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カテゴリ:★『管理人について』 > 恥の多い人生を送ってきました 管理人の人生

注釈]このページは、[恥の多い人生を送ってきました(18)]よりも古い公開日となっています。しかし、作成日は[恥の多い人生を送ってきました(18)]よりも最新です。それは、作成日は一番最新であっても、公開日を以前公開した記事よりも古くしなければ、以前公開した記事よりも下に位置しないからです。これがブログのシステムなので、ご理解ください。


 まあ、この記事は、今執筆している日時は、2015年の9月22日午後8時41分です。前回の[恥の多い人生を送ってきました(19)]を執筆したのが2012年4月18日なので、三年と五か月が経過したことになります。

 まあ、別に、社会的な状況は大して変化しとらんのやけどね。

 というわけで、ぼちぼち執筆していきます。

 と、まあ、私は地元の平塚の湘南ベルマーレの馬入練習場での練習風景などをたまに見ながら、家で自殺ダメの構築作業をしつつ、福島に行くという話で、業者からの連絡を待っておりました。しかし、いくら待てど暮らせど、実際に赴くという話にはなりませんでした。

 それは、その時、どうやら業者は、求職者をとりあえず自社に留めておいて、空きが出たら、順次電話をかけて補充する、という形だったようです。だから、そこんところの業者は、空きがなかったんだろうね。だから、適当にお茶を濁す形で、「あともう直ぐです」とか言いつつも、ズルズルと引き伸ばしていったのだろう。

 そんなふうにして、時間が経過していきました。ただ、その間、私は無為に過ごしていた訳ではない。仕方がないので、自殺ダメの構築作業を、朝から晩までしていた。そして精神的に疲れたら、ベルマーレの練習風景などを見学しに行っていた。その頃は、まだベルマーレの熱心なファンだったから。あと、たまに川崎のソープランドにも行っていた。性欲が強かったから。

 それで、いつまで経っても呼ばれないので、そこの企業には断りを入れた。そして次に、東京にある何とかっていう建設業者だかが除染の作業員を募集しているとのことで、応募した。東京まで行き、面接した。当初は直ぐに福島に入れる予定だったのが、なんだかんだで、またここもズルズルと延期、延期の繰り返しだった。そんなこんなで、翌年の2013年になってしまいました。

 2012年の10月頃に、金銭的な支援をしてくれていた父方の祖母が死んでしまった。なので、私は資金がなくなった。バイトもせずに、ずっと一日中、自殺ダメの制作作業をしていたのだ。その頃、毎月15000円のリボ払いのライフカードの借金返済があったし、その他の費用もかかった。ピンチであった。でも、なんか、そんな時に、自殺ダメの寄付の募集欄を見た山田さんという人が、支援してくれた。当初は、山田さんは、自宅で可能な転売の方法を教えて私を支援してあげる、とのことであった。しかし、私はその時に、転売する気も暇もなかった。なので、断り、直接的な金銭的な支援をくれ、と要請した。そうしたら、山田さんは、なんだか霊能力があるらしく、善いことをすべき時には小指が痛くなるとのことだった。その時もどうやら小指が痛くなったらしい。なので、私に三万円振り込んでくれた。私の自殺者救済事業に共感したとのことだった。まあ、背後では、善霊が動いて、私を支援してくれたのだろうな。

 自殺ダメを制作していた間、勿論、親からは相当なプレッシャーを受けた。なにせ、30~31歳の間を、自宅でずっと一日中、無職でパソコンに向かい合いながら、タイピングして自殺ダメを制作していたのだからな。私の両親はそういうことには全く理解が及ばないのだ。だから、積極的に支援してくれるタイプではない。だから、相当衝突した。しかし、私には使命感があったので、自殺ダメの制作を貫いた。そりゃ、30過ぎて自宅で無職でブログを制作しまくる人生なんて、聞いたことないよな。まあ、世間的にはニートと同じだ。でも、その時の俺はニートではない。自殺ダメの制作は、後々何十年も、インターネットにおいて、自殺志願者を救うことになるのだから、意味がある作業なのは明白だったから。

