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カテゴリ:★『宗教について』 > キリスト教ニケーア会議の真相

キリスト教ニケーア会議の真相 目次

序論1

序論2

序論3

序論4

第一章 会議の目的と結末

第二章 開催の年月日と議事録

第三章 公会議を開催せざるを得なくなった要因

第四章 アリウス及びアリウス説を非難する書簡

第五章 エウセビウス宛のアリウスの書簡とポーリヌス宛のエウセビウスの書簡

第六章 ニケーア公会議の召集

第七章 代表を送った国々

第八章 コンスタンティヌスによる開会の演説

本文献に関する訳者の解説

自殺ダメ



D・ダドレー原著/近藤千雄訳編

 西暦325年のキリスト教総会『第一回ニケーア公会議』の真相

 『シルバーバーチに最敬礼』より


 これは、キリスト教が、いかにして現在の教義で雁字搦めの宗教になったかの原点として、第一回ニケーア公会議に着目した資料です。私も、元、カトリックの教会に通って聖書を初心者コースで学習していたし、日曜日のミサにも、けっこう出ていました。しかし、やはり今振り返ってみると、儀式中心だし、その教えも、もう現代人にはあんまり受け入れられないようなことばかりだったような印象です。まあ、産業革命以降、物凄いスピードで先進国は発展してきました。なので、日本にしても、明治維新以前と以後とでは、急速に発展して、短期間でまるで別の国のようになってしまいました。一体、ペリーの黒船が来航して右往左往している時から百年も経過しない内に、その黒船よりもはるかに大きな空母や戦艦や戦闘機等でアメリカと全面戦争するなんて、江戸時代の人々はまるで想像していなかったでしょう。そのように、近年は、平安時代とか鎌倉時代に比べて、信じられないようなスピードで文明社会は発展してきました。個人の生活にしても、ちょっと前までポケットベルだったのが、今では携帯電話はもう古くなって、スマートフォンが主流になりつつあります。人類の歴史は何千年もありますが、今のように、大量の書籍、幾つもの新聞社、雑誌、インターネットの膨大な情報に接するような時代など、今まではけっしてありませんでした。故に、昔の民衆ならば、西洋にしても、東洋にしても、自分の住む村のことや、領主のこと、まあ、せいぜい、その程度の情報だけだったでしょう。しかし、現代人は、一般人であれ、信じられない位の情報に日々接することが出来ます。故に、もう現代人は、昔の、情報がごく僅かしか得られず、司祭や僧侶の言いなりに信じ込んでいた民衆ではないのです。だから、私も、キリスト教のことを勉強しましたが、理性が納得しないので、その信仰は棄てました。だから、今では理性で納得できるスピリチュアリズムを信じ、こうして自殺者にスピリチュアリズムを教えて救うべく、孤軍奮闘しております。
 このニケーア公会議というのは、いかにキリスト教の歴史が、人造の教義で塗りたくられてきたか、という勉強になると思います。また、こういう人間の習性は、洋の東西を問わないと思います。なぜなら、文化は違えど、人の欲というのは、人種によっても国によっても、そう変わらないからです。故に、東洋の、日本の仏教者、日本の仏教の様々な戒律を作り上げた僧侶達にしても、このニケーア公会議に参加し、自分達にとり都合のよい説を色々と追加した司教達と同様の歴史があると思います。まあ、それは、現代では到底信じられないような阿呆な地獄の観念とか、あと、無数の派閥に枝分かれして、互いに自分の宗派が正しいと主張して、お前のところの教えは邪教である、などと罵り合っている現状を見るに、ニケーア公会議よりも一層酷い歴史があるのかもしれません。まあ、物事を複雑化するのが得意で大好きな日本人の性格上、教義に囚われると、このような結果になるのは必然だったのでしょうね。

 まあ、そんなワケで、歴史の一ページとして、読んでみて下さい。大事なのは、偉いと言われている人の主張をそのまま何の検査もせずに受け入れないことです。必ず、自分自身で、自分の頭で考えて、その結果、受け入れるべきだという結論に達したならば、受け入れるべきです。それが、カルトに引っ掛からない効果的な方法だと思います。



