米国の先駆者・エドマンズ判事

 ニューヨーク州議会議員、米国会の上院議員、そしてニューヨーク州最高裁判事を歴任し、時期大統領の有力候補と目されていたジョン・ワース・エドマンズは[エドマンズ判事]の愛称で呼ばれる名士中の名士だった。

 スピリチュアリズムの噂を耳にしたエドマンズ判事は興味本位で関係書を読む程度だったが、ある時、友人からフォックス姉妹の実験会に招かれて、カラクリを暴いてやろうといった程度の気持ちで出席した。ところが何か心に引っ掛かるものを感じて、もう一度行ってみる気になった。行ってみるとまた新たな興味をそそられる。そうやって週に少なくとも二回の割合で四ヶ月にわたって真剣な調査・研究を続けた。
 そうしたエドマンズ判事の行動は、名士中の名士だっただけに、キリスト教絶対の風潮の中では非難・中傷の的となった。が、思いもよらなかった[死]と[死後]の史実を目の当たりにした判事には、そんな俗世の声は眼中になく、数年後、それまでの研究の成果を『ニューヨーク・トリビューン』紙に発表して一大センセーションを巻き起こした。その核心部分を紹介するとー

 私がこの道の研究を始めたのは1851年5月のことで、それから二年後の53年4月になってようやく霊界との通信の実在に得心がいった。その正味二年と二ヶ月にわたる期間中に私は実に何百種類にも及ぶ心霊現象を観察し、それらを細かくかつ注意深く記録した。
 交霊会に出席する時は必ず筆記用具を持参して可能な限りメモし、帰ると直ぐその会で起きたことを始めから終わりまでキチンと整理するのが習わしで、その記録の細密さは、かつて私が本職の判事として担当したどの裁判の記録にも劣らぬものだった。
 その調子で記録した交霊会は数にして二百回近く、費やした用紙は実に1600ページにも上っている。無論同一霊媒ばかりではなく、なるべく多くの霊媒の交霊会に出席したが、その折々の事情もまた様々で、二つとして似たような条件の会は体験しなかった。一回一回に何か新しいものがあり、前回とは必ず違っていた。出席者も違っており、現象も主観と客観のありとあらゆる現象が見られた。
 私なりに幻覚を防ぐべく最大限の手段を講じてみた。というのも、その時から既に私や同志達の心の奥には、現在こうして生きている我々が他界した過去の人物と交信出来るということがもしも事実だとすれば、これは何と素晴らしいことではないかという、わくわくするような想いが渦巻いていたからである。
 それだけにまた私は、そうした自分の主観によって理性的判断が歪められてはならないと思い、その予防に苦心した。それがために時には極度に懐疑的になることもあった。来世の存在についての確信が揺らぐことも度々あったが、そんな時でも私は、どうしようもないほど確定的な事実は別として、疑う余地のあることは徹底的に疑って掛かることを恐れなかったのである。
 従って勢い次の交霊会までには、私の胸中にどうしても突き止めたい幾つかの疑問点が宿されることが多かった。ところが不思議なことに、次の交霊会でその疑問に真っ向から答えるような現象がよく起きて、その疑問が立ちどころに消えてしまうのだった。
 それで万事すっきりしたのであるが、例によって家に帰るとその日の記録をキチンと整理し、何とか霊魂説以外の説は有り得ないものかと、ありったけの知恵を絞ってみたものである。そんな次第で、次の交霊会には必ず新しい疑惑と研究課題とを持ち込むことになった。
 こうした態度は当然、詐欺やペテンに対する警戒心を生む。私もその為にありとあらゆる手段を講じたものであるが、今その頃のことを思い出すといささか苦笑を禁じ得ない。が、ともかくもそうした私のしつこいまでの懐疑的態度が生み出す疑問が一つ一つ解決されていったということは、私の研究過程において特筆大書に価する、大切な事実であると自負しているところである。

 右の引用文にある「思い出すといささか苦笑を禁じ得ない」ことの一例を紹介するとー

 実験室の片隅に立っていた時のことである。手の届く距離には誰もいないのに私のポケットに何者かが手を突っ込んだ。後でその中に入れてあったハンカチを取り出してみると結び目が六つも出来ていた。次にバスビオール(楽器の一種)が私の手に持たされ、私の足の上に置かれて演奏された。私の身体が何度も触られ、腰掛けていた椅子が引っぱり取られたこともある。
 ある時、片方の手がまるで鉄で出来ているみたいな手で握られた。親指と四本の指、手のひら、それに親指の付け根の膨らみまで感じ取ることが出来た。その握力はもの凄く、逃れようとしたがダメだった。その手を自分の別の方の手で触ってみると、普通の人間の手でないことを確認した。その時の私の身動きの取れない状態はまるで握りこぶしの中のハエのようなもので、どうにもならなかった。その状態はしばらく続いた。そして私はとことん自分の無力さを思い知らされたのだった。
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 とっておきのエピソード1

