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カテゴリ:★『小桜姫物語』 > 小桜姫物語

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 やがて私の娘時代にも終わりを告ぐべき時節がまいりました。女の一生の大事は言うまでもなく結婚でございまして、それが幸不幸、運不運の大きな岐路となるのでございますが、私とてもその型から外れる訳にはまいりませんでした。私の三浦へ嫁ぎましたのは丁度二十歳の春で山桜が真っ盛りの時分でございました。それから荒井城内の十数年の武家生活・・・・随分楽しかった思い出の種子もないではございませぬが、何を申してもその頃は殺伐な空気の漲った戦国時代、北条某(なにがし)とやら申す老獪な成り上がり者から戦闘を挑まれ、幾度かの激しい合戦の挙句の果が、あの三年越しの長の籠城、とうとう武運拙く三浦の一族は、良人(おっと)をはじめとして殆ど全部城を枕に討死してしまいました。その時分の不安、焦燥、無念、痛心・・・・今でこそすっかり精神の平静を取り戻し、別に口惜しいとも、悲しいとも思わなくなりましたが、当時の私共の胸には正に修羅の業火が炎々と燃えておりました。恥ずかしながら私は一時は神様も怨みました・・・・人を呪いもいたしました・・・・何卒その頃の物語だけは差し支えさせて頂きます・・・・。
 大江家の一人娘が何故他家へ嫁いだか、と仰せでございますか・・・・あなたの誘い出しのお上手なのには本当に困ってしまいます・・・・。ではホンの話の筋道だけつけてしまうことに致しましょう。現世の人間としてはやはり現世の話に興味を有たるるか存じませぬが、私共の境涯からは、そう言った地上の事柄はもう別に面白くも、おかしくも何ともないのでございます・・・・。
 私が三浦家への嫁入りにつきましては別に深い仔細はございませぬ。良人を私の父が見込んだのでございます。『頼もしい人物じゃ。あれより外にそちが良人とかしづくべきものはない・・・・』ただそれっきりの事柄で、私は大人しく父の仰せに服従したまででございます。現代の人達から頭脳が古いと思われるか存じませぬが、古いにも、新しいにも、それがその時代の女の道だったのでございます。そして父のつもりでは、私達夫婦の間に男児が生まれたら、その一人を大江家の相続者に貰い受ける下心だったらしいのでございます。
 見合いでございますか・・・・それはやはり見合いも致しました。良人の方から実家へ訪ねてまいったように記憶しております。今も昔も同じこと、私は両親から召されて挨拶に出たのでございます。その頃良人はまだ若うございました。確か二十五歳、縦横揃った、筋骨の逞しい大柄の男子で、色は余り白い方ではありません。目鼻立尋常、髭はなく、どちらかといえば面長で、目尻の釣った、きりっとした容貌の人でした。ナニ歴史に八十人力の荒武者と記してある・・・・ホホホホ良人はそんな怪物ではございません。弓馬の道に身を入れる、武張った人ではございましたが、八十人力などというのは嘘でございます。気立ても存外優しかった人で・・・・。
 見合いの時の良人の服装でございますか-服装は確か狩衣に袴を穿いて、お定まりの大小二腰、そして手には中啓を持っておりました・・・・。
 婚礼の式のことは、それは何卒お聞き下さらないで・・・・格別変わったこともございません。調度類は前以って先方へ送り届けておいて、後から駕籠(かご)に乗せられて、大きな行列を作って乗り込んだまでの話で・・・・式は勿論夜分に挙げたのでございます。全ては皆夢のようで、今更その当時を思い出してみたところで何の興味も起こりません。こちらの世界へ引越してしまえば、めいめい向きが違って、ただ自分の歩むべき途を一心不乱に歩むだけ、従って親子も、兄弟も、夫婦も、こちらでは滅多に付き合いをしているものではございません。あなた方もいずれはこちらの世界へ引き移って来られるでしょうが、その時になれば私共の現在の心持が段々お判りになります。『そんな時代もあったかナ・・・』遠い遠い現世の出来事などは、ただ一片の幻影と化してしまいます。現世の話は大概これで宜しいでしょう。早くこちらの世界の物語に移りたいと思いますが・・・・。