 序論

 英語のCouncil,Synod,Conventionはいずれも「会議」を意味する同義語である。有名な『ニケーア公会議』の前にもキリスト教界の会議は幾つも開かれているのであるが、それらはEcumenicalでなかった、つまり全キリスト教界的なものではなかった。多分、初期の頃は指折り数える程の教会から司教Bishopが出席するだけだったのが次第に影響力を伸ばし、代表する地域が広がっていったのであろう。
 イエスの使徒達が伝道していた時代においては、その使徒達が司教を選んでいたが、やがてその使徒の門弟達が選んだ上でその教区の信者達の認可を得るようになった。更に時代が進むと、広い教区の代表が集まって新しい司教を指名するようになったが、それでもやはり住民の許可が必要だった。それが『ニケーア公会議』において大きく改められた。その具体的内容は本文で扱うとして-
 その『公会議』の経緯を見ていくことによって、我々は当時のローマにおけるキリスト教界の特殊事情を垣間見ることになる。即ち、「大帝」と呼ばれたコンスタンティヌスの存在が圧倒的な影響を及ぼしていたことである。残念なことに、見てくれも勇猛さにおいても大帝の称号に相応しかった男が、晩年に至ってライバルや血縁者に残虐非道の限りを尽くして、その歴史に拭いきれない汚点を残してしまった。
 彼自身、洗礼の儀式を行なった位でその罪が洗い流され魂が清められると本気で信じたとは思えないが、彼の周りにはおべんちゃらの上手な取り巻き連中がいて、正義にかこつけてそういう教義をこしらえ、彼に潜む醜悪極まる人間性を操ったのである。
 ただ彼も、臣下の者達に自分が天国に行きたいという願望を持っていることを意思表示していたことは間違いない。というのは、大きな金貨の片面に部分的にヴェールのかかった自分の姿を刻ませ、裏面には自分が乗ったチャリオット[二ないし四頭立ての古代ローマの戦車]が天翔り、それを受け止めようとする手が天上から差し出されている光景を刻ませているからである。
 私は1604年に英語に翻訳されロンドンで出版されたメヒーアというスペイン人の書物を読んで、著者がコンスタンティヌスの生涯についての叙述の最後の部分で妙なことを言っているのに興味を抱いた。それは、彼の姿格好が悪逆非道の行為と似つかわしくないと述べている部分で、しかし「それらの行為は過(よぎ)ってはいなかったのであろう」と一転して弁護し、なぜならば聖ヒエロニムス[五世紀初頭のキリスト教を代表する修道士でラテン語聖書の完成者]を初めとする聖人や教皇が彼のことを立派なクリスチャンであり永遠なる至福の継承者であると明言しているから、と述べているのである。
 近代のプロテスタント系の書物での評価はそんな甘いものではない。アリウス派[四世紀のアレクサンドリアの神学者の一派で“三位一体説”を否定した。そもそも「ニケーア公会議」の目的は“三位一体説”を論じることにあった-訳者]の書物が一冊も存在しないのは一体なぜなのか?“三位一体論者”達が一冊残らず焼き棄ててしまったのである。
 当時は、キリスト教の慣例として異端の信者は懲らしめ、異端の書物は焼き捨てていた。政治制度の大きな側面を担うものとしては、当時の宗教はまだまだ幼稚なもので、為政者がその戒律その他を好きなように改めていた。その目的は自分達の見栄と欲望を満たすことでしかなく、しかもそれが「イエス・キリスト」の名のもとに行なわれた。もしイエス自身がその場にいれば、恥ずかしくかつ嘆かわしい思いをしたことであろう。
 《復活祭》も本来ならユダヤ教の最大の祝日である《過ぎ越しの祭》の日にするのが最も相応しい筈であったが、これもコンスタンティヌスの気まぐれな思いつきで変更された。彼は神がユダヤ民族を最も愛されたというユダヤの言い伝えを認めざるを得ない立場に追い込まれながらも、それまでローマが嫌い迫害してきたユダヤ民族そのものへの嫌悪感が捨て切れなかったのである。
 《安息日》の変更も同じく理不尽な偏見からだった。ユダヤ人にとっては土曜日が安息日であり、ローマ人のキリスト教徒にとってもそれで何の不都合もなかったのであるが、日曜日が聖なる日だと言い張って、それ以外は頑として許さなかった。イエス自身も日曜日が聖なる日だとは言っていない。
 その日曜日の祈りをする時に膝を折ることを禁じている戒律もある。スタンレー博士によると、これはイエスの使徒達が説教しながら立ったまま祈ったからだと言う。しかし私は、跪(ひざまず)くということは卑下することであるという考えから、勝利と喜びの日である日曜日に跪くことを禁じたのではないかと推察している。
 キリストが死者から甦って死と地獄に打ち勝った日は日曜日だったと信じられている。となると、跪くことは敵に屈することであるから、祈る時に膝を屈することは相応しくないとされたのであろう。ちなみに、ニケーアにおける会議で祈りの儀式が一切行なわれなかったのも不思議である。
 更には虚勢された者が司教の職につくことを禁じた戒律もある。かつては男性としての機能を削ぎ落とすことが宗教性を高揚すると見なされた時代があったのである。そうした愚かさを止めさせる為には、司教職を剥奪するという、更に強硬な手段に訴えたのである。
 コンスタンティヌスは証聖者(迫害に屈しないで信仰を守った者)や禁欲に徹する修道士には最大限の敬意を表し、拷問で受けた傷跡に口づけをすることで神の資質を授かると信じていた。多分これは敬虔な司教達の心をつかむ意図もあったと思われるが、コンスタンティヌスが言い出す教義の裏には必ず狡猾な打算があった。修道士、修道女、隠遁者、その他、人間的安楽や快楽を拒否した生活を送っている者を賞賛し、恩着せがましく保護した。ボロを着て不潔な環境で動物のように草類を食べて生きるということが、初期のキリスト教の教父達にとっては、最も神聖な生き方とされたのである。

