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スピリチュアリズム訳者 浅野和三郎について

スピリチュアリズム訳者 浅野和三郎について 目次

日本の先駆者・浅野和三郎

浅野和三郎著作集の刊行にあたって

父浅野和三郎のこと
       
       
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 [日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》]近藤千雄著より

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 浅野和三郎氏は筆者の師匠の師匠に当たるが、年代的な隔たりの為に直接の面識はない。従ってその人となりについては私の師匠の間部詮敦氏と、米寿まで生きられた浅野多慶子夫人からお聞きしたことから想像するのみであるが、その業績は遺されているものから直接的に知ることが出来る。一言にして尽くせば、疾風怒濤の中を生き抜いた《知的巨人》と呼ぶに相応しい人物と評しても過言ではないであろう。
 浅野氏は帝国大学(現・東京大学)英文科の出身で、卒業後は新進気鋭の英文学者として早くから知識層にその名が響き渡っていた。美文調の名訳には他の追随を許さない浅野氏ならではの特徴があり、旧海軍の幹部養成学校の教職も兼ねていて、その前途は洋々たるものだった。
 その浅野氏が急転直下、霊的なことにのめり込んで行ったのは、三男の病気がきっかけだった。どの名医がどう処方しても治らない発熱性の病気が、女性祈祷師の予言通りに全治したことで、浅野氏はそれまで想像もしなかった世界があることに気付き、その祈祷師のもとを足繁く訪れて未知の世界を覗き見し始める。
 そこから運命の歯車が反転して当時の新興宗教の一つである大本教に入信し、やがてその幹部となる。大正五年(1916)のことで、そのニュースは当時の知識階層に衝撃を与えると同時に、多くの知識人や軍人が浅野氏を慕って続々と入信して、一種の社会現象の様相を呈した程だった。
 が、実は浅野氏が入信を決意したのは、大本教の根本経典である《おふでさき》の内容を分析・研究したいという願望が抗し難い程のものだったからで、単なるご利益信心とは無縁のものだった。つまり教祖・出口ナオによる自動書記通信の内容を知りたいとの知的好奇心に突き動かされたと言ってよいであろう。
 もとより大本教側には浅野氏を絶好の宣伝材料として利用しようという魂胆があったことは明らかで、いつしか「大本の浅野か浅野の大本か」とまで言われる程の中心的存在となって行く。やがてそれがナオの娘婿・出口王仁三郎の嫉妬を買い、色々と確執が生じたようであるが、そうこうしている中にナオの《おふでさき》の中に当時の天皇である明治大帝を揶揄する文言があることに宮憲が気付く。日清・日露の近代戦争に勝利して大いに意気揚がり、軍国主義への道をまっしぐらに突き進んでいた時だけに、穏便に見過ごしてくれる筈はなかった。
 ちなみに浅野氏は入信後間もなく、ナオを通して働きかけている霊団が大和朝廷によって併合された出雲の豪族達であることを見抜いていた。が、ナオの質素ながら神々しいばかりの美しさと、人間性には問題があっても霊的能力には見るべきものがあると王仁三郎の価値を認めていた浅野氏は、まだ大本教から学ぶべきものがあるとの判断から直ぐには脱会せず、当時欧米を席巻していたスピリチュアリズムの文献を取り寄せて最先端の情報を吸収しながら、大本教信者としての活動を続けていた。
 しかし、大正十年、事実上の幹部だった浅野氏は王仁三郎と共に《不敬罪》のかどで逮捕される。拘置・取調べは126日に及び、裁判も一審、二審と続くが、大正天皇の崩御による恩赦で《免訴》となる。昭和二年(1927)のことである。
 こうした経過だけを見てくると、浅野氏も随分余計な回り道をしたような印象を受ける向きもいるかも知れないが、ほぼ半世紀をオーソドックスなスピリチュアリズムに携わってきた筆者から見ると、浅野氏が辿った道に何一つ無駄はなかったことが分かる。
 三男の病気も女性祈祷師との出会いも背後霊団の仕組んだ演出であり、ナオと王仁三郎との出会いは浅野氏の生得の資質である審神者(さにわ)的能力の開発に大きく寄与し、拘置所での126日間は霊視能力と洞察力の練磨の絶好のチャンスとなった。
 筆者は東京での四年間の大学時代は一人で、結婚後は家族四人で、横浜の鶴見にご在住の浅野多慶子夫人をお訪ねして、浅野氏にまつわるエピソードを《妻》としての立場から語られるのを聞いている。浅野氏は筆者の誕生の二年後に他界しておられるので、お訪ねした時はいずれもほぼ筆者の年齢の数だけ年数が経っていた計算になる。
 第三者の外観的な見方とは違って、生涯を共にした妻の立場からの思い出には切実な感慨がこもっていた。例えば126日に及ぶ拘留期間中、夫人は何度か差し入れに訪れている。その時の屈辱的な思いは察するに余りあるが、その折に毎回取り替えたのが足袋で、甲のところが擦り切れていたというのである。
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 「正座して鎮魂帰神に一心不乱になっていたのでしょうねぇ」
 この夫人の推察は正鵠(せいこく)を射ていると見てよいであろう。あの拘置期間は浅野氏にとっては人生最大の窮地(ピンチ)で、それだけに一心不乱に背後霊団との感応道交を求めていたことであろう。その至誠に応えてインスピレーションがふんだんに流入していた。
 そう筆者が断言するにはそれなりの根拠がある。保釈後まだ裁判の係争中であるにも拘わらず、大正十一年十二月に《心霊科学研究会》の発足へ向けての集会を開催しているのである。更に注目すべきことは、昭和三年発行の浅野氏のスピリチュアリズム関係の第一作『心霊講座』の序文でこう述べていることである。(一部読み易く改めた)

