちその法とは、人は憑依される条件がない限り、決して未発達霊に憑依されることはありえない、これである。霊魂は肉体の中にあるのではない、霊魂は肉体と同じ波長をもつものではないから。本当の貴方は肉体の内部に在るのではない。心臓と肺臓の間に鎮座している、貴方とはそんなものではない。貴方とは、肉体という機械を使いながら、自己を表現している意識、これが貴方である。
 睡眠中にどんな変化が起こっているかというと、貴方である意識は、肉体を通じて活動することを止めて、幽体を通じて自己を表現している。つまり霊魂界で活動しているわけだ。だから他の者が入り込んでくる余地はどこにもない。これは、貴方が肉体の扉を開いたから、他の霊魂が肉体に入り込んで、扉を閉めるという風に考えてはいけない。これとは全然違う。意識は依然として肉体を監督しながら、霊魂界で活動しているのであって、もう一度肉体と結び付く必要が起こったら、瞬間に、肉体に戻って来るのである。

○(問)では、ある人が憑依される場合、憑依した霊魂は、憑依された人の霊魂の許可を受けているということですか。
(答)いや、そうではない。だが、憑依された人物は、憑依されるだけの条件を自分で作り出しているのであって、憑依とは全く本人の問題だ。例えば、もし人が愛や奉仕の強い希望をもてば、これを助けてくれる高級な霊魂を引き寄せる。憑依にもこれと全く同じ法則が働いているのである。この法は善いことの為にだけ働くのでなく、反対の悪いことの場合にも同じように働く。最高の奉仕に際して働く法は全て、又悪用されることも出来る。つまり人は上がり得る高さの程、又低く墜ちることも出来るものであるから。人は墜ち得る低さの限り、又高所へと上ることも出来る。その法は同じだ。人がどちらを選ぶか、道はそこにかかっている。

○(問)予言的な夢、つまり霊夢というのは、霊界から伝えられるものですか。
(答)そういうことがしばしばある。愛する霊魂が何か警告しようとして、そうすることがしばしばある。又別の場合には、睡眠によって地上の束縛から自由になった幽体が、自分で経験してくるという場合もある。この場合は、幽体は未来のあるものを瞥見(べっけん)し、前途に見た警告を、夢の形で持ち帰るということである。

(訳者注)この章でバーチは戦争の発生を予告しているが、これらの通信は、いずれも第二次世界大戦前に伝えられたものである。

○私達は嫌だ、この霊界がもう一度、傷ついた魂達の病院となることは。皆さんは早く準備体制を整えて、私共の教えを、地上世界に普及してくれなければいけない。その必要が、私達地上で働く霊界人の目にはよく見える。このことは、私共が皆さんに代わってするわけにはいかない。私達は唯、皆さんが道を間違えたらどうなるか、その結果を傍観するだけ、又その結果、霊魂界に何が起こるか、これを皆さんに示すことが出来るだけ。

○私達には、破壊と殺戮と、その結果が目に見える。まだこちらへ来る準備の出来ていない魂達が霊魂界に入って来るのが目に見える。彼等は熟する前に、生命の木から、無理にもぎ取られた青い果実だ。地上に生きていかねばならない生命を、無理にぶち壊したのは地上の者なのに、なぜ私達霊界人が、その傷ついた魂の面倒を見なければならないのだ。なぜ私達が自分の進歩を放擲(ほうてき)してまで、地上人が怠った義務の尻拭いを、こちらへ流れ込む魂の世話の負担を、引き受けねばならないのか。

○戦争を合法化することは、地上世界の為にも正しいことではない。物質の面から見ても、戦争は破壊を生むだけである。地上の戦争は霊界にとっても正しいものではない。それは法の働きを阻害するものであるから。戦争は肉体から魂を切り離す。それは、神法への抵触だ。このことを人類があえてするとは。

○皆さんは正しいものの為に立ち上がらねばならない。盲した者達が、霊の事業を阻害するに任せておいてはならない。皆さんは御存知ないが、今進歩と平和と調和を目指す事業を隠そうとする、組織的な努力が進行している。人と人とを差別する、そんな考えを地上は一日も早く捨てねばならない。全てが神の同じ子供である。このことを早く学び取ってもらいたい。垣根を作るのは神ではない、人類自らである。神は人間一人一人にその分身を与え給うた。その故に、人は皆同じ神の部分である。