 そんなことがありまして、結局、2013年の2月になり、ようやく自殺ダメの本文入力作業は終了しました。勿論、その後も枝葉を付ける作業は、この文章みたいにちょくちょくありました。しかし、骨格となる、幹となる部分の文章入力に関しては、この時点で終了しました。2012年の4月頃から始めて、2013年の2月に完了した。勿論、その時点では、ブログの全体デザインは酷かったし、目次もまだ設置していなかったけどね。

 あと、脚本家になるという夢は、2012年の3月の段階で諦めました。無理だわ。誰も支援してくれないものな。グラフィックデザイナーもダメだったしな。頭が悪いし、記憶力もないからな。諦めるのが早すぎると言うかもしれぬが、諦めも肝心である。もしも諦めずにダラダラと才能もないのに脚本家になる努力を継続していたら、何の世間の役にも立たぬ駄作を量産していただけだったからな。だったら、自殺ダメという霊的自殺防止サイトを制作していた今の人生の方が、遥かに有意義ではないか。だから、まあ、いいんだ。私はクリエイティブな仕事をしたかったので、そういったことに挑戦したのだが、とりあえず、それらの夢は破れたということでOK。

 まあ、今もまだ自殺ダメの総合的な制作は完了していない。まだ、自殺ダメへ自殺志願者を誘導するサイトの制作が待っているからだ。でも、自殺ダメへの誘導サイトの制作も全て完了した暁には、ちゃんとした社会的な仕事に就く努力をするつもりだ。ただ、それまでは、まだ自殺志願者を救うべく、活動を継続せねばなるまい。

 で、2013年の2月に、ようやく福島に行くことが決まりました。それは、楢葉町というところで除染の作業員を募集する求人でした。たしか、日給は15000円で、その内、寮費が出勤日一日辺り5000円を納めるという契約でした。それは、名前は忘れたが、ネットの求人サイトで見たからだ。それまでに応募した除染の仕事は、ダラダラと引き伸ばしされた上に未決定だったが、この求人は、応募から実際に赴くまで、二週間程度しかかからなかった。すんなり決まったのだ。多分、骨格となる自殺ダメの制作作業が終了したので、守護霊が福島に行くことを許可したのだろう。また、この求人の先にある出会いによって、俺が人生の修行が出来ると踏んだのだろうな。だから、すんなり決定したのだろう。だって、この求人の募集はこの時だけであり、そこに丁度、俺が応募したのだから。やはり縁があったと見るべきであろう。
 
 それで、私は実際に福島に行きました。いわき市の中の何とか駅という、小さな田舎の駅に到着しました。すると、すぐ傍に、ボストンバッグを携えた中年のおじさんが一人いました。どうやらその人も、同じ寮に入る人らしかったのです。その後、続々と他の人も集まりました。まあ、総勢10名程度だったかな。その後、寮の管理人である中年の夫婦と、50代の男性が来ました。その三人が、今回の寮のシステムを考案して実施した人達、つまり我々を募集した人達でありました。

 まあ、後から知ったことですが、まず、一番上にゼネコンがある。その下に地元の建設会社がいる。その建設会社が、除染の給与を支払う会社です。そこから更に、その三人が借りた寮のシステムがある、という訳です。だから、その三人も給与を支払う会社の準社員として、我々と同じ身分で新規に入社することになっておりました。しかし、既に寮は借りておりました。我々は、その寮に入って、食事と風呂とかの提供を受ける代わりに、出勤日に限り、一日5000円を寮の管理人の三人に支払う、というシステムでした。だから、地元の人ならば、自宅から通えますが、県外からの出稼ぎ者にとっては、そのシステムしかないのかしら、と思います。

 それで、近くのガストでドリンクを飲ませて頂いてから、簡単な説明を受けて、寮に移動しました。寮とはいえ、そこは古びた古民家、5部屋程度の、築60年以上ありそうな、古びた平屋でした。もう、けっこうボロボロで、一年後には、取り壊す予定の物件らしかったのです。だから、室内には、押し入れ裏には小動物の糞が山積していたり、埃だらけだったり、床板も怪しい部分があったりしました。