 最近七、八年間に東西両洋にまたがって続出した無数の心霊事実の中から一番正確味に富み、又一番有意義と思われるものを選り出して適宜に分類し、そして出来るだけ公平な態度でそれらの生きた事実が何を教えているかを詮索・検討してみたいというのが、私の執筆の目的です。
 私としてはこれでも十数年来扱ってきた問題ですから、最初多少の自信を持って仕事に掛かりましたが、イザ筆を取ってみると案外私の平生の準備不足が分かりまして、新たに参考書類を集めたり新たな調査のやり直しをしたり、ついに丸々二年間この仕事に捧げてしまいました。私が本書の最後を書き上げたのは本年の一月でしたが、その時はヤレヤレ重荷を下ろした、という気がしました。(中略)
 私は本年九月のロンドンで開かれる世界スピリチュアリスト大会に臨むべく、目下その準備に忙殺されておりますが、こうした際にたまたま本書が出ることになったのは甚だ意義深いことと存じます。(後略)

 この時点で「十数年来扱ってきた」というのであるから、「大本の浅野か浅野の大本か」と謳われた絶頂期には、浅野氏自身は既に大本教に見切りをつけ、欧米のスピリチュアリズムへと関心を向けていたことが分かる。ここから天才的英語力が真価を発揮し始めるのである。
 今『心霊講座』に目を通してみると、あの時代によくぞここまで欧米のスピリチュアリズムの動向を把握していたものだと感嘆を禁じ得ない程、押さえるべきところはキチンと押さえていて、少なくとも現象面に関する限りは主観・客観共に遺漏はない。
 ただ、惜しむらくは肝心の高級界からのメッセージ、所謂霊界通信があまりに断片的過ぎる嫌いがある。この傾向は世界スピリチュアリスト大会からの帰途、各種の霊界通信を購入して持ち帰ってからも変わらず、ワードの『死後の世界』(潮文社)を唯一の例外として、他は全て部分訳ないしは抄訳で終わっている。翻訳を任せられる程英語の達者な人物が身近にいなかった為に、そこまで手が回らなかったということであろう。

       
       
