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啓示の受信者 ステイントン・モーゼス 目次

ステイントン・モーゼス1

ステイントン・モーゼス2

ステイントン・モーゼス『霊訓・上』(PC用)

ステイントン・モーゼス『霊訓・下』(PC用)

 
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 スピリチュアリズムの土台となっている驚異的な心霊現象は、霊媒から抽出されるエクトプラズムという特殊物質を原料として、霊界の技術者が演出していた。しかし、この場合、霊媒はエクトプラズムを提供するだけであり、霊側は人間業では不可能なことをやってみせるだけのことであるから、その現象自体にはそれ以上の意義はない。要するに目に見えない次元の世界にも人間と同じ知性と思考力を具えた存在が実在することを教えているだけである。
 では、その見えざる世界はどうなっているのか、この地上世界とどう繋がっているのか、現世と死後との道徳的因果関係はどうなっているのか、神は存在するのかといった問題になると、物理現象の霊媒とは異なったタイプの霊媒を通じての霊界からのメッセージ、いわゆる霊界通信を頼りにしなければならない。
 その種の霊媒には大きく分けて二種類ある。霊が手を操って綴る自動書記霊媒と、発声器官を使って語る霊言霊媒である。さらに細かく分けると煩雑になるので、ここではスピリチュアリズム史上に大きな足跡を残した霊媒を選んで、その特徴と功績を紹介しておきたい。



 有意識の自動書記霊媒・ステイントン・モーゼス

モーゼスは小学校の校長の息子として生まれた。オックスフォード大学神学部に学んだ後、国教会(アングリカン)の牧師として二十四歳でマン島に赴任した。が二十九歳の時に重病を患い、スタンホープ・スピーアという医師の世話になった。そして長期間の療養生活をスピーア家で過ごしたことが、スピリチュアリズムとの縁の始まりとなった。
 博士の奥さんがスピリチュアリズムにとても熱心で、勧められるまま各地での交霊会に出席している内に、モーゼス自身の霊的能力が開発され、それも、初期の頃はかなり激しい物理的現象で、モーゼス自身はそれを毛嫌いしていた。その後もう一度牧師の職に戻ったが、病気が再発して、ついに牧師職を断念しなければならないまでに至った。
 1871年、三十三歳の頃から、モーゼスの霊能は自動書記へと変わっていった。通常の意識のままで腕がひとりでに動いて、文章が綴られるようになったのである。初めの内はこれといって纏まった内容のものではなかったが、ある時期から一変して、その内容がモーゼスが絶対的に信仰しているキリスト教の教義と真っ向から対立するものとなっていった。
 それに不快感を抱いたモーゼスが、一体あなたは何者なのか、何の目的があってこんなことを書いて寄越すのか、といった質問を書くと、それに対する返答が、即座に、きちんとした書体で、しかも猛烈なスピードで書かれるといったことが繰り返されるようになった。
 その論争は回を追うごとに熾烈さを増していき、モーゼスは心身共に疲れ果てて体調を崩し、傷心の旅に出る程にもなり、霊団側はモーゼスの予想以上のしつこさ(キリスト教への拘り)に手を焼いて、一時は総引き上げの最後通告を突きつけるまでに至ったりしている。
 そうした自動書記による論争はほぼ十年近く続き、さすがのモーゼスも最終的には得心する。そして、その間の膨大な通信文の中から霊的教訓に富むものをモーゼス自身が選んで、1883年に『霊訓』と題して出版した。さらにモーゼスの死後、スピーア夫人が編纂したものが『続霊訓』のタイトルで出版されている。