 ナニ私が死ぬる前後の事情を物語れと仰るか・・・。それではごく手短にそれだけ申し上げることに致しましょう。今度こそ、いよいよそれっきりでお終いでございます・・・。

自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 足掛け三年に跨る籠城・・・・月に幾度となく繰り返される夜討、朝駆、矢合わせ、切り合い・・・・どっと起こるトキの声、空を焦がす狼煙・・・・そして最後に武運いよいよ尽きてのあの落城・・・四百年後の今日思い出してみるだけでも気が滅入るように感じます。
 戦闘が始まってから、女子供は無論皆城内から出されておりました。私の隠れていた所は油壺の狭い入り江を隔てた南岸の森の蔭、そこにホンの形ばかりの仮家を建てて、一族の安否を気遣いながら侘び住まいをしておりました。只今私が祀られているあの小桜神社の所在地-少し地形は違いましたが、大体あの辺だったのでございます。私はそこで対岸のお城に最後の火の手の挙がるのを眺めたのでございます。
 『お城もとうとう落ちてしまった・・・・最早良人もこの世の人ではない・・・・憎ッくき敵・・・・女ながらもこの怨みは・・・・・』
 その時の一念は深く深く私の胸に喰い込んで、現世に生きている時はもとよりのこと、死んでから後も容易に私の魂から離れなかったのでございます。私がどうやらその後人並の修行が出来て神心が湧いてまいりましたのは、ひとえに神様のお諭しと、それから私の為に和やかな思念を送ってくだされた、親しい人達の祈願の賜物なのでこざいます。さもなければ私などはまだ中々救われる女性ではなかったのかも知れませぬ・・・・。
 兎にも角にも、落城後の私は女ながらも再挙を図るつもりで、僅かばかりの忠義な従者に護られて、あちこちに身を潜めておりました。領地内の人民も大変私に対して親切に庇ってくれました。-が、何を申しましても女の細腕、力と頼む一族郎党の数もよくよく残り少なになってしまったのを見ましては、再挙の計画の到底無益であることが次第々々に判ってまいりました。積もる苦労、重なる失望、ひしひしと骨身に染みる寂しさ・・・・私の体は段々衰弱してまいりました。
 幾月かを過ごす中に、敵の監視も段々薄らぎましたので、私は三崎の港から遠くもない、諸磯と申す漁村の方に出て参りましたが、モーその頃の私には世の中が何やら味気なく感じられてしようがないのでした。
 実家の両親は大変に私の身の上を案じてくれまして、しのびやかに私の仮宅を訪れ、鎌倉へ帰れと勧めてくださるのでした。『良人もなければ、家もなく、又跡を継ぐべき子供とてもない、よくよくの独り身、兎も角も鎌倉へ戻って、心静かに余生を送るのがよいと思うが・・・・』色々言葉を尽くして勧められたのでありますが、私としては今更親元へ戻る気持にはドーあってもなれないのでした。私はきっぱりと断りました。-
 『思し召しは誠に有難うございまするが、一旦三浦家へ嫁ぎました身であれば、再びこの地を離れたく思いませぬ。私はどこまでも三崎に留まり、亡き良人をはじめ、一族の後を弔いたいのでございます・・・・』
 私の決心のあくまで固いのを見て、両親も無下に帰家を勧めることも出来ず、そのまま空しく引取ってしまわれました。そして間もなく、私の住宅として、海から二、三丁引っ込んだ、小高い丘に、土塀を巡らした、ささやかな隠宅を建ててくださいました。私はそこで忠実な家来や腰元を相手に余生を送り、そしてそこで寂しくこの世の気息を引取ったのでございます。
 落城後それが何年になるかと仰るか-それは漸く一年余り私が三十四歳の時でございました。誠に短命な、つまらない一生涯でありました。