○今地上は、建設の為に沢山の事が為されねばならない。この危機になお、地上の賢いと言われる人達までが、破壊のみを心掛けるということは、なぜなのか。神は万事、秩序をもって進行するようにと、自然の法を定め給うた。人間たる者、この法を犯そうとしてはならない。もし人がこの法からはみ出して生きるなら、その結果は破壊と混乱があるだけである。皆さんは、その事実を過去の歴史に見出さないか。

○私は皆さん一人一人に申し上げる。どうか地上に神の計画を実現させようとする者と共に、貴方の全力を、貴方の全ての仕事を、捧げて頂きたい。
 神が流血を好まれようか。神が戦争を悲惨を災禍を失業を飢えを茅屋を望み給うか。神が子等の手に授け給うた賜物が、手に入らないということを欲し給うだろうか。幼い子供達が、その両親を失って路頭に迷うということを、喜び給うだろうか。

○もし、皆さんが私達の教えようとしているものを、真底認めて下さるなら-私共は皆さんと同じく、神に仕えることを求めているだけなのだから-皆さんはこの仕事に助力して下さるだろう。誰だって、他人の生命を奪い取る行為は、神法に対する違反である。

○殺意が燃え上がると、理性は去る。人の内部には神性があるだけでなく、動物性の残滓(ざんし)も残っている。人がこの動物性を制して神性を発揮するところに、人間の進歩があり成長がある。もしこの動物性を頂点にまで燃え上がらせれば、戦争や闘争や殺戮となる。反対に、神性を発揮させ互いに奉仕し合うことを求めれば、平和と調和と豊饒が生まれる。
 皆さんはこの世界を、国によって民族によって、区別してはならない。人全て神の分身であることを、世に知らせるようにせねばならない。人は皆神の子である。海を隔てた遠い国の人々も、親である神の目よりすれば、兄弟である。私達の教えは簡単だが、真理である。これは神法に立脚して出来ている。もし人がこの法を無視して世を作ろうとすれば、必ずや混沌と無秩序が生まれる。諸君は何もかも失ってしまうことになる。

○今後、人類はよほど努力と犠牲を払わなければ、多くの戦争が起こることになろう。種を蒔けば、必ずその結果を刈り取らねばならない。人は因果の理法を欺くことは出来ないから。流血の種子を蒔いておきながら、平和の実を刈り取ろうとしても駄目だ。物力を望んでおきながら、その悪い結果から逃れようと思っても、無駄だ。愛を蒔け、愛は返って来る。平和を蒔け、平和が立ち上がる。至る所に奉仕の種子を蒔け、世界は奉仕で満ち溢れてしまう。これが素朴な神の真理である。それがあまりに単純なので、地上のいわゆる賢人達はかえって迷ってしまうのである。

○(問)大戦(第一次)の戦死者達の死によって、何かよいものが生まれましたか。
(答)何もない。地上は今日、更に混沌に近付いている。第一次大戦開始前の時より、更に破壊が満ちている。
(問)どんなに多くの勇気と武勇も、無駄骨ということですか。それでは何か霊魂の方からの反発があるのではないですか。
(答)戦死者の側からすれば、ある彼等は善意に基づき戦争に参加した。しかし世の中は彼等を欺いた。死は無意義なものとなった。世界は依然として唯物主義を捨てないでいるのだから。

○(問)休戦記念日の奉仕事業が年々、行なわれていくとすれば、何か効果がありますか。
(答)それは、戦死者のことを忘れてしまうより、暫時でも思い出すことの方がよろしい。だが、世界は軍事力を誇示したり、鉄砲火器、兵隊、あらゆる軍備を備えながら、片手で休戦記念の仕事をしたって、何もよい結果は生まれない。その休戦記念を、霊的奉仕の性格に変えることは出来ないのか。
(問)貴方は、休戦日に神霊主義者の記念奉仕を継続するのに、賛成なのですか。
(答)真理はどこで述べられようと、よいことだ、行なわれる演説が奉仕をそそるものなら。無意味な演説はしないに等しい。又演説をするだけでは十分とは言えない、それは聴衆に、平和は良いものだという自己満足を与えるだけだから。私は活動を望む。実際の奉仕を期待する。
 弱った人を力付け、病者を癒し、苦しむ人に慰めを与え、家なき者にはねぐらを、地上の汚点である一切の悪弊を除去することを。このような奉仕活動を通じてのみ、初めて平和は来るのである。
 全ての人に奉仕の観念が浸透し、全ての人が奉仕を実行するまでは、決して平和は実現されない。ここ十九年間、休戦記念日がもたれてきた。そうして現在では、休戦記念日とは、単に進展する戦備拡大の時流の中で、一小行事にすぎなくなっているではないか。

