『これが心霊(スピリチュアリズム)の世界だ』M・バーバネル著 近藤千雄訳より


 以上、私は人間の死後存続の証拠の数々を紹介してきた。少なくとも私自身はこれは最早疑う余地のない確たる事実であると考える。つまり人間は死後も記憶と友情と情緒と愛を持ち続け、条件さえ揃えば、地上に残した愛する者達を指導することが出来るということである。それを証明するありとあらゆる種類の証拠が披露されたと私は考える。要するに人間は、他の誰とも異なる特徴と個性と性癖を具えた一個の人間として死後も生き続けるというのである。
 但し、証明されたのは、死後も意識をもって生き続けるということだけであることに注意しなければならない。問題の性質上、それから先のこと、つまり生命が永遠かどうかまでは分からない。それを証明する手段がないのである。紹介したような現象から論理的に導き出されることは、死後にも生命があり、死によって突如として生命が消えて失くなるのではないということだけである。ただ、交霊会などで人間に働きかけてくるスピリットの中には、死後間もない人間より遙かに秀れた高級なスピリットがいるという証拠がある以上、死後に向上進化の法則があると推測しても決して間違ってはいないと思う。
 スピリット達が語るところによれば、死後の進化とは人間的な煩悩を少しずつ洗い落とし、魂の内部に宿る神性を開発していく過程だという。又その過程は完成へ向けての永遠の営みであるという。一つの目標まで到達すると次の目標が見えてくる。そこに、知性的にも霊性的にも終局というものがない。知れば知る程、更に知らねばならないものを自覚する。知識に限界がないのである。
 読者はこうした説を単なるスペキュレーション(思考)の産物と思われるかも知れない。が、その説は全て、死後存続についてこれまで紹介した通りの徹底した証拠を見せてくれた高級スピリットから得た通信(メッセージ)にその根拠を置いているのである。
 では動物はどうなるのだろうか。人間と同様、人間に可愛がられた動物が死後その姿を見せた例は沢山ある。特に犬と猫の死後存続の証拠が一番多い。時には、特別大事にされた馬とか猿、鳥などの例もある。私自身飼っていた動物が死後も生きている証拠があるので、あの世できっと会えることを確信している。今も我が家の辺りで暮らしている証拠を度々見ている。人間と共に暮らした動物達が死後もその繋がりを維持出来るということは嬉しいことである。動物なしでは生きていけない程可愛がっている人々にとって、もしも動物に死後の生命がないとしたら、天国もその人々にとっては天国でなくなるであろう。
 死後に生き続けるのは個的意識をもつ存在である。動物を可愛がっている人は、その動物にも人間との接触の結果として個的な意識をもつようになることを知っている。どうも人間と動物との係わり合いによって動物の方が、それまで持ち合わせなかった個性をもつようになるようである。或いは潜在していた個性を刺激するということなのかも知れない。つまり、その両者の愛情関係によって、犬や猫に〝人間らしさ〟が出て来るのである。そうした関係は、もしかしたら、宇宙生命の進化の過程における人間の役割の一つなのかも知れない。
 実はその〝人間らしさ〟こそが動物の死後存続の重要な要素となっているのである。つまり人間に愛されて個的意識をもつようになったペットが存続し、その他の動物が死後個的存在を失ってしまうその違いの原因は、その〝人間らしさ〟にある。適当な用語がないので後者を仮に〝下等動物〟と呼ぶとすれば、そうした下等動物は、ペットがはっきりとした人間的意識に近いものをもって死後も姿を見せるのに引き替え、どうやら一つのグループ存在として存続しているようである。
 だからといってペット類が死後人間と同じ進化の過程を辿るのではない。少なくともスピリットからの通信はそうは言っていない。つまり人間のように個性を完成させていく過程をいつまでも続けるのではない。動物愛好家は残念がるかも知れないが、その最後の別れの時は何百年何千年も先のことであるらしいから、そう残念がる必要もないであろう。もっとも霊界には地上的な時間は存在しない。右の数字は地上の年数でおよその観念を伝えたに過ぎない。
 進化について語る上で再生問題を抜きにすることは出来ないので、私なりの意見を述べておきたい。これはスピリチュアリストの間でも異論の多い問題で、だからといってこの問題を避けて通るわけにはいかない。
 大きく分けて〝再生はある〟と〝再生はない〟の二派に分かれる(注18)。面白いことに霊界のスピリットの間でも同じように意見が真っ二つに分かれており、否定派はそういう事実を実際に見たことがないと言い、肯定派は実際に再生していると主張する。私には両者共それなりの理屈があるように思える。