 でも、今から考えれば、私にはこれでも生前から幾らか霊覚のようなものが恵まれていたらしいのでございます。落城後間もなく、城跡の一部に三浦一族の墓が築かれましたので、私は自分の住居からちょいちょい墓参を致しましたが、墓の前で眼を瞑って拝んでおりますと、良人の姿がいつもありありと眼に現れるのでございます。当時の私は別に深くは考えず、墓に詣れば誰にも見えるものであろう位に思っていました。私が三浦の土地を離れる気がしなかったのも、つまりはこの事があった為でございました。当時の私に取りましては、死んだ良人に会うのがこの世に於ける、殆ど唯一の慰安、殆ど唯一の希望だったのでございます。『何としてもここから離れたくない・・・・』私は一途にそう思い込んでおりました。私は別に婦道がどうの、義理がこうのと言って、難しい理屈から割り出して、三浦に踏み止まった訳でも何でもございませぬ。ただそうしたいからそうしたまでの話に過ぎなかったのでございます。
 でも、私が死ぬるまで三浦家の墳墓の地を離れなかったという事は、その領地の人民の心によほど深い感動を与えたようでございました。『小桜姫は貞女の鑑である』などと、申しまして、私の死後に祠堂(やしろ)を立て神に祀ってくれました。それが現今も残っている、あの小桜神社でございます。でも右申し上げた通り、私は別に貞女の鑑でも何でもございませぬ。私はただどこまでも自分の勝手を通した、一本気の女性だったに過ぎないのでございます。

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 気の進まぬ現世時代の話も一通り片付いて、私は何やら身が軽くなったように感じます。そちらから御覧になったら私達の住む世界は甚だ頼りのないように見えるかも知れませぬが、こちらから現世を振り返ると、それは暗い、せせこましい、空虚な世界-どう思い直してみても、今更それを物語ろうという気分にはなり兼ねます。とりわけ私の生涯などは、どなたのよりも一層つまらない一生だったのでございますから・・・・。
 え、まだ私の臨終の前後の事情がはっきりしていないと仰るか・・・・そういえばホンにそうでございます。では致し方がございません、これから大急ぎで、一通りそれを申し上げしまうことに致しましょう。
 前にも述べた通り、私の体は段々衰弱して来たのでございます。床についてもさっぱり安眠が出来ない・・・箸を執っても一向食物が喉に通らない・・・心の中はただむしゃくしゃ・・・、口惜しい、怨めしい、味気ない、寂しい、情けない・・・・何が何やら自分にもけじめのない、様々の妄念妄想が、暴風雨のように私の衰えた体の内を駆け巡っておるのです。それにお恥ずかしいことには、持って生まれた負けず嫌いの気性、内実は弱いくせに、無理にも意地を通そうとしておるのでございますから、つまりは自分で自分の身を削るようなもの、新しい住居に移ってから一年とも経たない中に、私はせめてもの心遣いなる、あのお墓参りさえも出来ないまでに、よくよく悴憔(やみほう)けてしまいました。一口に申したらその時分の私は、消えかかった青松葉の火が、プスプスと白い煙を立て燻っているような按配だったのでございます。
 私が重い枕に就いて、起居も不自由になったと聞いた時に、第一に馳せつけて、なにくれと介抱に手を尽くしてくれましたのはやはり鎌倉の両親でございました。『こうかけ離れて住んでいては、看護に手が届かんで困るのじゃが・・・』めっきり小びんに白いものが混じるようになった父は、そんな事を申して何やら深い思案に暮れるのでした。大方内心では私の事を今からでも鎌倉に連れ戻りたかったのでございましたろう。気性の勝った母は、口に出しては別に何とも申しませんでしたが、それでも女はやはり女、木陰へ回ってそっと涙を拭いて長太息を漏らしているのでこざいました。
 『いつまでも老いたる両親に苦労をかけて、自分は何という親不孝者であろう。いっそのこと全てを諦めて、大人しく鎌倉へ戻って専心養生に努めようかしら・・・・』そんな素直な考えも心のどこかに囁かないでもなかったのですが、次の瞬間には例の負け嫌いが私の全身を包んでしまうのでした。『良人は自分の眼の前で討死したではないか・・・・・憎いのはあの北条・・・・・たとえ何事があろうとも、今更おめおめと親許などに・・・・・』