○(問)貴方は平和主義者の運動を支持されているのですか。
(答)私は特定の主義団体に属するものではない。私には特定の旗印はない。私は奉仕に、動機に目を向けるものである。肩書や標識に迷わされるな。目的が何であるか、その望むものが何であるかに注目せよ。反対派の中にも、誠実で善意の人がいるものであるから。私達の教えは単純だ。しかしこれを実行に移すには勇気が必要である。ここに新しい出発が始まる時、ここに霊的真理と知識に基づいた決意がなされる時、ここに奉仕と利他とが日常生活に実践される時、そこに平和が生まれる、そこに世界の調和が実現される。
 平和は特定の主義団体の手で作られるものではない。それは神の子等の手によって、即ち上記の道理を理解し、これを日常生活に政治に会社工場に外交に適用する人達の手によって実現されるのである。

○(問)ヨーロッパ列強が膨大な軍備を整えている現実に対し、英国が軍備をもたないのは愚かではないでしょうか。
(答)既に何度も話した通り、皆さんは国家とか民族とかの次元でものを考える。私達は神と神の子等の見地からものを見る。破壊の機会を作りながら、平和を見出すことはあり得ないとお答えしておこう。平和とは、そこに平和への悲願があり、人類全てが愛と奉仕の法に従って生きる時、初めて生まれるものだ。私は一国一民族についてだけものを考えるということをしない。私は人類全体を神の子として、一体のものとしてものを考える。人は全て神の子である。人類が神法を地上世界に実現するまでは、いつまでも戦争はある。破壊も疾病も恐慌も混乱も破産も、繰り返し発生する。

○(問)霊界では制裁を認めますか。
(答)生命は神のものであって人間のものではない。人間が人間の生命を縮めるようなことをしてはいけない。制裁は神法に反する。これを行なえば、その報いは必ず来る。
(問)しかしこの場合、その動機は善といえます。つまり戦争を阻止しようとして制裁を加えるのですから。
(答)人がもし力の種子を蒔けば、その種子からは、ただ更に大きな力が生まれるだけだ。かつて地上の師達もこう教えたではないか、戦争をなくすことは一つの戦争であると。

○世界の全ての問題は、霊的法則の適用によって、初めて解決される。このことを地上世界は分かってくれるだろうか。利己主義は、流血と涙と戦争を生むだけでない、世界の混乱と不幸と破壊を生むものである。
 人類はここで目を開いてもらいたい。利己主義に代えるに奉仕をもってする時、初めて平和が訪れる。古来の唯物主義と権力主義と侵略主義は掃討されねばならない。これに代えて奉仕の生活、強者は弱者を助け、富者は貧者に与える、この新しい生活が地上を覆わねばならない。

○人類はこれまであらゆることを試みてきた。そしてその全ては虚しいものであった。だがまだ一つだけ試みられないものが残っている。霊的真理の適用、これである。もし人類がその試みに入らなければ、戦争と流血は依然として続くであろうし、又その結果は、必ずや誇大虚飾を極めた地上文明の破滅に至るであろう。

○(問)一人の人間の意識が、別々に分かれて働くことが出来ますか。
(答)貴方は一つの意識体である。だが実を言うと、貴方は一つの意識のほんの一小部分を地上で表現しているだけであって、その意識の別の部分は他の世界に在って、それぞれ意識体として活躍しているのである。
(問)それらは独立した存在ですか。
(答)いや、そうではない。貴方も他の世界の意識体も、みんな一つの内的霊的実体のそれぞれの反映なのである。
 つまり、これらは一なる全体の部分、唯その活動の媒体はそれぞれ別個だが、それも時には合流することもある。彼等は潜在的にはお互いに気付いている。但し自己表現を始める当初は気付いていないが、時を経て、お互いに共通の場を発見すると、再び全体の中に一体となるのである。