 肯定派の泣き所は、自分は誰それの再生だと言っても、一点の疑念がないまでその前世を証明するものがないという点である。証拠はこれだといって出されたものを私は全部目を通してみたが、どれ一つとして反論の余地のないものは見当たらなかった。他の解釈が可能なものばかりなのである。その最も単純なものとしては、これまでに何度も出て来た支配霊という解釈がある。交霊実験会では必ず支配霊が出て来る。再生の証拠と言われているものでも、実際には無意識の内に背後霊に支配されているという説明も出来るわけである。
 支配の仕方にも、本人もそれと気付かないインスピレーション式のものから、一時的、ないし半永久的(死ぬまで)の憑依現象まで、幾つもの段階がある(注19)。前にも紹介した友人のカール・ウィックランド博士は奥さんの霊媒能力を利用して、精神病者に憑依しているスピリットを取り除くことによって治療する方法を三十四年間も続け、それを一冊の本『迷える例との対話』に纏めている。
 次に、自国又は外国で、確かここには一度来たことがあるようだが・・・といった回想は多くの人が体験しているが、初めて来た場所の記憶があるというだけでは、前世でそこに住んでいたという証拠にはならない。脳がそれを認識する前に心が意識したのだという心理学的解釈でも説明がつく。もう一つの解釈は、幽体離脱による体験である。幽体離脱現象は実際にあることであり、その間にその土地を訪問していたということも十分考えられることである。
 再生を肯定する人が実は自分の現在置かれている境涯に対する不満を紛らす為にそう信じている場合が多いことは、残念ながら事実である。つまり前世ではローマの剣士であったとか、エジプトの王妃であったと信じることによって自我の満足を得るのである。
 しかし特殊なケースとして、自発的に再生してくる者がいることは私は信じたい。〝カルマ〟の法則による否応なしの再生ではない。この法則は元々この世の不公平や不正の存在理由として、又所謂因果応報の働きを効果的に説明する手段として考え出されたものである。私が得心がいかないのは、前世でおろそかにしたことをこの世で償う為に再生するとしても、人体に宿った後、何の目的で生まれて来たのか意識出来ないようでは、果して再生の意味があるのだろうかという点である。又、前世で極貧の生活を送った人が大富豪の家に生まれることによって、一体どういう具合に霊的な問題が解決されるのか、私には分からない。
 又私は天才とか神童とかを再生説で片付けることには賛成出来ない。人間というものは遺伝的な特質の他に未知のX-霊的要素をもって生まれて来る。そのXは両親の産物でもないし先祖の産物でもない。両親から授かった身体に宿りそれを動かす神的霊性である。神性であるから無限の要素を秘めている。霊的な尺度で見れば子供の方が両親よりも、祖父母よりも、或いは曽祖父母よりも上かも知れないし、或いは下かも知れない。
 思うに、天才とか神童とか言われている人間は、これから人類が達成していく進化の先触れであることが十分考えられる。同時に又次の例のように簡単に説明がつくものもある。
 私の友人のフロリゼル・フォン・ロイターは所謂音楽の神童で、そのバイオリンの技はヨーロッパ中にセンセーションを巻き起こした。僅か十歳になるまでに全ヨーロッパの国王と女王の前で演奏した程の天才であったが、彼には実に興味深い心霊的な逸話が残っている。
 フロリゼルの両親は彼が生まれる二、三ヶ月前に離婚していた。母親は生まれ来る子に夢を託し、父親とは全く異なった特質をもつ子が生まれて来ることを祈った。その母親が理想としたのは、かの有名なバイオリンの名手パカニーニだった。そう決めた母親はフロリゼルがお腹にいる時から、どうかパカニーニの霊がこの子を支配し霊気を吹き込んで下さいと、一心にそして熱烈に祈った。その祈りが届いたのであろうか、フロリゼルが天才バイオリストになれたのは母親の祈った通りパガニーニが支配したからであろうか。
 後年になって母親とフロリゼルがスピリチュアリズムに興味をもつようになってから何度か交霊会に出席するようになったが、何人もの霊媒が、右の話を知らないのに、パガニーニが出ていますと告げている。
 私はスピリチュアリズムによって人生の問題の全てが解決するなどと言うつもりはない。がスピリチュアリズムによって解決する問題は確かにある。死後の存続という事実を証明したことで、人間が霊的生得権と霊的宿命をもった霊的存在であることが証明された。つまり人間は身体をもった霊的存在であって、霊をもった肉体的存在ではないということである。この両者の間には大変な違いがある。