 そんな感じで、とりあえず、その日は皆さん一緒に泊まりました。食事は、その三人が近くの弁当屋で買ってきたものを食べました。まあ、その食事は、三人の奢りという形でした。

 あ、あと前回の[恥の多い人生を送ってきました(18)・・・・管理人の人生]のところに、永久脱毛の話が掲載してありますけど、その話の続きとしましては、当初はツルツルを目指す予定でしたが、金銭が尽きたので、無理でした。なので、今でも、まだ毛深いといえば毛深いのですけど、大分間引きされた状態といいますか。とにかく、ツルツルになったらなったで、男なのにツルツルとは恥ずかしく思えてきたので、やはり今の少し残ったすね毛の状態とかでいいのではないか、と思うようにしました。まあ、追加で永久脱毛すれば、また莫大な金がかかるからね。これでいいと、思うようにしました。

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 それで、その三人の管理人と、私の他に9名の作業員と共に、初日は、そのボロい寮で寝ました。しかし寝られる部屋は五部屋の内、四部屋しかありませんでした。そこに分散して寝ました。まあ、夫婦の管理人は一部屋でしたけど。まあ、当然、雑魚寝ですね。

 翌日、起きて、食事が出て、食べました。それで、直接の雇い主である、地元の建設会社の本社に行きました。まあ、建設会社と言っても、別にゼネコンではないので、こじんまりとした小さな二階建ての建物です。倉庫に道具類があり、その奥が小さな部屋で、そこで契約書類とか誓約書とか書きました。これで、契約終了です。

 でも、それで直ぐに働き出せる訳ではないのです。除染は国主導のシステムなので、色々と面倒なのです。ガラズバッジという登録証が出来上がるまでに、登録機関に書類を送付してから一か月程度かかるらしいのでした。だから、それまでは一銭も稼げないのです。仕方がないので、とりあえず寮に帰りました。

 それで、翌日の午前中にいわき市の指定病院にみんなで赴き、健康診断を受けました。その後、各々、集合はガラスバッジが出来上がったら、またこの寮に来る、ということで、解散しました。しかし、私はたったの一か月ぽっちを神奈川に帰ったとしても、何も出来ないし、往復の交通費がもったいないので、そこの寮に留まって、仕事開始までの間、寮の改築というか、まあ、殆ど掃除と補修をすることとなりました。それらをする代わりに、仕事開始までの間、無料で泊めてもらう、という約束でした。

 で、結局、残ったのは、行くアテの無い私と、私と同年代の男と、管理人の50代男性の三人でした。夫婦の管理人は、仕事再開までは、地元に帰りました。その他の作業員の人達も、ひとまず地元に帰りました。だから、この三人で、暮らし始めました。

 しかし、三人で一緒に暮し始めて、たったの翌日だったか、二日目だったかで、私と同年代の作業員志望の男が、去っていきました。その経緯はこうです。その男は、別の地域で除染をしていたのですが、そこが酷いタコ部屋で、六畳に二段ベッドだか三段ベッドだかを設置して、ギュウギュウ詰めで生活していたそうです。しかも、給料が未払いだったそうです。まあ、ヤクザみたいな奴が運営している下請けの除染会社らしかったのです。だから、酷かったので、給与を貰えぬまま、新たな仕事先であるこの職場に応募した、という訳です。それで、一緒に暮らしていたのですが、とにかくその男は面倒臭がりなのでした。

 掃除とか補修作業とか、果ては単なる皿洗いとかも放棄して、どっかに行ってしまったり、いつまでも、昼過ぎまで布団の中でうずくまってだらけていたりしました。それで、管理人の人がキレてしまい、「働かないのなら出ていけ!」ということになり、追い出されてしまいました。その後、男は軽自動車に乗ってやって来ていたのですが、その軽自動車に乗って、寒い中、福島をウロウロしていたようです。なんか、実家に戻れぬ事情があったらしい。と、まあ、その後の消息は不明です。だから、その男は、一銭も稼ぐことなく、ただの無駄足と時間の無駄で、その職場は終了したのでした。なので、管理人と私の二人の生活になりました。

