自殺ダメ



 『これが死後の世界だ』M・H・エバンズ著 近藤千雄訳より

 P120より抜粋。


 以上四章に亘る説明で霊界という所が決して夢のような取りとめのない世界でなく、反対に、地上以上に整然たる秩序の中に生き生きとした〝仕事の生活〟が営まれている実在の世界であることを認識されたことと信じる。
 しかし、これまでの説明では、ただ霊界にも仕事があるという漠然とした概念だけで、霊界にはどんな仕事があるのかという仕事の中身の問題や、どんな人がどんな仕事に就くかという資格の問題、或いは一つの仕事が選ばれていく細かい過程については直接にタッチされていない。そこで本章ではそういった問題をトーマスとオーエンの書物を参照しながら観てみたい。

 他界直後

 地上の人間は概して仕事を嫌うものである。自分の仕事に生き甲斐を感じ情熱をもって仕事に打ち込む人は少ない。その理由は三つ考えられる。第一は仕事と能力とが一致しないこと。言い換えれば適材適所ということが実行されていないことである。第二はエネルギーの消耗と補給のバランスが取りにくいことである。もしも我々地上の人間が霊界の人間のように、随時、必要なだけのエネルギーを摂取して疲労とか不快などを自由かつ完全に取り除くことが出来たら、丁度子供が疲れを知らずに遊びたわむれるように、我々大人も思う存分仕事に身を打ち込むことが出来るに違いない。第三の理由は仕事の目的と意義を知らないことである。仕事とは要するに能力の作用であり、能力の作用を通じてこそ魂の成長が得られるのである。身体とはその作用の為の道具であり、器械類は更にその代用のようなものである。科学者や芸術家のように知性や想像力などを使用する人達でも、手がなければ仕事にならないのである。
 そうした地上における仕事の形態は霊界へ行ってもある程度まで維持されるものらしい。すなわち霊界の事情にすっかり慣れて、意念だけで生活出来るようになるまでには相当な期間が必要であり、その期間中は地上と似たような仕事を続けるわけである。それを次の通信の中に見てみよう。出典はトーマスの『実証による死の彼方の生活』。通信者はトーマス氏の父親と妹のエッタ。

 父「例えば旅行する場合をとってみても、こちらでは汽車とか自動車とかの交通機関は利用しない。しかし使用しないといっても原則的に言えばの話であって、例外的なことが沢山ある。例えば私は汽車や自動車なんかは絶対に使用しないし、また使用している人を見たこともないのだが、地上でエンジン関係の仕事に携わっていた人などは、指導霊から新しく仕事をあてがわれる迄は大抵エンジンのことを研究したがるのだ。そういう人が何か新しいものでも発明すると、早速地上のエンジニアに教えてやろうとする。だが、そういった地上的な機械仕事には直ぐに飽きが来る。所詮、こちらの人間には不必要なものだからだ。が、父さんの見るところでは、おそらく地上にはいずれそういった機械類が必要でなくなる時代がやって来ると思う。そのワケは、霊界の人間が使用している能力は地上の人間にもちゃんと宿っているからだ。ただ居眠りをしているにすぎん。フィーダの話によると、お前(トーマス氏)の友達で地上で工場を経営していたC・B君、あの人はこちらへ来てからも相変わらず工場を経営しているそうだ。が、進歩的な彼のことだ。そういつまでも続けることはせんだろう。今に趣味が変わって次第に霊的な生活に入っていくものとみている。もっとも今のところは生き甲斐を感じているらしいから、もうあと二、三年は工場の仕事を続けるだろうよ。
 「園芸などはこちらでも特に盛んな仕事の一つだ。芸術の中では音楽と絵画が盛んだが、中でも音楽は非常に盛んだ。勿論彫刻もあるし、綴れ織りなんかもある。一口で言えば地上の人間が楽しむものは一応全部揃っている。そういった仕事には当然作品や製品等が生まれ、時間の経過と共に不要品も出て来る。例えば作者又は所有者が上の界へ行ってしまった場合などがそれだ。そうなると当然その不要品の処理ということが問題となる。新参者が引き続いて使用してくれることもあるが、そうでなかったら、こちらには〝昇華〟又は〝変質〟の技術がある。その技術で全く異質のものにしてしまう。それに使用するものは矢張り意念であり、その仕事を受け持つのは物を造ることを専門にしている人達だ。
 「この間お前に通信したストレベット君、彼などは全然ダメだ。あの人は地上にいた時に全く創造力というものを働かせたことがないので、精神力が非常に弱い。素質もあるし立派な知性も具えている人なんだが、ただ持っているというだけで、それを実際に使って鍛えるということをやったことのない人だ。だから彼には何一つ自分でこしらえたものがない。他人が作ったものばかり使っている。その点この間交霊会に出た人(トーマス氏の友人)などは全く対照的な人だ。あの人はこちらへ来てみたら既に自分の思う通りの環境が出来ていた。地上生活中に着々とこしらえていた訳で、それだけ彼の創造力が強かった訳だ。勿論普段の意識では気が付いていなかったが、潜在意識はちゃんと知っていた。彼の創造力は晩年になってますます強さを増したが、それでも今と比べたら話にならん。今の彼は心身共に若返って、それは立派なものだ。彼の場合は生活そのものにも次から次へと新しい喜びや興味が湧いてきて、実に幸福そのものだ。が、それは皆、地上生活中に蒔いた種が実ったもので、結局それだけのものを頂戴する資格があるわけだ」
 問「着物の話をされましたが、そちらで着る衣服は地上で着る衣服の写しですか、それとも新しくあつらえるわけですか」
 エッタ「結局は両方ということになるでしょう。地上でも衣服を裏返したりして、見かけの上ではすっかり新しいものに作り変えることが出来るでしょう。あれと同じようなことがこちらでも行なわれます。同じといっても、やり方はこちら独得のものです。つまり地上で気に入っていた衣服への執着が強く残っているので、その念を型にしてこしらえるわけです。勿論大切なのは意念の働きです。こちらでは何かにつけ意念というものが一番大切です。ですが何もかも意念でやってしまうのかというと、そうでもありません。例えば地上からやって来たばかりの人は物的感覚が強いですから、すぐさま意念だけで仕事をさせるのは無理です。地上で建築の仕事に携わっていた人に直ぐ設計の仕事をさせても上手く行きません。矢張り本人がやりたいと思うことから始めるのが一番です。婦人は衣服の仕事をしたがる人が多いです。責任ある仕事には就けません。頭がいいとか技術が優れているというだけでは上の界へ行くことは出来ません。大切なのは魂の善性ないし霊格です。私達のいる界より下の界に、私達より頭のいい方や技術の優れた方が沢山おります。そうかと思うと底抜けの善人ではあっても思考技術の不足した方が高い世界にいます。そういう方は絵画を額縁に入れたり椅子にカバーを取り付けたりする仕事を好みます。精神的な仕事より手先の仕事の方が面白いのでしょう」
  
