「宗教界による弾圧」ー『これがスピリチュアリズムだ』(モーリス・バーバネル[シルバーバーチの霊媒]著)


 一人の人間が宗教を持つという場合、それがどの宗教になるかは、普通その人間がどの国に生をうけるかによって決まる。例えば英国国教会の教義を強烈に弁護する人間も、もしインドに生まれていれば、同じ熱心さでヒンズー教を弁護するであろう。
 宗教について全く偏見のない人間はいないし、自分の宗教を弁護しない人間もまずいないであろう。大方の人間にとっての宗教は、成人後に余程の精神的ないしは霊的体験でもない限り、子供時代に植え付けられたものが基盤になっているものだ。
 子供は教えられたものを疑うことなく受け入れていく。弾力性と融通性に富む精神は、大人が真剣に説いたことを真理として、文字通りに受け入れてしまう。それが時と共に潜在意識の中に組み込まれていき、いつしかその教義が反射的に働くようになる。後年に至っても、余程異質の体験でもない限り、宗教についての疑問に対しては子供の時に定着したその教義が、殆ど機械的に反復されるだけである。 
 そうした固定観念は年を取る程捨てにくくなるものである。その傾向は聖職者において著しい。エディンバラの神学者ジョン・ラモンド師は晩年になってようやくスピリチュアリズムの真実性を認めた人であるが、師にとっては厳しい反省を迫られる大問題だったようで、突き刺すような鋭い眼差しで私を見つめながら、こう語った。
 「スピリチュアリズムに身を委ねるということは[信仰深きお歴々]から白い目で見られる、本当に辛い思いの中での決断でした」
 宗教家がスピリチュアリズム思想に接した時の態度は、医学者が心霊治療に接した時の態度によく似ている。大学で学んだことと何もかもが矛盾する為に戸惑うのである。交霊会で起きる現象はどうしても神学と相容れない。正統派的観点に固執しているので、それ以外のものに接すると、忠誠心を試されているように感じるのかもしれない。
 したがって、交霊会で起きることが実は自分が帰依しているバイブルの奇跡と全く同質のものなのに、それを[新たなる啓示]として認めることが出来なくても、あながち驚くにはあたらない。
 思うに、聖職者は、自分で気づいているかどうかは別として、それまでに受けた神学上の教育によって、スピリチュアリズムに対して潜在的に嫌悪感を抱いているらしいのである。したがって、聖職者に対して感情的にならずにスピリチュアリズムを検討してくれることを望むのは、どだい無理なのである。
 例外はある。聖職にありながらスピリチュアリズムの擁護者として、或は闘士として活躍した人がいたし、今でもいる。そういう人は自分自身が霊能者であるとか、結婚した相手の家族に霊能者がいたとか、或は個人的なことが原因で死後の生命の証拠が欲しくて真剣に取り組み、それを見事に手にした、といったケースである。
 私が非常に驚いたのは、ある大聖堂参事会員が「死後の生命を証明してみせてくれたら百ポンドあげる用意がある」と私に言ったことである。私は言ったー
 「あなたは大聖堂参事会員でいらっしゃる。死後に生命があることは当然信じておられるはずですから、証拠などいらないでしょう」
 すると彼いわくー
 「勿論かつては信じていましたが、今ではあまり自信がないのです。妻を亡くしてからは、分かるものなら知りたいものだと思っているのですが・・・」
 仕事がら聖職者は、当然、霊的なことについては専門家であってしかるべきなのに、死後の生命についての彼らの無知は呆れる程である。彼らは毎日のように死への心構えを信者に説き、愛する者を失った人々に慰めの言葉をかけているはずである。なのに、なぜこの有様なのか。やはり、最初に植え付けられた神学的観念が、死後存続についての新たな理解を妨げているのである。