 リンカーンの奴隷解放は交霊会で決断された

 リンカーンは米国史上最大の内戦となった南北戦争勃発の年である1861年に第十六代大統領になっているが、皮肉にも戦争終結の年の65年に暗殺されている。その遠因が例の「奴隷解放宣言」にあったことは周知の事実であるが、その発効に踏み切らせたのが、リンカーン夫人がホワイトハウスに霊媒を呼んで催した交霊会における霊言であったことを知る人は少ないであろう。
 実を言うと「解放宣言」の起草書は早くから出来上がっていたが、リンカーンは議会内の反対派の抵抗に遭って、その発効の期日を決断出来ずにいた。
 一方夫人は早くからスピリチュアリズムに関心を抱いていて、1862年の冬に、当時人気の高かった女性トランス霊媒ネティ・コルバーンが、戦争で負傷して入院している実弟を見舞いにワシントンに来ているとの情報を手にすると、すぐさま馬車を送って、ホワイトハウスで交霊会を催してほしいと依頼した。大統領夫人からの要請とあっては断る訳にもいかず、二十歳にも満たないコルバーンはその日の内に訪れた。
 その著書(リンカーンは死後存続を信じていたか)の中でコルバーンは、接見室で大統領直々の出迎えを受けた時の様子や出席者の顔ぶれを述べてから、交霊会の様子を次のように綴っている。トランス霊媒は無意識状態になるので、その間のことは会の終了後に出席者から聞いたことをまとめている。「・・・だそうです」という表現になっているのはその為である。

 私に乗り移ってきた霊(19世紀の政治家で名演説家だったダニエル・ウェブスター)は三十分以上にわたって大統領に語りかけたそうです。その内容は大統領自身には直ぐに理解出来ることでしたが、他の出席者達は『奴隷解放宣言』という用語が出るまでは、何のことだか殆ど理解出来なかったといいます。
 大統領は私の口を使って堂々たる威厳をもって語る霊から、その奴隷解放の法案の条項を一つたりとも削除してはならないこと、そして発効期日を年明け(1863年1月1日)より延期してはならないことを強く求められたとのことです。
 同時にそれが彼の政治家としての、そして一人間としての人生の最後を飾る最重要課題であり、議会内には発効を延期させて他の法案と差し替えようとする動きがあるが、それには一切構わず信念をもって対処し、恐れることなく実行することーそれこそが神から託された使命である、と断言したそうです。居合わせた人達は私という小娘の存在を忘れ、まるでこ神託を述べるような風情の強烈な霊であることを、ひしひしと感じ取ったといいます。
 やがて私は意識を取り戻したのですが、その瞬間に感じ取った周囲の雰囲気は今もって忘れることが出来ません。私は大統領の目の前に立っておりました。大統領は椅子に深く座り込み、腕組みをして私をじっと見つめております。我に返った私は一瞬自分がどこにいるのかが分からず、また私を取り囲む人達が黙って身じろぎ一つせずに静まり返っているのに戸惑って、思わず後ずさりしました。
 その時です。出席者の一人が大統領に向かって低い声で尋ねました。
 「閣下、今の演説の特徴に思い当たることがございますか」
 その問いに大統領はあたかも魔法を振りほどくような態度で立ち上がり、ピアノの真上の壁に飾ってあるダニエル・ウェブスターの等身大の肖像画に素早く眼をやってから
 「ある!不思議だ!不思議だ!」と強い口調で答えました。別の列席者が
 「このようなことをお聞きするのは失礼かと存じますが、議会内には閣下に対して奴隷解放宣言の発効を遅らせようとする圧力があるのでしょうか」と尋ねると、
 「事態がこうなった以上、そういう質問は少しも失礼ではない。本日ここに集まられた方々はみんな私の味方なのだから」と述べて一同を見回してから、さらに続けて
 「私は今そうした圧力に全身全霊を賭して抵抗しているところだ」と述べた。
 それを聞いて質問者は大統領の近くへ歩み寄り、何やら低い声で語りかけます。大統領はただ聞き入っていましたが、聞き終わると私に近づき、両手を私の頭に置いて
 「お嬢さん、あなたは実に不思議な才能をお持ちだ。それは間違いなく神からの授かり物だと思います。あなたを通して授けられたメッセージは本日ここにお集りの方々のどなたの想像も及ばないほど大切なことです。私はこれで失礼しなければならないが、出来ればまたお会い出来ることを希望しております」
 そう述べてから大統領は私の手を握り、出席者全員に会釈して出て行かれました。後に残った人達はそれから一時間ばかり大統領夫人を交えて歓談し、それから私はジョージタウンへと帰ったのでした。
 リンカーン大統領との面会は以上のようなものでしたが、今でも当夜のように明瞭に、そして生き生きと甦ってまいります。
 
 その時の交霊会は一時間半ばかり続いたのであるが、実はこの霊言現象に入るに先立って、ピアノが宙に浮くという現象が起きている。ネティーの交霊会では若い頃は物理現象もよく起きていて、当日もネティー自身がピアノを弾いていると(交霊会の始めに音楽を流したり合掌したりするのが通例)、そのピアノが床から四インチ程浮き上がった。出席していた軍人と判事、それに大統領までが慌ててピアノを押さえようとしたが、びくともしなかったという。