 鬼の心になり切った私は、両親の好意に背き、同時に又天をも人をも怨み続けて、生き甲斐のない日にちを数えていましたが、それもそう長いことではなく、いよいよ私にとりて地上生活の最後の日が到着いたしました。
 現世の人達から観れば、死というものは何やら薄気味の悪い、何やら縁起でもないものに思われるでございましょうが、私共から観れば、それは一匹の蛾が繭を破って脱け出るのにも類した、格別不思議とも無気味とも思われない、自然の現象に過ぎませぬ。従って私としては割合に平気な気持で自分の臨終の模様をお話することが出来るのでございます。
 四百年も以前のことで、大変記憶は薄らぎましたが、ざっと私のその時の実感を述べますると-何よりも先ず目立って感じられるのは、気が段々遠くなって行くことで、それは丁度、あのうたた寝の気持-正気のあるような、又無いような、なんとも言えぬうつらうつらした気分なのでございます。傍から覗けば、顔が痙攣したり、冷たい脂汗が滲み出たり、死ぬる人の姿は決して見よいものではございませぬが、実際自分が死んでみると、それは思いの外に楽な仕事でございます。痛いも、痒いも、口惜しいも、悲しいも、それは魂がまだしっかりと体の内部に根を張っている時のこと、臨終が近付いて、魂が肉のお宮を出たり、入ったり、うろうろするようになりましては、それ等の一切はいつとはなしに、どこかへ消える、というよりか、寧ろ遠のいてしまいます。誰かが枕辺で泣いたり、叫んだりする時にはちょっと意識が戻りかけますが、それとてホンの一瞬の間で、やがて何もかも少しも判らない、深い深い無意識のモヤの中へと潜り込んでしまうのです。私の場合には、この無意識の期間が二、三日続いたと、後で神様から教えられましたが、どちらかといえば二、三日というのは先ず短い部類で、中には幾年幾十年と長い長い睡眠を続けているものも稀にはあるのでございます。長いにせよ、又短いにせよ、兎に角この無意識から眼を覚ました時が、私達の世界の生活の始まりで、舞台がすっかり変わるのでございます。

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 いよいよこれから、こちらの世界のお話になりますが、最初はまだ半分足を現世にかけているようなもので、やはり娑婆臭い、お聞き苦しい事実ばかり申し上げることになりそうでございます。-ナニその方が人間味があって却って面白いと仰るか・・・。御冗談でございましょう。話すものの身になれば、こんな辛い、恥ずかしいことはないのです・・・・。
 これは後で神様から聞かされた事でございますが、私はやはり、自力で自然に眼を覚ましたというよりか、神様のお力で眼を覚まさして頂いたのだそうでございます。その神さまというのは、大国主神(おおくにぬしのかみ)様のお指図を受けて、新しい帰幽者の世話をして下さる方なのでございます。これにつきては後で詳しく申し上げますが、兎に角新たに幽界に入ったもので、こういった神のお神使、西洋で申す天使のお世話に預からないものは一人もございませんので・・・・。
 幽界で眼を覚ました瞬間の気分でございますか。それはうっとりと夢でも見ているような気持、そのくせ、何やら心の奥の方で『自分の居る世界はモー違っている・・・・』と言った、微かな自覚があるのです。四辺は夕暮れの色に包まれた、いかにも森閑とした、丁度山寺にでも寝ているような感じでございます。
 そうする中に私の意識は少しずつ回復してまいりました。
 『自分はとうとう死んでしまったのか・・・・・』
 死の自覚が頭脳の内部ではっきりすると同時に、私は次第に激しい昂奮の暴風雨の中に巻き込まれて行きました。私が先ず何より辛く感じたのは、後に残した、老いたる両親のことでした。散々苦労ばかりかけて、何の報いるところもなく、若い身上で、先立ってこちらへ引越してしまった親不幸の罪、こればかりは全く身を切られるような思いがするのでした。『済みませぬ済みませぬ、どうぞどうぞお許しくださいませ・・・・』何回私はそれを繰り返して血の涙に咽んだことでしょう!