●総勢四十九名から成る大霊団
 
 霊団側が明かしてくれたところによると、モーゼスの背後霊団は総勢四十九名から成り、七名ずつ七つのグループがそれぞれに役割分担を決めて指導したという。例えば物理的現象を担当するチーム、高等な霊的真理を届けるチーム、といったように分けられていた。その中心的存在として総指揮に当たっていた霊がインペレーターである。これは『司令官』を意味する英語で、勿論仮の名である。その他の霊も、署名する時はみんな仮の名を用い、地上時代の実名は使っていない。
 後にモーゼスが無理矢理聞き出したところによると、インペレーターは旧約聖書の「マラキ書」の編纂者で紀元前五世紀の霊能者マラキ(マラカイとも)で、その他、古代ギリシャ、ローマ、エジプトの聖職者や思想家が大勢いたらしい。
 しかしモーゼスは、そのことを在世中は一切公表していない。私はこの事実に、モーゼスの霊的実相についての理解の深さを見て取り、それが『霊訓』の価値を大いに高めていると考える。なぜか?
 それは、一つには、地上に残されている歴史資料は、日本の歴史を見ても分かる通り、極めて曖昧で、いい加減で、しかも潤色が多く、有名人ほど信じられないという事実が挙げられる。そんないい加減なもので尊敬されたり批判されたりしている人物の名を、うっかり使う訳にはいかないというのが、良識ある者の当然の用心であろう。
 もう一つは、それと表裏の関係になるが、死後、霊的な実相に目覚めてくると、地上時代の自分がいかに幼稚であったかを痛感する一方、自分など『そこにいる』とも思ってもらえない程、凄い霊がいくらでもいることを知って慎ましくなるのが通例らしいのである。それは丁度、地方の秀才が都会の大学に入ってみて、自分より凄いのがいくらでもいることを知って小さくなるのと同じであろうか。

●高級霊が呼ばれて出てくることはない

 ところが巷間では、霊言だの神示だのと銘打って出版されているものに歴史上の人物ないしは神話・伝説上の人物によるもの、中には架空の人物まで登場しているものが多いのは、一体どう理解すべきかー筆者の下にはその点を訊ねる電話や手紙が数多く寄せられている。
 これは簡単に片付く話である。要するに、高級霊は地上時代の実名ないしは地上の人間が付けてくれている尊称を自ら名乗ることは絶対にないし、ましてや、呼ばれてノコノコ出てくる気遣いは毛頭ないから、それらはデタラメの創作ものか、百歩譲って霊からの通信であるとしても、それは余程低級な霊によるイタズラであるとみて、取り合わない方がよい。
 英国の購読者数十万人を誇るスピリチュアリズム系の心霊週刊紙『サイキック・ニューズ』の主筆トニー・オーツセンがこんなことを言っている。

 [いかに秀れた霊媒でも、高級霊をこちらから呼び出すことは出来ない。愛を絆として、向こうから出てくるのである。どんな霊でも呼び出してみせると豪語する霊媒は、霊能養成会に戻って一からやり直すしかない。]

前置きはこれくらいにして、では[霊訓]からその内容がよく出ている箇所をいくつか拾って紹介してみよう。([]はモーゼス自身による解説、『』はインペレーターの回答)

『そなたに是非とも理解を望みたいことは、神の啓示といえども人間に具わっている『光』、つまり理性によって判断しなければならないということである。説教者の言葉を鵜呑みにすることなく、それを全体像の中で捉え、一言一句の言い回しに拘ることなく、その精神、その流れを汲み取るように心がけないといけない。我々の教説について判断する際にも、得体の知れない古い予言に合うの合わないのだといった観点からでなく、自分が真に求めるもの、自分と神との繋がり、そして自分の魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断しなければならない。』