 それで、その後、二人でコツコツ、補修作業をしました。最初、私と管理人は、広い部屋に寝ていたのですが、そこはやがて作業員が来るということで、一番狭い奥の部屋に移動しました。そこで、なぜか私は押し入れの上の部分で寝ることになりました。まあ、少しでも広くする為ですかね。押し入れって、半分の位置に仕切りがあるでしょ。でも、そのままそこに寝れば、バキッと落ちる危険性があるので、下の部分を角材で補強しました。上の奥の部分には、空間があり、そこにボストンバッグとか着替えも置けました。だから、まあ、快適と言えば快適ではあるし、プライバシーもある程度は保てると言えば保てるのですが、やはりいかんせんただの押し入れです。寝返りも狭すぎて打てないのです。狭い空間、棺桶程度の幅しかないのです。一応、縦幅はそれなりにあるので、足がつっかえるということはありませんでした。ただ、横幅が狭いのです。私は太ってはいないのですけど、なにせ布団がかさばっているので、その分狭くなり、寝返りが打てなかったのです。だから、寝ても、疲れが十分に取れませんでした。やはり眠るに際して、広い空間は必要ですね。まあ、電灯は安物の電球を設置したり、コンセントも設置したりしたので、ある程度は快適ではあったのですが。

 まあ、あとはダイソーに行き、安物のキッチン道具を揃えたり、風呂場の桶とかを買ったりして過ごしました。そんなこんなで、三週間くらいが過ぎていき、やがてボチボチ集まりだしました。

 最初に、夫婦の管理人が戻ってきました。その三人の管理人は、どうやら、雇用主の建設会社の部長と話し合って、寮を運営して、その運営費で儲けて、自分達も作業員として働いて、二重に稼ぐ、という目論見だったようです。まあ、除染ではよくある話です。で、夫婦の内、夫の方はとてつもなくエネルギッシュな方で、ゆくゆくはもっとビジネスを拡張していきたい、と話していました。それで、儲かったら、部長さんにお金をいくらか渡す、という形式です。部長さんも、雇用主の建設会社よりも大きな会社から出向してきていたらしいのですが、給与面で冷遇されていたようです。でも、なんだかっていう資格はその部長さんしか所持しておらず、その部長さんがその企業におるお蔭で、その企業は除染の仕事をする資格があるとかなんとか。よく覚えていませんけど、なんかその出向先の会社の社長が娘婿だったかな、なんか家族関係とか人間関係とかも相まって、けっこう複雑なようでした。まあ、俺には関係ねーけどさ。

 その後、作業員の人達が集まってきました。一人脱落済みなので、私も含めて作業員は9名、管理人3名で、狭い平屋で共同生活が始まりました。ちなみに、夫婦の奥さんも一緒に住みましたが、別に一般的に見て、情欲が湧く年齢でも見た目でもないので、周囲が男ばかりであっても、全然問題ありませんでした。

 それで、ようやく三月の初め頃から、働き出せるようになりました。それで、管理人達が用意した八人乗りのミニバンと、軽自動車に乗り、寮から一時間程度走った場所にある、楢葉町の職場に向かいました。

 最初にJビレッジという場所で、講義や心構えを受けた後、ガラスバッジを受けました。これは絶対に紛失してはならないものです。で、その後、実際の職場に向かいました。

 最初の職場は、とある道路脇の山肌でした。そこの山肌の草を草刈り部隊が刈って、その草を熊手で下に落としたり、あと表土を専用の道具で削り取って下に落としたり、下に溜まった石を一か所に集めたりしました。土を、あの黒い巨大な袋に詰める作業は、重機で行いました。けど、石を運ぶのとか、大変でした。

 そこの職場には、30名程度いたと思いますし、他の雇用主の会社の職場には、もっといたように思います。まあ、最初に広い運動場みたいな場所に集まって、朝礼をするんですが、そこには、頂点に某ゼネコンがおり、その下に、色んな地元とかの建設会社がおり、そこに雇われた作業員が大勢いる、という風景です。だから、そこには何百人も集合するのですが、作業服は各会社毎にバラバラで、色とりどりでした。