○(問)これら分身の内の二つが会っても、お互いが分からないということがありますか。
(答)今ここに、一つの輪をなしている大きな意識を想像されよ。そうしてこの輪には部分があり、この各部分は中心を巡って回転しているとしよう。時たまこの部分は互いに会う、会うと彼等は同じ一体感を抱く。さて、遂にこの回転が終結すると、各部分はそれぞれ適切な場を占め、ここに輪は結合され完全となるのである。
(問)同じ霊の二つの部分が、互いに通信し合うことは可能ですか。
(答)必要があれば出来る。

○(問)同じ霊の二つの部分が、同時に地上に誕生することがありますか。
(答)そんなことはない。なぜかというと、これは全体の目的に反するからである。各部分の目的は、それぞれあらゆる世界に分かれて経験を積むことであり、彼等が同じ所へ帰って来るのは、ただ戻ることによって何か得るものがある時だけである。

○(問)一つの霊の各分身は、自分の進歩は自分で行なわねばならないのであって、他の分身の学びとったもので自分が進歩することは出来ない。このように考えてよろしいか。
(答)その通りである。彼等は全て一つの魂の分身であって、別々の媒体をとって自己発揮をしているのである。貴方もいつかは、自己自身のより大きな部分を自覚するようになるのである。
(問)それでは、これら全ての分身が進歩してある点に到達すると、一体となるような点があるのですか。
(答)ある。遙かな無限の彼方において。

○(問)各分身は唯一度だけ地上に誕生する。唯、大本である魂の見地からすれば、再生ということは言えても、個々の分身の場合は再生はありえない、こう考えてよろしいか。
(答)これは使命いかんによる。ある特殊の使命がある場合に限り、一つの分身が一度ならず地上に誕生する。

○(問)同じ一つの意識体の中の沢山の分身とは、どのように考えたらよいのですか。
(答)これは、真実の生命を御存知ない皆さんにお答えしても、分かって頂けまい。皆さんの生命とは、最低の媒体であって、部分的に生命が自己発揮をしてきたもの。真の生命とは、皆さんの想像を絶した意識をもって、熾烈な生を生きているもの。とてもこの実態を理解して頂くことは不可能である。
 神秘家の最高の経験、画家の深遠な霊感、詩人の歓喜の恍惚、これらのいずれをもってしても、なお私達の霊界でいう生命の実体に比べれば、儚い一片の影にすぎない。鈍重に振動する物質界、その制約に縛られた人間の意識、人はかの生命の実体をとても理解することは出来ない。従って、どうして皆さんに私は、意識とは何であるかとか、それがどんなに作動しているかを、説明してあげることが出来ようか。
 この難しさが分かって頂けるか。地上にこれを比すべき譬えがあれば、説明も出来るのだが。地上にあるものといえば、光と闇、陽光と影、せいぜいそんな対比しかない。皆さんはかの虹の色彩と、とてもそんなものの想像を絶した色彩と、この対比はとても分かって頂けまい。

○(問)彼等分身は、一つの人格の、分割された小面なのですか。
(答)いや、そうではない。それは一つの個性のもつ別の面ではない。皆さんがこの質問を出すのは、あたかも生来の盲人に、陽が輝けば空の色がどうなるかを説明しようとするのに似ている。説明しようにも、対比すべきよりどころが地上にはないのである。

○(問)貴方の説明の分裂意識とは、かのF・W・H・マイヤースが述べた類魂説と同じものですか。
(答)同じものを言っている。但し、マイヤースは色々な魂が集って、一つの群をつくると考えているが、私の言うのは、一つの全体を完成する為に帰りつつある意識の色々な部分の合同を言うのである。
(問)すると、意識の各部分は再び結合する時、各自はその個性を失ってしまうということになりそうですが。
(答)川の流れが大海に注ぎ入ると、流れは消滅するだろうか。それとも、大海は沢山の川であるだろうか。バイオリンの音は、交響楽の一大ハーモニーの中で、その音が消滅するだろうか。

○(問)なぜ、霊界から地上へ、再生の証拠を与えてくれないのですか。
(答)交霊を通じても握ることの出来ない再生の証拠、それを一体何と言うべきか。皆さんの意識が進めば、初めてそれが分かる。再生は法であるということが自明となる時、初めてその証拠を皆さんは握る。即ち、霊界にも、再生はないと言う多数の霊魂がいる。彼等がこれを否定するのは、彼等が再生の事実を知る段階にまで、まだ到達していないからである。神秘家が自分の神秘感を、世俗の人々に説明出来ようか。芸術家がその感覚をもたない俗人達に、霊感の内容を分からせることが出来るか。これは不可能。彼等はそれぞれ違った精神界に住んでいるのである。