『我々が知るところの神、そしてそなたに確信をもって説く神こそ、真実の意味での愛の神ーその働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲は全ての創造物に及び、尽きることを知らない。いかなる者にも分け隔てせず、全てに絶対的公正をもって臨む。その神と人間との間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の言葉を携え、神の意志を時に応じて啓示する。その天使の働きによって神の慈悲が途切れることなく人類に及ぶのである。これぞ我々が説く神ー摂理によって顕現し、天使を通じて作用するところの神である。
 では、人間について我々はどう説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懺悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしい教義への忠誠の告白行為一つで、退屈極まる無活動の天国を買収し、恐ろしい体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の『不滅の魂』なのか。
 違う!断じて違う!人間は、より高き霊的生活への鍛錬を得る為に、ほんの僅かな期間を肉の衣に包まれて地上にいるに過ぎない。霊の世界にあっては地上生活で自ら蒔いた種が実をつけ、自ら育てた作物を刈り取るのである。待ち受けているのは永遠の無活動の天国などという。児戯に類する夢幻の如き世界ではなく、より価値ある存在を目指して絶え間なく向上進化を求める活動の世界なのである。
 その行為と活動の結果を支配するのは、絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は魂を堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出されるのである。神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂の喜びを味わう。ものぐさな怠惰をむさぼる者など一人もいない。より深く、より高い真理への探究心を失う者もいない。人間的情欲・物欲・願望の全てを肉体と共に捨て去り、純粋さと進歩と愛の生活に勤しむ。これぞ真実の天国なのである。
 地獄ーそれは、個々人の魂の中を除いて、他のいずこにも存在しない。未だ浄化も抑制もされない情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪行の報いとして容赦なく湧き出る魂の激痛に苛まれるーこれぞ地獄である。その地獄の状態から抜け出る道はただ一つー辿り来る道を後戻りして、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にはない。
 罪に対してはそれ相当の罰があることはもとよりであるが、その罰とは、怒りと憎しみに燃えた神の打ち下ろす復讐の鞭ではない。悪を知りつつ犯した罪悪に対して、苦痛と恥辱の中にあって心の底から悔い改め、罪の償いの方向へ導く為の、自然の仕組みに他ならないのであり、お慈悲を乞い、身の毛もよだつドグマへの口先だけの忠誠を誓うような、そんな退嬰的手段によるのではない。
 幸福とは、宗教的信条には関わりなく、絶え間ない日々の生活において、理性に適い宗教心に発する行いをする者なら、誰もが手にすることの出来るものである。神の摂理を意識的に侵す者には必ず不幸が訪れるように、正しき理性的判断は、必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を捨てた霊との区別はない。
 霊的生命の究極の運命については、我々も何とも言えぬ。何も知らないのである。が、現在までに知り得た限りのおいて申せば、霊的生命は、肉体に宿る人間も我々霊も共に、同じ神の因果律によって支配され、それを遵守する者は幸福と生き甲斐とを味わい、それを侵した者は不幸と悔恨への道を辿ることになることだけは、間違いなく断言出来る。』

 [この頃には、迫ってくる霊の影響力が一段と強まり、他の通信が一切締め出されてしまった。七月二十四日に私の方からいつもの霊(インペレーター)に通信を求めたが、何の返答もなかった。その影響力には不思議と精神を高揚させるものがあり、それが私の精神活動を完全に支配していた。日常生活はいつもの通りだったが、その合間に一分一秒でも割いてその影響力と、私にとって目新しい教えのことを考えた。考え始めると直ぐその影響力が割り込んできて、かつて感じたことのない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。
 それまで私はキリスト教神学を長年にわたって広く深く勉強してきたが、数ある教説も、あら探しをする意図のもとに読んだことは一度もなかった。辻褄の合わない点も、批判するよりもむしろ、上手く繋ぎ合わせるようにしたものである。ところが、今や私にとって全く新しい考え、それまで金科玉条として受け入れてきたものの多くを根底から覆しかねない思想を突きつけられている。
 七月二十六日、私は前回のインペレーターの通信に再び言及して、こう述べたー。
「あなたが述べられたことについて色々と考え、日頃尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何といっても私達が信仰の基本として教え込まれてきたキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の印のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。私の置かれている窮地は言葉で言い尽くせるものではありませんが、敢えて表現させて頂けば、確かにあなたの仰ることは知的には理解出来ても、過去1800年以上もの長きにわたって存在し続けてきたキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得出来るとはいえ、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては堪らないという心境です。
 一体あなたはイエス・キリストをどう位置づけるのか、また、イエスの名の下に教えを説くかと思えば否定し、古い福音に代えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能の下に行うのか、お訊ねしたい。また、あなたの地上での身元の確認と、あなたが公言されている使命の真実性を証明する十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力を具えた者の誰もが得心する証拠です。
 天使であろうと人間であろうと、或は平凡な霊であろうと、又それが何と名乗ろうと、何の立証もない者から送られてきた言葉だけで、神の起原とその拘束力についてこれほど致命的な変化を受け入れる訳にはいきません。又、そのように要求されるいわれもないように思われます」]

