ヨーロッパの戦乱が集結して間もないある日の交霊会で、「敗戦国の人々に対して霊的真理をどう説かれますか」と問われて、シルバーバーチは次のように語った。(訳者注-第二次大戦で枢軸国と呼ばれた日・独・伊三国の内、まず独伊が降伏し、それから二ヵ月後に日本が降伏したので、この交霊会はその間つまり1945年6月から8月の間に開かれた計算になる)

 「真理は真理です。その本質は永遠に変わることはありませんが、そのバリエーション(質・程度・適用性等の変化・変異)は無限です。大衆に一度に理解してもらえるような真理を説くことは出来ません。一人ひとりが異なった進化の段階にあり、同じ真理に対して各人各様の反応を示すものだからです。
 私は常々、神の計画は一度に大勢の人間を目覚めさせることにあるのではないことを説いてまいりました。そういうやり方では、永続性のある効果は期待出来ないからです。一時の間は魔法をかけられたようにその気になっても、やがて必ず反動が生じ、群集心理から覚めて個人としての意識が戻ると、しばしば後悔の念と共に現実に目覚めるものです。
 それではいけません。私達の計画は個人を相手として、一人ひとりその霊的受容度に応じて真理を授けることにあります。大抵の場合、地上で最も縁の強かった人からのメッセージで確信を植え付けます。それによって確立された信念はいつまでも持続し、いかなる人生の嵐に遭っても、いかなる痛打を受けても挫けることはありません。
 ですから、大勢の人を一度に目覚めさせる方法はないのです。少なくとも満足すべき結果を残させる方法はありません。
 忘れてならないのは、真理を理解するには前もって魂に受け入れ態勢が出来上がっていなければならないということです。その態勢が整わない限り、それは岩石に針を突き刺そうとするようなもので、いくら努力しても無駄です。魂が苦しみや悲しみの体験を通じて耕されるにつれて岩石のような硬さが取れ、代わって受容性のある、求道心に富んだ従順な体質が出来上がります。
 しかし、敗戦の苦しみの中に置かれた人々へのメッセージが一つだけあります。何事も自分の理性に訴え、自分の道義の鏡に照らして行動しなさいということです。動物時代の名残を呼び覚まされて、目には目を歯には歯をの考えで臨んでもラチは明かないということです。
 苦難の代償はそれによって自らを霊的に解放し、憎しみも怨念も敵意もない、協調的精神に富んだ〝新しい世界〟に適応し、然るべき役割を果たせる人材となることであらねばなりません」

 ここで話題が〝敗れた枢軸国を連合国はどう扱うべきか〟という、当時の最も関心の大きかった問題に発展した。かつてのキリスト教の牧師だったメンバーが正直に述べた。
-私はそれらの国の人間とは二度と握手する気にはなれません。

 「迷える者に手を差し延べるということが真理を手にした者の義務です。戦乱の雰囲気に巻き込まれて、その背後の永遠の霊的実在まで見えなくなるようではいけません」

-しかし生意気を言うようですが、どう間違っても私にはあれ程の残虐行為は出来ません。

 「心配なさるには及びません。神の摂理は完全です。一人ひとりが過不足のない賞罰を受けます。無限の叡智をもってこの全大宇宙を計画し不変の法則によって支配している神は、そこに生活している者の全ての為に摂理を用意しており、誰一人としてその働きから逃れることは出来ません。懲罰と報復とを混同してはいけません。
 私達は同じ問題をあなた方とは別の視野で眺めております。復讐心と憎しみによって世の中を良くすることは出来ません。その邪心が判断力を曇らせ、決断を下すにも計画するにも不適格な状態になってしまいます」

-報復も懲罰の一種ではないでしょうか。

 「違います。報復は古いモーゼの律法であり、懲罰は神の摂理です。つまり一人ひとりがその功罪に応じて報いを受けるのです」

-人間同士で一方が他方を罰することは許されないと仰るのですか。

 「私だったら、その相手を精神的に未熟な人間として扱います。つまり人生を正しい視野で眺められるように、矯正して行く為の処方を考えます。もし罰せざるを得ないとすれば-私はその必要があるとは思いませんが-魂が真の自我に目覚めるような性質のものでなければなりません。憎しみを増幅させ、新たな戦争を生むような性質のものであってはなりません」