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 キリストの生き様に倣おうとすれば、およそそうした生き方は生まれて来ない。にもかかわらず、そうしたクリスチャンが殉教者と共に「列福者」(奇跡を行なった人)として賞賛されてきたのである。
 「偉大にして聖なる会議」と呼ばれるニケーア会議において聖書の文句が一節でも朗読されたという記事が見られないのも不思議である。聖ヒエロニムスの記録によると、プロテスタントの外典とされている『ユデテ書』がその公会議において真正なる書として承認されたことを教父達から聞いたというのであるが、それ以外の初期の記録にはそういう記述は見られない。
 歴史家が度々述べていることであるが、その当時の教父達はいわゆる「聖典」の記述を今日とは違った解釈をしていたようで、例えばコンスタンティヌスはかの有名な『聖人に送る式辞』の中で「エデンの東」はどこかの別世界のあるかの表現をしており、テルトゥリアヌスを始め、タティアノス、アレキサンドリアのクレメンテ、その弟子のオリゲネス、聖ヒエロニムス等々のキリスト教神学者も同じである。
 325年の公会議で採択された新しい宗教の支持者に回ったギリシャの神学者の中にも、すぐにそれらしき文書を書いて有名な弟子や殉教者の名前を付し、掘り出し物でも発見したかのように装って提出した者がいたようである。その種の神学者の魂胆は軽蔑して余りあるものがあるが、いかにもそれらしき体裁をしているので真正なものとして認可されているものがあるのである。
 例えば『ヘブル人への手紙』がその良い例で、パウロの署名が入ってはいるが、これはいわゆる『ロマ書』に倣って誰かが書いたもので、確かにパウロの思想が入ってはいても、これをパウロ自身が書いたと信じる専門家は今はいない。
 『ヨハネ黙示録』も怪しい文書であり、四つの福音書についても、近代の聖書学者の研究によって原文にはなかったはずと断定されている箇所がいくつも指摘されている。例えば『ヨハネ福音書』の冒頭の文句、即ち「初めに言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった」は用語も表現もプラトン哲学とそっくりであるが、ガリラヤの湖で兄のヤコブと共に漁師をしていたヨハネが、いくら学問好きだったとは言え、その一文で文書を書き始め、しかも、それが『ニケーア信条』の根幹をなす思想となっていることを弁護できる人がいるであろうか。
 初期の時代に、真面目で信心深いクリスチャンの間でよく読まれた文書に『ハーマスの羊飼い』というのがあったが、著者は不明で、読んでみるとなるほど敬虔な用語を用いているが、文章は稚拙である。
 いわゆる『ニケーア信条』を支持した教父達は、反対派の文書は詩文で書かれているから詩人が書いたものであり、したがって神の啓示ではないと論駁した。しかし、そうなると旧約聖書は殆どが詩文で書かれているという事実をどう弁護するのだろうか。また、世界各地の宗教を見ても、太古の宗教的文献は大半が神聖な雰囲気をもった詩文で書かれている事実を見落としてはならないであろう。
 私が思うに、宗教の根幹を占める信仰と憧れは一種独得の詩的テーマであって、決して科学的推論や歴史的事実から生まれたものではない。だからこそ誰にでも親しめるのである。もしも神学上の教理の論理的根拠や証拠を検討しなければならないとしたら、それが出来る程の知的能力をそなえた者はまずいないであろう。
 となると、必然的に信仰というものは、誰かが述べたことや実体験したことに基盤を置くことになる。詩文で書かれていても散文で書かれていても、それが代々の慣習であり先祖から受け継いだものであれば、その中に自分が良いと思うもの、或いは自分にとって都合が良いものを見つけて、それを自分の信仰としていく傾向がある。「暗黒時代」と呼ばれたあの身の毛もよだつ悪逆非道の時代から引き継がれた信仰が、今日なお残っている事実がそれを雄弁に物語っている。
 これを改め理不尽な教理をなくしていくのは科学の責任である。ハックスレーやティンダル(いずれも十九世紀末の英国の科学者)のような大学者が伝統の誤謬や教説の不条理を指摘しているのは当然のことである。