 人間は確かに生涯を通して肉体をもって自己を表現しているが、その肉体が自分なのではない。その証拠に、「私の身体の調子が悪い」という意味で「私はどうも調子が悪い」などという。従って、こんなことを言ってはおかしいが、健康について聞かれた時の返事は「私はリウマチで困ってるんです」ではなくて「私は健康なんですが私の左肩がリウマチなんです」とでも言うのが正しいのである。
 鏡で見る姿はあなた自身ではない。出産証明書は本当のあなたを証明しているのではない。あなたの身体的存在を認識する為の名前を記録しているに過ぎない。
 幾多の自然界の秘密を暴き、海底を探り、宇宙へ飛び出し、実質的には地球の隅々まで知り尽くし、一発の爆弾で広大な土地を破壊することの出来る人間、創造の頂点、万物の霊長とまで言われている人間、その人間が未だに自分自身を知らずにいる。人間の手になる素晴らしく且つ恐ろしい発明発見は、長閑さと平和と静けさをもたらすどころか、恐怖と不安を増すばかりである。
 人間は以前より一層未来に不安を抱いている。物質的には確かに裕福になったが、霊的には破産に瀕している。地球についての知識は大変なものだが、自分自身については恐ろしい程無知である。古い言葉に「汝自らを知れ」とあるが、人間はまだ自分自身を知るに至っていない。
 原子力の発見で人間は史上最大のクエスチョンマークを背負うことになった。一方で素晴らしい恩恵をもたらしてくれることを望みながら、他方では、反対に何百万人もの人間が一度に滅びる大悲劇を生むかも知れないという恐怖におののいている。正に断崖絶壁を危なっかしい足取りでヨタヨタと歩いている感じがする。
 何故こうした問題が出るのかと言えば、科学の進歩が人間の霊的成長を追い越したからに他ならない。人間が、科学の生み出す力に対応しきれる段階まで霊的に成長しきっていないということである。
 その科学上の発見はとてつもなく恐ろしいものもあれば、実に驚異的なものもあるが、それ程のものを生み出した人間が、未だに生命の神秘を捉え切れずにいる。生命あるものは顕微鏡的な極微なものすら造れない。原子爆弾を造れるとは科学者も大したものとは思うものの、その科学者はノミ一匹造れないではないか。
 さて、生きている人間と死んだ人間とはどこがどう違うのだろうか。見た目には全く同じである。が、ついさっきまで鼓動していた心臓はなぜ止まったのか。なぜ脈を打たなくなったのか。なぜ呼吸しなくなったのか。なぜ四肢が硬直してくるのか。
 他でもない。体を動かしていた何ものかが居なくなったからである。活力の根源がなくなったのである。その動力なしには身体とその器官は動かないのである。その非物質性の動力が霊であり、全生命のエッセンスなのである。言語を超越したものを言語で定義することは不可能である。霊とは生命の元素そのものと言っておこう。
 心霊的証拠によって、人間が死後も個的存在(スピリット)として生き続けることが明らかとなった。死によって霊性が賦与されるのではない。肉体は分解して土と化す。言い換えれば、最早目に見えない各種の元素に還元してしまう。活力を賦与していた霊が、次の目的の為にどこかへ行ってしまったからである。
 肉は霊に劣り、霊は肉に優る。肉は従者であり霊が主人である。肉体は単なる機械であり、霊こそその人そのものなのだ。考えてもみるがよい。せいぜい七十年、八十年、或いは九十年の限られた存在期間しかないものが、それに生命を賦与し、それが土と化した後も尚生き続けるものに優る筈がないのである。
 我々地上の人間は地上の出来事を支配する物理的法則を既に数多く手にした。一方、心霊実験によって霊媒を媒体として発生する現象を支配する心霊的法則があることを知った。そうなると、霊的世界を支配する霊的法則がある筈だと想定しても間違いではない。この論理を更に進めると、その法則によって動いている全大宇宙を支配する無限大の知性の存在を仮定せずにはいられない。有限なる存在に無限なる存在は所詮理解出来ない。が、この大宇宙機構の創造者としての無限大のスピリットの概念がどうしても生まれて来る。
 それがスピリチュアリズムで言うところの神である。神格化された人間ではない。一部族の神でもない。まして人間の姿恰好をした神ではない。全ての民族、全ての創造物、果てしない宇宙の全てを支配する神であり、いかなる宗教や国家の占有物でもない。どこかの宗教の神のように、えこひいきしたり、怒ったり、妬んだり、復讐したりの、そんな人間的煩悩を具えた神ではない。