-ああいう国民を甘い処分で済ませておくと、二十年もしたら又戦争になります。それで私は徹底的に打ちのめすべきだと言うのです。

 「どうやって打ちのめすのですか」

-この度の戦争でやったようにです。

 「それで問題が解決されたのでしょうか。肉体が機能しなくなったらその人の影響も存在しなくなるのでしょうか。お伺いしますが、憎悪を抱いたまま肉体から無理矢理に離された幾百万とも知れない人間が、地上の人間の為に働いてくれると思われますか」

-一つの教訓を教えることにはなると思います。少しは変わってくれると思います。

 「それは憎むことを教えることになるでしょう。憎しみは憎しみを呼び、愛は愛を呼ぶものです。物質の目で物事を判断してはなりません。これまで何度も繰り返されて来たことです。殺人犯を処刑しても問題を解決したことにはなりません。地上へ戻って来て他の人間を殺人行為へ唆します。
 では一体どうすれば問題の解決になるのかということになりますが、処罰を矯正的な目的をもったものにすればいいのです。社会の一員として相応しい人間になってくれるように、言い換えれば神の公正の理念に基づいて然るべき更生の機会を与えてあげるように配慮すればよいのです。そういう人間は心が病んでいるのです。それを癒してあげないといけません。それが本来の方向なのです。それが本人の為になるのです。それが〝人の為〟の本来のあり方なのです。摂理に適い、それを活用した手段なのです」

-戦争で敵・味方となって戦い合って死んだ二人に、あなたはそれぞれどう対処されますか。

 「それはその二人の霊の状態次第です。条件付の答えで申し訳ありませんが、そうした問題は規格品的回答で片付けられる性質のものではないのです。それぞれの霊的進歩の状態によって異なるのです。死んだ後も延々と戦い続けている者もいます。が、いつかは、地上で抱いた敵対心は肉体の死と共に消滅すべきものとの認識が芽生えて来ます。
 霊界の下層界では地上で起きていることの全てが再現されております。地上での戦争や抗争がそのまま続けられております。が、霊的覚醒と共に、その界層を離れて、地上で培われた偏見と敵意を綺麗に棄て去ります。そうなると問題はひとりでに解決されてまいります。霊的摂理の理解と共に、自分の為にすべきことは霊的な身支度をすること、自分自身の霊性を磨くこと、自分自身の能力を開発することであることを自覚し、それは他人の為に自分を役立てることによってのみ成就されるものであることを認識します。いずれにしても問題はあくまでも過渡的なものです。霊的事実を知らずにいる者にいかにしてそれを認識させるかということです。その為にあらゆる手段を講じるのです。
 一番厄介なのは、自分が既に地上を去った人間であることが納得出来ない人達です。非常に頑固なのがいます。さほどでもない者もいます。割に素直なのもいます。このように、人類の全てが同じ進化の階梯にいるわけではないのです。従って一人ひとりの霊への対処の仕方も、それぞれのその時点での必要性に応じたものでなければなりません」

-あなたの訓えの中には〝恐怖心〟を捨てるように説いておられるものが多いのですが、実際に爆弾が投下されている時にそれを要求するのは無理です。そういう状態では怖がって当然ではないでしょうか。

 「仰る通り当然でしょう。が、その状態こそ恐怖心を捨てる試金石でもあります。私達が皆さんの前に掲げる理想が非常に到達困難なものが多いことは私も承知しております。私達の要求することの全てを実現するのは容易ではありません。が、最大の富は往々にして困難の末に得られるものです。
 それには大変な奮闘努力が要求されます。が、それを私があえて要求するのはそれだけの価値があるからです。いつも申し上げておりますように、あなた方はそれぞれに無限の可能性を秘めた霊なのです。宇宙を創造した力と本質的に同じものが各自に宿っているのです。その潜在力を開発する方法を会得しさえすれば、内在する霊的な貯えを呼び覚ます方法を会得しさえすれば、霊力の貯水池から汲み上げることが出来るようになりさえすれば、恐怖の迫った状態でも泰然としていられるようになります。
 人生の旅においてあなたを悩ますあらゆる問題を克服していく手段は全部揃っているのです。それがあなたの内部に宿っているのです。イエスはそれを〝神の御国は汝の中にある〟と言いました。神の御国とはその無限の霊的貯蔵庫のことです。自己開発によってそれを我がものとすることが出来ると言っているのです。開発すればする程、ますます多くの宝が永久に自分のものとなるのです。もしも私の説く訓えが楽なことばかりであれば、それは人生には発展と進化のチャンスがないことを意味します。人生には無数の困難があります。だからこそ完全へ向けてのチャンスが無数にあることになるのです。生命は永遠です。終わりがないのです。完全へ向けての成長も永遠に続く過程なのです」