 実は、英国国教会は二年間にわたってスピリチュアリズムを本格的に調査・研究しているのである。が、その報告書が上層部から発表を禁じられたのである。それをこの私がすっぱ抜き、心霊紙上に発表したのだが、もしそうしなかったら、そのまま永遠に埋もれていたであろう。私は、もしもその報告書の内容がスピリチュアリズムにとって不利なものであったなら、決してランペス宮(カンタベリー大主教の官舎)の整理棚にしまっておくことはないはずだと主張し続けたのである。
 実は、国教会内で構成されたスピリチュアリズム調査委員会がまだ調査中で、報告書が作成されていない段階でのことであったが、スウェーデンのルーテル派の牧師リリェブラード氏が、大主教のラング神学博士に、英国国教会のスピリチュアリズムに対する態度についての報告を求めた。
 私はその後、直接リリェブラード師をスウェーデンのご自宅に訪ねて、ラング大主教からの返事を見せて頂いた。それにはこうあった。
 「スピリチュアリズムの思想も現象も、英国国教会においては許しもしないし奨励もしません」云々・・・・
 ついでに言うと、このラング博士が言外に見せているスピリチュアリズムへの敵意はその後も続いた。それは、心霊治療に関する大主教付調査委員会の報告書の中で、ハリー・エドワーズ氏が提出した治療例を発禁処分にしたばかりか、スピリチュアリズムを無意味なものとして故意に印象づける態度に出ていることからも明瞭に窺える。
 そもそも国教会がスピリチュアリズム調査委員会を設置したのは1937年のことで、国教会きっての大物であるテンプル神学博士がヨーク大主教[英国国教会はカンタベリーとヨークの二大教区に分かれていて、カンタベリーの方が上位]であった時のことである。当時ロチェスターの参事会員で、後に主教となったアンダーヒル神学博士と、心霊体験の豊富なロンドンの牧師エリオット氏の二人がテンプル大主教に、そろそろ国教会もスピリチュアリズムを本格的に調査・研究すべき時期にきている、と強く申し入れたところ、よかろう、ということになった。
 これは実に見上げた態度だった。その僅か三年前にはテンプル大主教が、グラスゴーでの講演で「人間の死後存続を実験・研究によって証明することは絶対に望ましくない」と断言したばかりであり、それが大主教の長年の持論だった。それを一応さしおいてラング大主教と協議し、ついに十名からなる専門の委員会を結成したのだった。それから二年間にわたって霊媒を使った組織的な研究を行った後に、結論を出した。委員会十名のうち大きい影響力をもつ七名が揃って多数意見に署名し、残りの三名ーうち一人は主教夫人、もう一人は主教秘書ーは中立の少数意見に署名した。
 多数意見は全体としてスピリチュアリズムを肯定している。私の目の前にそのテキストがある。署名を見ると前出のアンダーヒル博士の他にマシューズ博士(セントポール大聖堂参事会員)、ロンドンの法学院院長で参事会員のアンソン博士、オックスフォード大学教授で参事会員のノロス、著名な心理学者のブラウン博士、それに勅撰バリスターのサンドランズ氏などの名が載っている。
 報告書の内容をサイキック・ニューズ社に公表したことで私は、ラング大主教から激しく非難された。確かに英国の新聞はその話題を大々的に取り上げた為に、大主教はある有力なスピリチュアリストに頼んで、何とか騒ぎを鎮めてくれるよう協力を求めた。その人は国教会とスピリチュアリズムとの同盟を求める、一種の信心会の会長ストバート女史であった。 
 が、マシューズ博士は報告書の発禁に公然と反対した。レンドール参事会員も同じ意見で、次のような激しいことを述べた。