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 西欧の心霊研究を日本に付植し、その研究と普及に不滅の業績を残した浅野和三郎の著作が、半世紀ぶりに陽の目を見ることになった。これらの多くは長年絶版のままであり、心霊研究家や同好者の間から、その再刊が待望されていたものばかりである。
 世界の霊界通信の至宝といわれる『霊訓』『永遠の大道』『死後の世界』をはじめ、日本の霊界通信の白眉『小桜姫物語』、また心霊研究の不朽の名著とされる『心霊講座』等々、次々と刊行されるわけで、これはまさに、文字通り、心霊の秘庫が開かれることになったわけである。
 130余年前に欧米で発生した近代心霊研究は、唯物主義化して、崩壊に向かうであろう現代を予測して発生した、いわば天啓であって、近代の知性と科学的な方法によって、現代人に、分かり易く納得ゆく形で、霊的真理を示そうとするものであった。
 浅野和三郎は、早くから英文学者として令名たかく、本邦最初のシェイクスピアの完訳者の一人、『スケッチブック』の名訳などによって知られていた。しかし、心霊研究のもつ計り知れない意義に気付くと、それらの名声も海軍教官の要職も投げ打って、この道に入った。大正十二年、東京に心霊科学研究会を設立、機関誌「心霊と人生」を発刊、研究と心霊思想の普及に献身した。昭和十二年の死に至る僅か十五年間に、四十余冊の著作をなし遂げている。
 これらの活動で、心霊研究は、日本に確実に定着され、その人生指導原理であるスピリチュアリズム(神霊主義)が展開され、その偉業は計り知れないものがある。
 その後の仕事は、弟子である脇長生の手に受け継がれ、昭和五十三年の死まで、心霊科学研究会と月刊誌「心霊と人生」は健在で、心霊研究、なかんずくスピリチュアリズムの新展開の面で、日本における指導的役割を果たしてきた。
 この度、『浅野和三郎著作集』が刊行されることは、既に古典の地位を獲得した、これら名著を世に残すだけでなく、更に重大な意味があるように思える。人類のかってない物質的繁栄と共に、核戦争、飢餓、人心荒廃などの危機が迫っている。これは、物質の力のほかに霊的な存在を見失った人類の病気であって、これを治す処方箋は、もはや心霊研究の外にないのである。しかし反面では、超能力や霊的現象に対する関心が異常に高まってきている。これは人類の危機に救いを見出せない人心の不安の表れである。これに便乗して雑多な心霊書の類が氾濫している。古い霊術や、宗教的秘法や、興味本位の心霊談などで、現代の危機は到底救えるものではない。逆に、これらが誤った心霊的迷信を撒き散らすという、新しい危機さえ生まれつつあるのである。
 今回の出版は、まさに時宜を得た、いわば天の時の感が深いのである。浅野和三郎が付植した心霊研究が、もう一度ここで確認され、130余年前からその開花の時を待っている、科学的心霊研究とその帰結であるスピリチュアリズムが、逆に、日本から世界に向かって拡がっていくかもしれない予感さえ帯びているのである。
この出版の裏には、永年にわたり、資料収集と保管に心を砕いてきた、浅野和三郎氏のご長女・秋山美智子様、令孫・浅野修一氏らの悲願が込められていることを記しておきたい。また、刊行に深い理解と協力を惜しまれなかった、潮文社社長、小島正氏の識見に敬意を表する次第である。