 たしか、朝八時から、夕方五時までだったかな。朝七時半だったかな?忘れちゃった。まあ、その運動場の駐車場に、高圧洗浄車とかの車も駐車してあり、我々が乗車してきた車も、そこに停めておりました。

 それで、その山肌の職場は、大変と言えば大変だったのですが、単純だったし、簡単だったので、楽でした。けど、我々がそこに配属されてから、たったの一週間程度で、我々はバラバラに他の職場に配属されました。それは、家屋の除染班でした。一軒の家屋に、大体長ければ数週間かけて、徹底的に除染する、という形式でした。

 でもね、その間、というか、山肌の職場でみんなが働いている間に、ある問題が発生しました。それは、働きだして割と直ぐに休日になったのですけど、その時に、寮の酒飲み達が悪酔いして、Oさんという50歳程度の中年男性を苛めたのです。それで、かなり問題になりました。管理人達は、出ていかれたら、収入が減ってしまうので、何とか最初の方はヘコヘコへりくだってなだめていたのですけど、元々が管理人の二人の男もキレやすい性格なので、終いには、双方キレる形となり、その酒飲み達は出ていくことになりました。

 勿論、酒が入っている間は尊大な態度だったその三人程度の作業員も、翌日酒が抜けると、途端にしょぼんとなっていました。しかし、これから長期間一緒に寝食を一つ屋根の下で暮らしていく者なのに、最初からそんなトラブルを起こすような人にはいて欲しくないということで、管理人達が、すまないが、今すぐ出て行ってくれないか・・・と言いました。それで、結局、その三人は、その日の内に出ていきました。だから、一か月もガラスバッジが出来るまで待機していたのに、その人達はたったの数日分の日当、数万円しか稼げませんでした。アホらしい。今度、また別の除染の職場に就職するとしても、また一から、そこのガラスバッジを制作せねばならず、待機期間が発生してしまうでしょう。

 まあ、その三人の内訳は、一人は五十代半ばの男で、なんか話では、大手のガス会社に勤務していて、そこから独立して会社の社長をして、キャバクラで豪遊した、なんて話していた。しかし、それが事実だとしたら、なんでこんな除染の仕事なんかに赴いているんだ?という疑問が、後々湧きました。もう一人は40手前の男で、その人はキレ易い性格であり、それまでにも幾度も除染の仕事を転々としていたが、度々キレてしまい、結局出ていく羽目に陥ったということだ。もう一人は60代後半の男で、年金暮らしらしかったし、奥さんもおり、持ち家もあるのだが、金儲けの為の除染に来ていたらしい。でも、さすがにそんな老齢の男が、こんなカオスな状況に馴染める訳もなかった。まあ、頑固だったしな。頑固さというのは、何か信念を貫く時には重要かもしれぬが、この除染の時のような環境では、柔軟性が求められるからな。こんなカオスな環境で、一歩も他人に譲らない、というような頑固な人間は、やっていける訳がない。

 なにせ、一部屋におじさんやお爺さんが三人とか四人で、四六時中一緒に生活して、心に安らぎがないのです。しかも、俺も含めて、まともな人生を歩んでいる人なんて、来ません。なんで、わざわざ安定した人生を送っている人が、こんなボロ屋の中で、日給手取り一万円で、週六で働いて、家族でもなんでもない赤の他人と集団生活すると思っているんだ?孤児の子供達と暮らすとかではないんだぞ?子供達なら素直な面もあるが、おっさん、それも、管理人達も含めて、人生が上手く行っていない者だらけ、一つ屋根の下で暮らすというのは、精神的に大変過ぎるよ。オナニーとかも出来ないからな。刑務所だったら、刑務官という偉い立場の者が場を取り仕切りますが、ここはそんな偉い人なんていないのです。寮の管理人にしたって、入寮者はお金を払って頂く立場なんだから、ある意味お客さんな訳だしな。