 『友よ、これほど真摯にして理性的な疑問をそなたから引き出し得たことは、我々にとって大いなる喜びである。真摯に、そして理知的に真理を求める心ーその出所が何であろうと単なるドグマは拒否し、全てを理性によって検討し、それによって得た結論には素直に従う用意のある心、これこそ神意に適うものであることだけは信じて欲しく思う。我々はそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性に富む真面目な心の証として称賛します。
 従来の信仰をそれ相当の根拠なしには捨てず、一方、新しい言説は、形而上的並びに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる・・・そうした懐疑と煩悶の方が、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑みにする軽信的態度より、遥かに価値がある。思想的風雨に晒されても何の反省も生まれず、そよ風にも能面の如き無表情を綻ばせることもなく、いかなる霊的警告も通じない無感動と無関心の魂よりも、遥かに貴重である。
 そなたの抱く懐疑の念は、むしろ我々の指導の成功の証として称賛したい。そなたが我々に挑む議論は、神の使者として述べた言説を分別心をもって検討してくれた証として歓迎しよう。そなたを煩悶させている問題については、いずれ、我々の力の及ぶ限りにおいて回答を授けよう。
 我々には証拠を提供することの不可能な、ある超えられない一線がある。それは、我々は十分に承知している。我々は人間界で言うところの証人を立てることが出来ないという、大きな不利な条件の下で難儀しているところである。我々は地上の人間ではない。それゆえ法廷に持ち出す類の証拠を提示する訳にはいかないのである。ただ我々の証言を聞いてもらい、そして理解してもらうー証拠によって明らかに出来ないものは知性に任せ、公正に判断してもらう他はないのである。』

ステイントン・モーゼス『霊訓・上』(PC用)

ステイントン・モーゼス『霊訓・下』(PC用)

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モーゼスは類別すれは自動書記霊媒に入るが、意識は完全に通常意識を維持しながら、手だけが霊の支配を受けて綴るーそれも信じられない速さと達筆さと重厚な文体で、というのであるか、型破りの霊媒というべきであろう。
 厳格さで知られるオックスフォード大学の神学部を卒業して直ぐからマン島へ赴任する程の逸材であったが、間もなく体調を崩してスピーアという医師のもとで療養生活を送る。そのスピーア博士の夫人がスピリチュアリズムに熱心で、夫人に誘われて実験会に出席するうちに、モーゼス自身の周りでポルターガイスト現象が起こり始める。
 最初のうちは室内のもの、例えば新聞紙などが隣の部屋へ飛んで行ったり、モーゼス自身が運ばれてソファーに放り投げられたり、といった物理的なものばかりだったが、そのうち何かを書きたい衝動を覚えるようになり、机に向かうと意味不明の落書きのようなものが書かれ、日を追って纏まったメッセージのようなものになっていった。
 それが、ある日からキリスト教の教説を否定することになる内容のものとなり、モーゼスがそれに反論する(用紙の上の端に質問を書く)と、理路整然とした文章でキリスト教の教えの間違いを指摘する。それに反発を覚えたモーゼスが反論すると、また整然とした文体で、しかも落ち着いた調子で、長文の返答が綴られる、といったことが続いた。

●『霊訓』から

 モーゼスの唯一の著書で[スピリチュアリズムのバイブル]とまで呼ばれている『霊訓』は、そうした形で十年間にわたって続けられた論争を纏めたもので、キリスト教を主題としながらも、宗教の本質、人間生活のあり方、霊界の真相等について極めて普遍的な教訓が述べられている。
 その後、次第に判明したところによると、モーゼスの背後霊団は七名ずつのグループ七つ、総勢四十九名から成り、それぞれに役割分担があって、その総指揮に当たったのは紀元前五世紀の人物で、旧約聖書の『マラキ書』の編者Malachiだという。回答の末尾に署名したImperator(インペレーター)は「指揮者」を意味する仮名である。
 本書の根幹をなす重要な通信は全てこのインペレーターからのものであるが、直接それを筆記したのは初期キリスト教時代の人物で、インペレーターよりは時代が新しいとはいえ現代とはかけ離れている為に、その文体は古文調である。その一部を紹介する。