              昭和六十年四月

                                             心霊研究家 桑原啓善

              見えない壁の向こうに[死後の世界]J・S・M・ワード著 浅野和三郎訳の冒頭より
       
       
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 現今、霊魂の存在を肯定する事は、世界の趨勢(すうせい)であり心霊問題に関心をお持ちの方々が増えておりますが、この時期に関係各位のご理解を得て、著作集が刊行される運びとなりました事は、私にとりましてこの上ない喜びでございます。
 父和三郎は、明治七年八月茨城県に生まれ、明治三十二年東京帝国大学英文学科を卒業致しました。入学の年小泉八雲先生が、英文学担当教師として赴任し、卒業まで教えを受けることになりました。この頃美文(美しい語句を用い装飾をつくした擬古文)が流行し、和三郎は馮虚(ひょうきょ)の雅号(兄正恭が赤壁賦からとって命名したもの)を用いて、「帝国文学」「新聲」「明星」等に殆ど毎月作品を発表するようになりました。処女作は、「吹雪」と題する短編で帝国文学に発表されるや大町桂月氏などが、文芸倶楽部の評論欄でしきりに褒め、大学部内でも、かなりの評判になりました。
 それらの内、「吹雪」「谷川の水」「血くもり」は、戸沢姑射、久保随両氏との合著、『白露集』なる文集に収められ、洛陽の紙価を高めたとの事でございます。後年、高須梅渓氏は、美文について記した後、今から見ると、芸術味のあったのは、馮虚の美文のみで、他は云うに足りるものがなかった。(明治大正昭和文学講話)と評しております。
 さて和三郎は、英文科在籍中、翻訳にも筆を染め、雑誌「花の園生」に「賢夫人」を連載したのをはじめ、単行本として、新聲社から『英文評釈』、大日本図書から、アーヴィングの『スケッチブック』、ディッケンズの『クリスマスカロル』、ゴールドスミスの『ヴィカー物語』、英学新報社から、エドワーズ『奇々怪々』を出版しております。このうち特に、『スケッチブック』は、読者から歓迎を受け、大正年代までに、十八版を重ねました。次に、同窓、戸沢姑射氏と共同で、『沙翁全集』を企てまして、これは、我が国における最初のシェクスピアの完訳だとの事でございます。和三郎は「ヴェニスの商人」「御意のまま」「十二夜」を訳しております。またこの時代に成ったものに『英文学史』がございます。米国文学史、英詩の種類及び、韻律法を加え、一千頁を超す大冊で、当時すこぶる好評をもって迎えられ、類書が少なかっただけに、研究者に裨益するところがあったと思われます。
 さて大学を終えてから、海軍教授として、機関学校で英語を講じておりましたが、その間毎年位階もあがり、順風満帆の生活をしておりましたが、以下のような経緯から心霊研究の道に入りました。
(一)先の「吹雪」の発想がある種のインスピレーションによって成ったこと。
(二)恩師、小泉八雲先生が、怪談妖怪等日本の古いものに興味を示され、その影響を受けたと思われること。
(三)外国文学翻訳中、「スケッチブック」「クリスマスカロル」「奇々怪々」等で幽霊譚にふれた事。
(四)三男三郎が原因不明の発熱をおこし、それが、行者の予言通りの日に治療したこと。
(五)妻、多慶子が優れた霊能者であったこと(ずっと後になって判明したことですが)。
 かくして、大正十二年三月、学士会館において心霊科学研究会の発表式を行ないました。当時の各界の名士が多数参加して下さいました。まもなく、関東大震災に遇い、一時大阪に仮事務所を開きましたが、大正十四年再び、東京に事務所をおき、雑誌「心霊と人生」を刊行し、表紙のデザインも二男新樹に担当させました。
 昭和三年ロンドンにおける第三回世界神霊大会に、正規の日本代表として一名のみ選ばれ出席し、かつグロートリアン・ホールにて“近代日本における神霊主義”の題のもとに講演も致しました。英国での収穫はクリユーにおけるホープ氏の心霊写真撮影を自ら確かめたことでした。
 次いで、米国に渡りクランドン邸における物理実験会に加わり、物質化霊の指紋作製現象により、これを採集し持ち帰りました。(当方現存)
 これら欧米の事情をつぶさに体験し、死後個性の存続に確信をもつようになりました。(詳細は欧米心霊行脚録参照)
 帰朝後二男新樹の死にあい、悲しみのうちにも心霊研究家として更に探求を深め、妻多慶子を通じて霊界通信を開始し、これが後の小桜姫物語にもつながりました。この頃我が国にもようやく世界的霊媒が出現し、世間的にも心霊現象が認められるようになりました。
 このように心霊現象の科学的究明を終え、心霊科学とその基礎に立ったスピリチュアリズムの研究と普及に心血を注ぎ、日本思想にもとづいた日本神霊主義を樹立し、その原理と実践の指導に邁進しておりましたが、昭和十二年二月帰幽致しました。
 その後、兄浅野正恭、主幹脇長生先生が会を継承され発展に尽力下さいました。「心霊と人生」誌も五十一巻を数えました。
 本書出版に際しまして心霊研究家佐々木静先生、桑原啓善先生の御指導御協力を、また潮文社の小島正社長の絶大なる御尽力を賜りましたことをここに深く感謝申し上げます。祖父和三郎に尊敬と思慕を捧げる孫浅野修一は、学生時代より二十年間にわたり、明治より昭和に至る著書全般、並びに参考資料を収集提供してくれました。

 昭和六十年四月

                                       秋山美智子(旧姓浅野)



                見えない壁の向こうに[死後の世界]J・S・M・ワード著 浅野和三郎訳の巻末より
       
       
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