(解説)

 トーマス

 スピリチュアリズムの著述家の中でも有益な著書を数多く残した人。通信の真実性を確かめる為に霊界の父親との間でブックテストというのをやったことは有名。例えば交霊会が終わりに近付くと、その日の通信がトーマス氏の主観によるものでなかったことを示す何らかの証拠を父親に要求する。すると父親から「家に帰ったら窓の方を向いた本棚の一番上の段の左から五冊目の本の三十三ページを見なさい。真ん中辺りから父さんが晩年に口にしていた思想とよく似たことが書いてあるから」といった返事がある。勿論そういった本はトーマス氏が一度も読んだことのないものに限られる。こうして自分の主観や潜在意識の排除に努めた。主著は本書に引用したもの以外に「死後存続に関する新たな証拠」「人生の日没の彼方」等。

 フィーダ

 英国の生んだ世界的霊言霊媒オズボーン・レナードの支配霊。トーマス氏の著書は主としてこのレナード夫人を通じて得た霊言を纏めたもの。
 フィーダはよく通信の取次ぎをすることがあり、この場合も実際に語っているのはフィーダである。直接取り次ぐ時は〝私〟と言い、その内〝彼〟に変わったりして、全体の話の流れに注意していないと混乱してしまう。その混乱を避ける為にここでは直接話法に統一した。その取次ぎの様子が浅野和三郎著「心霊研究とその帰趨」に出ている。問はトーマス氏、答えはこの父親とフィーダ。
 問「フィーダが取り次ぎをする時、通信者は実際フィーダの前にいるのですか、それとも単に思念を送るだけですか」
 父「それはどちらの場合もある。フィーダの眼にこちらの姿が見えている場合もあれば、フィーダがこちらの思想のみを把握する場合もある。いつでも見たり聞いたりするというわけではない。概してフィーダと我々との連絡は確実であるが、人間界との連絡はそれ程上手く行かない」
 問「あなたがフィーダに話しかける時、彼女が聞くものは何ですか」
 父「それは私の言葉イヤむしろ私の言葉の含んでいる思想の波を捕える。地上の人と人との間にあっても思想伝達は可能だ。我々霊界居住者にとっては思想伝達が生命だ。それは言葉以上に正確だ。言葉そのものを送ることも不可能ではないが、しかし思想を送るより遙かに困難だ」
 問「フィーダはどんな具合に通信を受け取るのですか」
 フィーダ「通信者は私に感じさせたり見せたり聞かせたり、色んなことをします。私には感じることが一番容易のようです。先方で冷たいと感ずれば私にも冷たく感じ、熱いと感ずれば私にも熱く感じられます。つまり催眠術の暗示みたいなものです」(一部改める)