 不服だったので私(モーゼス)は書かれた通信を時間をかけてじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立するものだったが、それが書かれている間中私は、心を高揚させる強烈な雰囲気を感じ続けていた。
 その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教説はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、普通なら弾劾裁判にかけられかねないところである。さらに又、あのような何となく立派そうな見解は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、ということだった。すると次のような回答が来た。
 「友よ、よき質問をしてくれたことを嬉しく思う。我らが如何なる権能を有する者であるかについては既に述べた。我らは神の使命を帯びて来たる者であることを敢えて公言する。そして時が熟せば、いずれそれが認められることを信じ、自信を持ってその日の到来を待つ。
 それまでに着実なる準備をなさねばならぬし、たとえその日から到来しても、少数の先駆者を除いては、我らの訓えを全て受け入れ得る者はおらぬであろうことも覚悟は出来ている。それは我らにとりて格別の驚きではないことを表明しておく。
 考えてもみるがよい!より進歩的な啓示が一度に受け入れられた時代が果たしてあったであろうか。いつの時代にも知識の進歩にはこれを阻止せんとする勢力はつきものである。愚かにも彼らは真理は古きものにて足れりとし、全ては試され証明されたと絶叫する。一方新しきものについては、ただそれが新しきものなること、古きものと対立するものであること以外は何一つ知らぬ。
 イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解極まる神学を打ち立てた者達ーその訓えはその時代に即応した、それなりの意義があったとは言え、時代と共により高き、そしてより霊性ある宗教に取って代えられるべきものであったが、彼らは後生大事にその古き訓えを微に入り細をうがちて分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めと化してしまった。
 魂なき身体。然り!生命なき死体同然のものにしてしまった。そしてそれを盾に、イエスを彼らの神の冒瀆者と呼び、モーセの律法を破壊し神の名誉を奪うものであると絶叫した。
 イエスが神の名誉を奪う者でないことは、そなたの良く知るところであろう。イエスは神の摂理を至純なるものとし、霊性を賦与し、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たなる生命を甦らせんが為に人間的虚飾を破壊せんとしたに過ぎぬ。
 親への上辺だけの義務を説く侘しき律法に代わり、イエスは愛の心より湧き出る子としての情愛、身体の授け親と神に対する無償の惜しみなき施しの精神を説いた。上辺のみの慣例主義に代わり、衷心よりの施し説いた。
 いずれが正しく、より美しいであろうか。後者は前者を踏みにじるものであったであろうか。むしろ前者の方が、生命なき死体が生ける人間に立ち向かうが如くに後者に執拗に抵抗したに過ぎぬのではなかったであろうか。にもかかわらず、軽蔑を持って投げ与えられた僅かな硬貨で、子としての義務を免れて喜ぶ卑しき連中が、イエスを、古き宗教を覆さんと企む不敬者として十字架に架けたのであった。あのカルバリの丘のシーンはまさしくそうした宗教に相応しき最後であった」(『僅かな硬貨で』とはユダが銀貨三十枚を貰って密告した裏切り行為のこと)

 この『霊訓』の続編に『インペレーターの霊訓』というのがあるが、これはモーゼス自身が編纂したものではなく、モーゼスの死後、スピーア夫人が是非とも公表すべきと思ったものを拾い集めて出版したもので、これには時折催された交霊会における霊言も含まれていて興味深い。
 その中で明かされた事実で注目すべきことは、モーゼスの背後霊団が七人ずつ七つのサークルから構成されていたこと、そしてポルターガイスト的な物理現象を担当したのは地縛霊的な状態から脱したばかりの者七人であったことで、その霊達は霊団の上層部の指導霊の姿は見えなかったという事実である。このことは色々なことを教えている。死後の世界でも各自の霊格を超えた上の世界は見えないし、聞こえないし、分らないものは分らないこと、従って霊が書いたり語ったりすることを無闇に信じてはいけないこと、また、物理的現象はいかに華々しくても、携わっているのは物的波動から抜け切っていない霊が殆どであるから、派手な現象を見せる霊媒が立派であるかに思うのは間違いである、といったこと等々である。コナン・ドイルの言う「心霊現象は電話のベル」とはこのことである。

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