 訳者注-ここではダドレーは言及していないが、1848年にニューヨーク州ハイズヒル村で起きた怪奇現象がきっかけとなって当時の第一級の知識人、例えばニューヨーク州最高裁判事のエドマンズ判事がキリスト教の教義に反する論説を新聞紙上に発表してセンセーションを巻き起こし、それが英国に飛び火して、世界的に著名な科学者、例えばクルックス博士やロッジ博士、更にはフランス人のノーベル賞受賞者リシュー等が従来の宗教観や死後の世界観を塗り替える著作を発表して、キリスト教に大きな影響を与えている。そうした新しい宗教思想をスピリチュアリズムと呼んでいる。

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 コンスタンティヌスは、知性の深さと洞察力においては“大帝”の名に相応しい人物ではなく、ただ抜け目がなく、機を見るに敏で、何事につけてエネルギッシュで、その上際限のない野心に駆られて行動したからこそ、彼よりも偉大な人物でも克服できなかったであろう程の困難を凌いで行ったまでのことである。
 彼は自然科学については基本的原理すら知らなかった。そこから生まれる軽信性と迷信性が、唯一、彼の邪悪な性向を抑制する働きをしていた。が、ある時期から“国の王”たる自分と“天の王”たる神とを同等に考えるようになり、勝手に法律をこしらえ、好きなように臣下を殺し、敵に対しては剣でも火でも使って徹底的に報復してよいと思い込むようになった。そして、勝てばそれは神が許したことの証しである-正しくなかったらその行為を許されなかった筈だ、という都合の良い論理で押し通した。
 司教達も彼におもねて勝手な教えを説いた。例えば神は一人息子のイエスを人類の贖い主として地上へ送り十字架にかけられた。だから、国王たる者は国の為であれば我が子を犠牲にしてもよろしいのです、と。
 こんな気違いじみた教えを真に受けたコンスタンティヌスは、その極悪性を感じぬまま数々の血生臭い犯罪を重ねていった。その性格と行為とが、彼自らでっち上げたキリスト教に暗い影を落とすことになる。
 『ニケーア公会議』は信仰というものを強制的に押し付けようとした政治的暴挙の最たるもので、これほど理不尽なやり方は、偉大なる知性に恵まれた人間のやったこととしては世界の歴史でも類を見ないものである。近代英国の知性を代表するミルは名著『自由論』の中でこう述べている。

 キリスト教を容認した最初のローマ皇帝がマルクス・アウレリウスでなくコンスタンティヌスだったことは、世界のあらゆる歴史の中でも最大の悲劇の一つであろう。もしもそれがコンスタンティヌスの治世下ではなくマルクス・アウレリウスの治世下であったなら、世界のキリスト教はどれほど違ったものとなっていただろうかと思うと、胸の痛む思いがする。

 イエス・キリストが永遠の煉獄という教理を説いたか否かは神学者の間でも疑問とされている。ローマ・カトリック教会では神話でいうシーオール、タルタロス、ハデス等に倣って地獄説を取り入れたが、この手法はその他の教理や形式や儀式についても同じであって、多くのものが古い宗教からの借用である。
 イエスの説いていることを読む限りでは、日常生活で人の為になることを心掛けた生き方こそ、神Godへの真実の信仰の道であるように思えるのだが・・・・