 ゜神は人間を自分に似せて造り給うた」という。そう思い込んで以来、人間はその恩を返すべく神に媚びてお世辞ばかり言って来た。似せて作ったのは身体のことを言っているのではない。霊性のことを言っているのである。神と人間とは霊的に繋がっていることを言っているのである。今も、そして死後も、人間は永遠に神の統体としての一部(注20)なのである。神の一分子が物質に宿り、生命を賦与したことからこそこの世に生まれて来たのである。そして次のステージの為に各種の体験を積みながら霊を鍛えて身支度をしているのである。
 いついかなる時も人類は神と結ばれている。その霊的関係は誕生、生、死、そして死後と、一貫して続く現実である。切ろうにも切れない永遠の繋がりである。その関係があるからこそ〝人間は小型の神〟という表現が成り立つわけである。その内部に宿された神性をどこまで発揮出来るかは本人の自由意思に任せられている。潜在的には無限の可能性を秘めていることは間違いない。イエスが「天国は汝の内にある」と言ったのはそのことを言ったのだと私は信じている。勿論これには「地獄も又汝の内にある」と付け加えねばなるまい。
 人間は自分の行いによって運命を築き、或いは傷付け、自分自身の天国を拵え、或いは地獄を拵えている。霊的進化は自分が決定する。それには国家も生まれた場所も地位も財産も職業も関係ない。因果律という自然法則が働くのである。人間は自分というものを自分の行為によって自分で拵えている。人格の向上、これは実質的には霊的成長のことなのだが、その機会は全ての人間に訪れる。
 善行を施すのに特別に有利な立場というものはない。自我を棄て、人を思いやり、慈しみ、そして親切にしてあげる心は、金持ちだから貧乏だからということとは関係ない。人格的ないし霊的向上に関する限り、人間は自分が蒔いた分だけ刈り取るのである。強欲な人間が聖人になれるわけはない。強欲から聖なる心は生まれないからである。
 従って人間は死ぬ時まてに成就した霊的人格を携えて霊界の生活に入る。このことに例外は有り得ない。いかなる口実も誤魔化しも利かない。自然法則は枉(ま)げられないのである。いかに霊格が高そうな降りをしてみても通用しない。
 霊界の尺度は地上と全く異なるので地上的基準は通用しない。地上では本当の自我を発揮するチャンスが滅多にないので、実際とは違う人間を装うことも可能である。本性を隠すことが出来るわけである。が、死は全てのマスクを剥ぎ取り、本性が白日の下に晒される。
 因果の理法、つまり因果応報の原理は、死の床でいかに後悔しても、いかなる経を唱えても、いかに聖なる儀式を行なってみても、又それらをいかに熱烈に誠意を込めてやったとしても変えられるものではない。牧師といえども僧侶といえども宗教学者といえども、その法則の働きを変える力を持つ者はいない。
 「神は誤魔化せない」のである。聖職者の肩書のあるなしも関係ない。肝心なのは生きて来た人生だけである。聖典と銘打たれている書物からの言葉をいくら繰り返しても宇宙の法則は変えられない。教会や礼拝堂、寺院、或いは教会堂などにいくら真面目に通っても何の効果もない。何百万或いは何億という人々が宗教と思っているものでも、それをただ信じるだけでは何の価値もない。それを信じることによってその人がよりよき人生へ鼓舞されて初めて価値を発揮するのである。従って、あくまで個人的な、現実に即した日常の実践であらねばならない。自分のすることに自分自身が責任を取らねばならない。
 死によって罪深き人が聖人に変わることもないし、うすのろが聖賢に変わることもないし、愚か者が哲人になれるわけでもない。
 人間は本来霊的存在であるという、この、実験会の証拠から導き出される自覚は、究極的には地上の人生の観方を一変させてしまう程の驚異的事実といえよう。人類はこの宇宙間で置かれた己の位置と生きる目的とを理解することによって、そこに新しい価値感覚を見出すことになるであろう。
 地上の何億もの人間が空虚な生活を送っている。生きる目的を知らぬが故に、いたずらに影を追い幻を求めている。実質的に彼等の全意識は肉体に焦点が置かれている。そして永遠の実在である霊的自我をほぼ完全になおざりにしている。物質に注がれているその努力とエネルギーの何分の一かでもいいから、内在する神性の開発に振り向けてくれれば、地上はずっと住み良い場所になるであろう。暗闇の生活を送っている何百万もの人間が霊的な光の中で暮らすことになるであろう。