○(問)魂は自分が再生する時を知っていますか。
(答)魂は知っているのだが、顕在意識で知ることは不可能だ。内在の神である魂は、永遠に、漸次、歩一歩と自己を顕現していくのであって、どの段階においても、なお未表現の広大な部分があるものだ。
(問)では、再生は無意識の内に行なわれるのですか。
(答)それはその魂の進歩の段階いかんによる。魂の中には、自分が以前に地上生活をもったことを知っている多数の者もあれば、これを知らない者もある。いや、その魂の潜在意識は知っているのだが、顕在意識が知らないのかもしれない。ここまでくると話は甚だ神秘的となる。私としても、こういう霊的問題を上手く説明出来る言葉がなくて、甚だ困却を感じる。

○(問)生命とは絶えず変化し進歩し続けるものであり、又再生も事実であるとすれば、我々は死後、愛する者達に確実に会うことが出来ますか。又、約束通りに一緒に楽しい生活を送ることが出来ますか。
(答)愛は自らを知る。愛とは宇宙で最大の力であるから。愛は常にその愛する者をひきつけ、その愛する者と会う。何となれば、これら愛する者の結びを、何ものといえども、阻止することは不可能だから。
(問)しかし再生がある限り、絶えず別離がある。とすれば、永遠の祝福の観念と、どう結び付けたらよろしいですか。
(答)皆さんの言う永遠の祝福の観念は、私の言う永遠の祝福とは違う。宇宙も法も神の創り給える通りのもの、人間が気ままに創り出すものではない。賢者は新しい事実に直面すれば、自らの心を変える。賢者は自分の思いを満足させる為に、事実を変えることは出来ないことを知っているから。

○(問)私達がこの人生以前に、無数の生を経て今日に至ったことが事実なら、どうして私達はもっと進歩し、もっと立派な人間になっていないのですか。
(答)この世に在り、しかも聖者であること、この世に在り、しかも最も賤しい者であること、そのどちらでも皆さんは可能である。この地上に在るか否かそれは何の関係もない。魂の進歩いかん、これが問題の決め手である。

○(問)私達の未来の生を見渡す時、過去と同じように、苦しみや闘いが無限にあるのですか。
(答)そうだ、無限にある。苦痛のるつぼを通じて、貴方の中の神は自己を顕現する。苦しみが神を試みる。苦しみが内在の神性を浄化し強化し鍛えていく。あたかも黄金は鉱石を砕き、精錬して生まれるように。この過程を経ないで、一片の黄金もつくられることはない。
(問)もしそうなら、死後の天国という観念はどうなるのですか。
(答)今皆さんが考えている天国は、明日は天国と考えられなくなる。幸福とは努力、絶えざる努力、現在を超えて更に高みを目指す努力の中にある。

○(問)魂が再生するなら、前生と同じ国に再生するのですか。印度人は印度に、英国人は英国に。
(答)必ずしもそうでない。新しい進歩に適した国や民族を選ぶことになる。
(問)男女の性についても同じですか。
(答)その通り、必ずしも前生と同じ性に生まれるとは限らない。

○(問)私達は霊界に入り、進歩の為には、過去の罪を償わねばならないが、同様に、前生の罪の故に、再生後罰せられるということがありますか。神は、一つの罪の故に二度罰し給うだろうか。
(答)これは必ずしも処罰の問題ではなく、進歩の問題、これから学ぶべき教訓の問題、又一連の魂の学習と進歩という鎖の中で、忘れ去られるべき一個の環の問題である。再生即処罰、というふうに必ずしも解釈してはいけない。
 再生とは、まだ埋められねばならない谷があるという意味の場合が多い。その谷とは鍛練を要するもの、過去に学び取らなかった教訓という性質のもので、必ずしも罰を意味しない。人は二度罰せられることはない。人が神法を理解するに至れば、その完璧さに驚嘆するであろう。神法は、一方に偏した不公正なものでは断じてないから。神は完全であるが故に、神法も又完璧である。

○(問)他界の霊魂の中で、地上に一度ならず再生したことを確実に知っている者を御存知ですか。
(答)知っている。魂はそれを知ることが必要な段階にまで進歩すると、その再生の事実を知るのである。目が光に耐えられるようにならねば、光を見ることは出来ない。私は一々その霊魂の名前をあげることをしない。名前をあげても何の証拠にもならないから。

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