 そうする中にも私の心は更に他の様々の暗い考えに搔き乱されました。『親にさえ背いて折角三浦の土地に踏み止まりながら、自分は遂に何の仕出かしたこともなかった!なんという不甲斐なさ・・・・なんという不運の身の上・・・・口惜しい・・・・悲しい・・・・情けない・・・・』何が何やら頭脳の中はただごちゃごちゃするのみでした。
 そうかと思えば、次の瞬間には、私はこれから先の未知の世界の心細さに戦慄しているのでした。『誰も迎えに来てくれるものはないのかしら・・・』私はまるで真っ暗闇の底無しの井戸の内部へでも突き落とされたように感ずるのでした。
 殆ど気でも狂うかと思われました時に、ひょっくりと私の枕辺に一人の老人が姿を現しました。身には平袖の白衣を着て、帯を前で結び、何やら絵で見覚えの天人らしい姿、そして何ともいえぬ威厳と温情との兼ね具わった、神々しい表情でじっと私を見つめておられます。『一体これは誰かしら・・・・』心は千々に乱れながらも、私は多少の好奇心を催さずにおられませんでした。
 このお方こそ、前に私がちょっと申し上げた大国主神様からのお神使なのでございます。私はこのお方の一方ならぬ導きによりて、辛くも心の闇から救い上げられ、尚その上に天眼通その他の能力を仕込まれて、ドーやらこちらの世界で一人立ちが出来るようになったのでございます。これは前にも述べた通り、決して私にのみ限ったことではなく、どなたでも皆神様のお世話になるのでございますが、ただ身魂の因縁とでも申しましょうか、めいめいの踏むべき道筋は違います。私などは随分厳しい、険しい道を踏まねばならなかった一人で、苦労も一しほ多かったばかりに、幾分か他の方より早く明るい世界に抜け出ることにもなりました。ここで念の為に申し上げておきますが、私を指導してくだすった神様は、お姿は普通の老人の姿を執っておられますが、実は人間ではございませぬ。つまり最初から生き通しの神、あなた方の自然霊というものなのです。こう言った方のほうが、新しい帰幽者を指導するのに、まつわる何の情実もなくて、人霊よりもよほど具合が宜しいと申すことでございます。

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 私がお神使の神様から真っ先に言い聞かされたお言葉は、今ではあまりよく覚えてもおりませぬが、大体こんなような意味のものでございました。-
 『そなたはしきりに先刻から現世の事を思い出して、悲嘆の涙に暮れているが、何事がありても再び現世に戻ることだけは叶わぬのじゃ。そんなことばかり考えていると、良い境涯へはとても進めぬぞ!これからはワシがそなたの指導役、何事もよく聞き分けて、尊い神様の裔孫(みすえ)としての御名を汚さぬよう、一時も早く役にも立たぬ現世の執着から離れるよう、しっかりと修行をしてもらいますぞ!執着が残っている限り何事も駄目じゃ・・・・』
 が、その場合の私には、こうした神様のお言葉などは殆ど耳にも入りませんでした。私は色々の難題を持ち出して散々神様を困らせました。お恥ずかしいことながら、罪滅ぼしのつもりで一つ二つここで懺悔いたしておきます。