 この調査委員会による結論の公表を禁止させた[主教連中]による心ない非難や禁止令や何かというと[極秘]を決め込む態度こそ、国教会という公的機関の生命を蝕む害毒の温床となってきた、了見の狭い聖職権主義をよく反映している。こうした態度が生む怒りの程度と重さを真に理解している者は殆どいない。自由な討議の禁止はいらだちを生むだけに留まらない。それは[聖職者主義こそ敵なり]というスローガンを潤色し、言い逃れの口実を与えることになるのだ。

 その後テンプル博士がカンタベリー大主教に選任された時、私は書簡で、是非委員会報告を正式に公表するよう、何度もお願いした。書簡のやりとりは長期に及んだが、ついに平行線を辿るばかりだった。社会正義の改革運動では同じ聖職者仲間から一頭地を抜いている人物が、宗教問題では頑として旧態を守ろうとする。現実の問題では恐れることを知らない勇気ある人物から届けられる書簡が、ことごとく[極秘]とか[禁]の印を押さねばならないとは、一体どういうことだろうか。
 私は、報告書を公表することこそ、国教会は真理に目をつぶって言い逃れと抑圧の道を選んだという非難を打ち消すゆえんではないのかと迫った。しかし、動ずることを知らないテンプル博士は、報告書を公表しないよう働きかけた張本人が自分自身であることまでほのめかした。
 ここで不思議でならないのは、その書簡のやりとりの二年前には、テンプル博士自身がデイリー・ヘラルド紙の記事の中で「今日の最も重要な疑問は、はたして神は実在するのか、また、はたして人間は肉体の死後も生きているのか、ということである」と述べていることである。その彼が、二年後にはこうして死後存続の証拠をひた隠しにしようとする。この、かつてのヨーク大主教、後のカンタベリー大主教にとっては、その職務への忠誠の方が死後存続という真実への忠誠の方よりも大事ということなのだろうか。
 私の持論は、宗教問題に限らず、人間生活の全てにおいて、伝統的なものの考え方というものが新しい考え方の妨げになるということである。その固定観念が新しい観念の入る余地を与えないのである。いかなる宗派の信者にとっても、スピリチュアリズム思想を受け入れる上で、その宗教そのものが邪魔をするのである。
 さて、委員会のメンバーのうちの少なくとも一人が、報告書をランペス宮の整理棚に仕舞い込まれたままにしておくことを由々しい事と思ってくれたお陰で、私はその報告書の主要部分を公表することが出来た。そしてその後、多数意見の大部分がそっくり公表されたー国教会によってではない、スピリチュアリストによってである。その内容は、スピリチュアリズムはキリスト教と真っ向から対立するものと考えている人々に対する完璧な回答となっている。一部を紹介しよう。

 極めて重大な事としてよく指摘されるのは、スピリチュアリズムが多くの点において信心深い人々が抱いている高度な信仰の数々を再確認していること、さらには、そうした信心深い人々にとっても既に意義を失ってしまった教義の真実性に新たな確認を与えていることである。
 
 次の部分はさらに意味深長である。

 他界した友人が直ぐ近くにいて、霊界でも成長し続けており、その後も自分達に関心を抱き続けてくれているという認識は、それを実際に体験した者にとっては、[聖霊との交わり]の信仰に新たな即時性と価値を与えてくれる以外の何ものでもないことは、確かに真実である。

 さらに言う。

 確かに、福音書に記されている奇跡的諸現象と、スピリチュアリズムにおける実験によって確かめられた現代の心霊現象との間に実に明瞭な類似点があることは事実である。したがって、もしも我々が後者を科学的論述と証明が出来ないという理由で疑問視しなければならないと主張するのであれば、聖書の奇跡も、キリストの復活そのものも、同じく科学的証明が出来ないものであることを付記しなければならなくなる。

 国教会内部には、この報告書でもなお死者の霊の存在についての言及が慎重過ぎるという批判がある程である。
 多数意見は、最後のところで国教会が常にスピリチュアリストとの連絡を蜜にすることが大切であることを述べている。その意味でも、国教会が報告書の全文を正式に公表しないのは、国教会自身にとっても残念なことと言わざるをえない。真理が真実の宗教を傷つけるはずはないのである。次の一文は本章を締めくくるのに最も相応しいと考える。

 我が国教会の最大の過ちは、神は紀元666年まで世界の一地域、即ちパレスチナにのみ働きかけ、それ以後は他のいかなる土地にもいかなる働きかけもしていないという信仰を作り上げてしまったことである。

 これはテンプル博士自ら述べていることである。キリスト教の間違いを正直に批判したものであるが、委員会の調査によって神の啓示が現代に至ってもなお続いているという証拠を目の前にした時、彼は、その事実を英国国教会の一般会員、ひいては世界中の人々に[極秘]にしておく方に加担したのだった。