-極端な言い方かも知れませんが、同じく参戦を拒否するにしても、恐怖心の一種である〝臆病〟から来ている場合があります。人類がもっと臆病になれば戦争も少なくなるのではないかと思うのですが、この考え方を霊界からどうご覧になりますか。

 「臆病も人間としての情の自然な発露です。私はいつも人生とは対照の中で営まれている-愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病である、と申し上げております。いずれも本質において同じ棒の両端を表現したものです。又私は、低く沈むことが出来ただけ、それだけ高く上昇することが出来ると申し上げております。
 臆病を勇気に、憎しみを愛に変えることが出来るということです。この考え方がとても受け入れ難い人がいることでしょう。が、これが私の考えです。人間の精神には様々な複雑な感情や想念が渦巻いております。それを上手くコントロールするところにあなたの成長があり進化があり、低いものが高いものに転換されていくのです」

-臆病であることは悪いことでしょうか。

 「良いとか悪いとかの問題ではありません。一つの感情が発露したものであり、その人の個性の一部であるというまでのことです。たとえ表に出なくても内部にはあるわけです。怖いという気持にならない時でもどこかに潜んでいるわけです。私が言わんとしているのは、そうした感情がいかに陰性のものであっても、いかに好ましからぬものであっても、あなたにはそれをより高度なものに転換する力が具わっているということです。私はこの教えが最も大切であると思っています。臆病は本質において勇気と同じものなのです。ただ歪められているだけなのです。そしてそれはあなたに具わっている力を駆使することによって正しい方向へ転換することが出来るのです」

-憎しみと同じく臆病心も人間の属性の一つだと仰るのでしょうか。

 「そうです。人間が具えている資源の一部だと言っているのです。精神にはありとあらゆる資源が具わっているのです」

 ここで、先の質問にあった〝人類がもっと臆病になれば戦争が少なくなるのではないか〟との意見についてのコメントを求められて-
 「そうはまいりません。みんなを臆病にすることによって戦争が解決されるものでないことは言わずと知れたことです」
 別の日の交霊会において再び戦争が話題になった時次のような興味ある質問が出た。

-ダンケルクでの英国軍の撤退作戦の時海が穏やかで、シチリヤ島での作戦の時も天候が味方してくれたと聞いておりますが、これは神が味方してくれたのでしょうか。

 「宇宙の大霊である神はいかなることにも干渉いたしません。法則、大自然の摂理というものが存在し、これからも永遠に存在し続けます。摂理の働きを止めたり干渉したりする必要性が生じるような事態はかつて一度たりとも起きていませんし、これからも絶対に起きません。
 世の中の出来事は自然の摂理によって支配されており、神によるいかなる干渉も必要ありません。もし干渉がありうることになったら神が神でなくなります。完全でなくなり、混乱が生じます」

-今の質問は、最近多くの高名な方達がラジオ放送で神が英国に味方してくれたかのように述べているのでお聞きしてみたのです。

 「本当の高名は魂の偉大さが生むものです。それ以外に判断の基準はありません。何を根拠にしようと、神が自国に味方するかのように想像してはなりません。神とは法則なのです。
 あなたが正しいことをすれば、自動的にあなたは自然法則と調和するのです。窮地に陥ったあなた一人の為に、どこか偉そうな人間的な神様が総力を挙げて救いに来てくれるような図を想像してはいけません。スピリチュアリストをもって自認する人達の中にも未だにそういうふうに考えている人か大勢います」

-一人ひとり進化の程度が異なるので理解の仕方も違って来るのだと思います。

 「ですから、私が申し上げていることに賛成してくださらなくても、或いは私が間違っている、とんでもないことを言う奴だと思われても一向に構わないのです。私は私が見たままの真理を申し上げているだけです。永い永い進化の過程を経た後に学んだままをお届けしているのです。それがキリスト教やヒンズー教、その他、聞いてくださる方の宗教を混乱させることになっても、それは私には関わりのないことです。私はそうした名称や教義、いかなる宗教の概念にも全く関心がないのです。私は私がこれまで学んで来た真理しか眼中にありません。それが私の唯一の判断基準です。
 私の申し上げることがしっくりこないという方に押し付ける気持は毛頭ありません。私は私の知り得たものを精一杯謙虚に、精一杯真摯に、精一杯敬虔な気持で披瀝するだけです。私の全知識、私が獲得した全叡智を、受け入れてくださる方の足下に置いて差し上げるだけです。これは受け取れませんと仰れば、それはその方の責任であって、私の責任ではありません」