 私が持ちかけた難題の一つは、早く良人に会いたいという注文でございました。『現世で怨みが晴らせなかったから、良人と二人力を合わせて怨霊となり、せめて仇敵を取り殺してやりたい・・・・』-これが神さまに向かってのお願いなのでございますから、神さまもさぞ呆れ返ってしまわれたことでしょう。勿論、神様はそんな注文に応じてくださる筈はございませぬ。『他人を怨むことは何より罪深い仕業であるから許すことは出来ぬ。又良人には現世の執着が除れた時に、機会を見て会わせてつかわす・・・』いとも穏やかに大体そんな意味のことを諭されました。もう一つ私が神様にお願いしたのは、自分の遺骸を見せてくれとの注文でございました。当時の私には、せめて一度でも眼前に自分の遺骸を見なければ、何やら夢でも見ているような気持で、諦めがつかなくなって仕方がないのでした。神様は暫し考えておられたが、とうとう私の願いを容れて、あの諸磯の隠宅の一間に横たわったままの、私の遺骸をまざまざと見せてくださいました。あの痩せた、蒼白い、まるで幽霊のような醜い自分の姿-私は一目見てぞっとしてしまいました。『モー結構でございます』覚えずそう言って御免を蒙ってしまいましたが、この事は大変私の心を落ち着かせるのに効能があったようでございました。
 まだ外にも色々ありますが、あまりにも愚かしい事のみでございますので、一先ずこれで切り上げさせて頂きます。現在の私とて、まだまだ一向駄目でございますが、帰幽当座の私などはまるで醜い執着の凝塊、只今思い出しても顔が赤らんでしまいます・・・。
 兎に角神様もこんな聞き分けのない私の処置にはほとほとお手を焼かれたらしく、色々と手をかえ、品をかえて御指導の労を執ってくださいましたが、やがて私の祖父・・・・私より十年程前に亡くなりました祖父を連れて来て、私の説諭を仰せ付けられました。何しろとても会われないものと思い込んでいた肉親の祖父が、元の通りの慈愛に溢れた温容で、泣き悶えている私の枕辺のひょっくりとその姿を現したのですから、その時の私の嬉しさ、心強さ!
 『まあお爺さまでございますか!』私は覚えず跳び起きて、祖父の肩に取り縋ってしまいました。帰幽後私の暗い暗い心胸に一点の光明が射したのは実にこの時が最初でございました。
 祖父は様々に私を労わり、且つ励ましてくれました。-
 『そなたも若いのに亡くなって、誠に気の毒なことであるが、世の中は全て老少不定、寿命ばかりは何とも致し方がない。これから先はこの祖父も神様のお手伝いとして、そなたの手引きをして、是非ともそなたを立派なものに仕上げて見せるから、こちらへ来たとて決して決して心細いことも、又心配なこともない。請合って、他の人達よりも幸福なものにしてあげる・・・・』
 祖父の言葉には格別これと取り立てて言う程のこともないのですが、場合が場合なので、それは丁度しとしとと降る春雨の乾いた地面に浸みるように、私の荒んだ胸に融け込んで行きました。お蔭で私はそれから幾分心の落ち着きを取り戻し、神様の仰せにも段々従うようになりました。人を見て法を説けとやら、こんな場合にはやはり段違いの神様よりも、お馴染みの祖父の方が、却って都合のよいこともあるものと見えます。私の祖父の年齢でございますか-確か祖父は七十余りで亡くなりました。色白で細面で、小柄の老人で、歯は一本なしに抜けておりました。生前は薄い頭髪を茶筅(ちゃせん)に結っていましたが、幽界で私の許に訪れた時は、意外にもすっかり頭を丸めておりました。私と違って祖父は熱心な仏教の信仰者だった為でございましょう・・・・・。

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