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訳者注-最近(2001年)になってにわかに脚光を浴び始めた聖書翻訳家にウィリアム・ティンダルがいる。数冊の伝記が出ているが、訳者が入手したのは二冊で、歴史というものは裏に何が隠されているか分からないことを、今更のように思い知らされた。
 ウィリアム・ティンダルという名前は大きい英和辞典なら必ず出ているほど、よく知られたキリスト教学者である。そして「聖書翻訳家。殉教者」と記されている。殉教者と聞けば誰しもキリスト教の信仰に殉じた聖職者と思うに決まっているが、驚くなかれ、聖書を英語に翻訳したことで火あぶりの刑に処せられたのである。これは一体どういうことであろうか。
 ティンダルの正確な生年は不明であるが、1494~5年頃に生まれて1536年に火刑に処せられている。そしてその一年後から英国の一般人が聖書を自国語の英語で読めるようになった。ということは、それまでの聖書は一般人には全く読めなかったのであるが、では聖職者には読めたのかというと、実はそれも怪しく、ラテン語やギリシャ語やヘブライ語(旧約)がまともに読める者は少なかったという。
 ちなみに上記の二冊の内の前者によると、ティンダルが勉学中だった時代(十六世紀初頭)の司教連中の不勉強ぶりは時のカンタベリー大主教も嘆いている程で、それから三十年後の調査でも、ティンダルが属していたグロスターシャーの司教200人あまりの内、『モーセの訓戒』の数を(日本語では「十戒」と訳すので“10”と分かるが)知らなかった者が9人、聖書のどこに出ているかを知らなかった者が33人、暗記していなかった者は実に168人もいたという。なお『モーセ五書』(旧約聖書の最初の五書)もティンダルが訳している。
 それまで一般人はキリスト教という信仰教義を「ただ信ぜよ」式に教え込まれていて、「なぜ?」という疑問を抱く余地がなかった。そんな中で、オックスフォード大学で学んでギリシャ語もラテン語もヘブライ語も読める程の語学の天才だったティンダルが、自ら大きな疑問を抱くようになった。教会で説いている「三位一体」だの「地獄・極楽」だの「贖罪」だのという難解な教義は聖書には書いてないではないか、という疑問である。
「聖書を平易な英語に翻訳して全ての人が読めるようにしてあげたい」-これがティンダルが聖書の英語版を出そうと思い立ったきっかけである。時あたかもドイツで宗教改革が勃興し、ルーテルがドイツ語聖書を出し、また英国本土ではヘンリー八世が王妃と離婚して侍女のブーリンと結婚する為という、いたって我侭な理由から、離婚を禁じるローマ・カトリック教会から離脱して「英国国教会」の独立宣言をした激動の時代でもあった。ティンダルの翻訳が完成したのはその頃で、「民衆を混乱に陥れる不届き者」というかどで逮捕の命令が出される。危険を感じたティンダルはヨーロッパ大陸へ逃亡するが、執拗な追跡から逃れることはできず、ついにベルギーのブリュッセルで逮捕され処刑された。その処刑の仕方の惨さは書くことすら憚(はばか)られる程である。
 一体これは何を意味するのか。色んなことが思い浮かぶが、少なくともこれまで訳者一人に限らず大方の人々が漠然と認識していたことが間違っていたことだけは確かであろう。即ち教会では牧師が聖書を手にしてイエスさまの教えを説いていたのではないということである。
 そうなったのは実はティンダルの翻訳聖書が普及し始めた十六世紀中頃からのことで、それまでは世界各地の民話や神話・伝説がない交ぜにされて説かれていた。それを善良ではあっても無知な民衆は神の言葉として疑うことなく信じていた。実際は、聖なるものでもなければ敬虔なるものでもなく、宗教性や真実性は欠片もなかった。
 本書の本文の冒頭から出てくるアリウスという司教は、早くからそうした点を指摘して論争が絶えなかった。その混乱を収束すべく開かれたのが『第一回ニケーア公会議』だったのであるが、表向きに標榜された目的とは裏腹に、コンスタンティヌス一派による政治的陰謀が企まれていた。その真相を暴いたのが本書である。

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