 が、現実は、大半の人間が死後の生活に対して何の身支度もしないまま死んで行く。どんな環境が待ち受けているかも知らずに死んで行く。その環境に適応出来ずに迷い続ける無数の霊魂の存在を想像するとゾッとする。彼等は地上という学校の落第生なのだ。
 自分が霊的存在であるという自覚が目覚めると、その時から物事の価値観が一新され、人生の視野が一変する。いかなる傷も真の自分を傷め続けるものではないと知れば、恐怖心も悩みも消える。更に、常に神と共にあるという意識は、必然的に、内なる神性を磨くことによって弱った時には力を、危機にあっては導きを、困難の中にあっては援助を授かるのだという信念を生む。
 それは更に、教訓というものが陽の当たる場所と同時に日陰にもあること、楽しさの中だけでなく苦しみの中にもあること、喜びの中だけでなく悲しみの中にもあること、平和の時だけでなく嵐の中にもあることを悟らせる。一つ一つの経験がそれなりの教訓をもたらし、永遠の財産である霊格を高めていく。
 今や人類の最大の敵は唯物主義である。あらゆる階層、あらゆる国家を蝕む悪性の癌である。死後の存続と、その事実から割り出される諸々の意味合いを理解すれば、唯物主義的考えに陥ることは決してない。スピリチュアリズムと唯物主義とは全く対照的な考えである。利己的な人間は結局は自分の利己主義の代償を支払わされるとスピリチュアリズムは説く。権力と富への欲望が、その獲得の為にどんな苦しい思いをさせられても、いつの時代にも無くならないのは、それによる霊的な報いを知らないからに他ならない。
 権力や富は確かにおべっかと敬意をもたらしてくれる。が、それも束の間の話である。死んでしまえば独裁者も守銭奴も大食漢も大富豪も、その欲望にピリオドが打たれる。善行それ自体が報酬であるように、利己主義はそれ自身がそれ相当の罰をもたらす。
 スピリチュアリズムの知識が広まれば、やがて個人的対立も国内の対立も国際的敵対関係もなくなり、それに代わって協力精神と相手の立場を思いやる心が芽生えるであろう。神から授かった神性を有するが故に、霊的自由こそ人間の絶対に奪うことの出来ない権利であるという認識が生まれよう。人間生活を傷付け、霊の成長を妨げる不浄なるもの無用なるものが完全に取り除かれることであろう。なぜなら、魂は自由であらねばならないと同時に、魂の宿である所の肉体は、輝く宝石がそれに相応しい小箱を必要とするように、魂の成長に相応しい環境を必要とするからである。
 人間関係の全てが、(物的生活の必需品ではなく)霊的必要性を考慮する方向で変わって行くであろう。肌の色、信条、人種、言語、国家の違いも、人間の霊性の認識によって何の意味も持たなくなるであろう。程度こそ違え、本質的には全く同じ質の霊が世界の全ての人間に宿っている。この永遠に消えることのない神との繋がりは、血縁関係より遙かに強い。血族関係は死と共に消えるが、霊的関係は永遠に続く。
 理屈は簡単である。神は全人類をたった一つの霊で創造したのである。好むと好まざるとに関わらず、人食い人種もニグロもアメリカインディアンもアボリジンも、その他ありとあらゆる人種の人間が、肌の色の何たるかを問わず、皆霊的に身内であり友人なのである。神の家族の一員であり、神の子なのである。これこそ正に霊的国際連盟というべきである。
 そこには肉体的違いを超えた永遠の真実がある。たとえ殺し合っても相変わらずその霊的関係は存在するし、自分自身への義務も他人への義務もなくなるわけではない、戦争で死んだ人間は宇宙から消えてしまったわけではない。霊的存在として相変わらず生き続けている。かくして戦争は何一つ問題の解決にはならないことが分かる。相手を別の次元の世界へ送り込むだけの話である。
 人間が自己の霊的潜在能力を自覚すれば、人生に豊かさと威厳と輝きと気品が出るであろうし、一方国政を与る者や高い地位にある者が霊的真理を理解すれば、新しい秩序が生まれよう。そうすれば、かつての改革者や先駆者、殉教者達が抱いた夢が実現し、地上天国が生きた現実となろう。人は隣人と共に、そして何よりも自分自身に目覚めて、平和な生活を送るであろう。
 その時こそ霊の力の荘厳さが発揮される時なのである。

 (注18)-細かく分ければ再生を肯定する説にも〝部分的再生説〟〝全部的再生説〟〝創造的再生説〟の三つがある。

 (注19)-一時的なもので正常なものが霊媒による入神状態であり、異状ないし病的なものに殺人とか自殺がある。半永久的なものというのは主として精神異常者に見られる。

 (注20)-それ一つを欠いても統体ではなくなる、つまり完全ではなくなるという、不可欠の存在。