 まあ、みんな、訳ありの者ばかりでした。私も含めて。管理人の50代の男は、一千万円の借金があった。それは沢山のクレジットカード会社の借金であった。でも、トンズラして、そこに潜り込んでいた。借金取りも、まさか福島で除染の仕事をしているなんてことまでは、突き止められなかったようだ。でも、その人のスマートフォンには、頻繁にクレジットカード会社から電話がかかってきていたが、ことごとく無視していた。その人いわく、三年くらい逃げおおせれば、借金がチャラになるらしい。本当かしら?あとの夫婦の管理人の方も、今まで色んな事業をしてきたけど、失敗して、借金が一千万円程度あるらしい。だから、寮の運営費とか、他にも色々と出費があるとかで、一か月に百万円稼いだとしても、とても足りないと言っていた。

 で、なんで俺が福島に行ったのか?と言えば、霊的知識普及の為の本を出版したい、と考えたからだ。それで、出版費用とか、新聞の広告欄への掲載料とかも、実際に調べていた。まあ、後々、青山考明に騙されて、そっちの線は断念しますけど。ただ、青山に騙されるまでは、本気で霊的知識普及の為の本を出版しようと考えていた。まあ、あとはライフカードの借金30万円も返済しようとしていた。あとは、それまで溜めに溜めていた、国民健康保険料の未払いも払おうとしたが、こっちは、親が支払ってくれた。丁度、この時、政府が過去十年まで遡って追納できるという制度を期間限定で設置していたので、なんとかギリギリで未払いの期間も全て支払えた。計160万円程度だったかな。だから、今は、未払いの期間は、とりあえず、ない。まあ、でも殆ど国民年金しか支払っていないので、このままでは老後はピンチですけどね。

注釈]このページは、[恥の多い人生を送ってきました(18)]よりも古い公開日となっています。しかし、作成日は[恥の多い人生を送ってきました(18)]よりも最新です。それは、作成日は一番最新であっても、公開日を以前公開した記事よりも古くしなければ、以前公開した記事よりも下に位置しないからです。これがブログのシステムなので、ご理解ください。


 それで、住宅班は、面倒くさかった。山肌を削っていた時は、単純作業だったが、この住宅班は、住宅の敷地内の物に気を遣いながら作業せねばならない。それで同じ給与なのだから、超嫌だ。庭の表土を剥ぎ取って捨てたり、新しい土を被せたり、落ち葉の清掃とか、砂利を敷いたり、車に繋いだ高圧洗浄機のジェット噴射で、石垣のコケを落としたりさ。とにかく、気を使わねばならないので、面倒だった。あとは庭に捨ててあるタイルを拾い集めたり、まあ、そんなことでした。私も時々、高圧洗浄車のトラックを運転して、水を汲みに行ったりしました。まあ、田舎だから、他の車はそんなに走っていないので、緊張はしなかったけど。

 でも、そんな作業の中でも、残ったメンバーは、え~と、俺も含めてあと六名か。そんで、やはり厳しい管理人の人と折り合いが合わずに、途中でどんどん脱落していってしまいました。一人は40歳位の、家族と子供がいる人でしたが、居心地が悪かったらしく、とっとと新しい除染の職場を見つけて、そっちへ移ってしまいました。あとの一人は、やはり管理人と折り合いがつかず、出て行ってしまいました。50代の管理人さんの、風呂場は水道代や温度がもったいないので、二人同時に入れ、という命令に納得できずに反発して、「ここは刑務所か」と発言してしまったら、その管理人さんがキレてしまいました。それで、テーブルのある部屋で話し合いがなされて、一度はその作業員も納得して居続けるという選択をしたようですが、やはり東京で友達経由で職場が見つかったらしく、そっちに移ってしまいました。だから、残ったのは、私と、あと40歳くらいの穏やかな性格の人、32歳の同い年の穏やかな人、あとは50歳の穏やかと言えば穏やかですが、癖のありそうな人が残りました。まあ、結局、このような状況では、他人と衝突してしまう性格の人は、生き残れなかった、という訳だ。

 でも、その後、その50歳の作業員も、バックレてしまいました。作業開始から一か月が経過した頃から、なんだか、管理人三人と部長さんで、新たに除染の会社を複数立ち上げて、まとめて、新しい職場を作る、という話がありました。その内の一社に、管理人さん達が経営陣の会社を作れ、それで、俺にも多少は儲けさせろ!という部長さんの方針でした。なので、管理人さん達は、寮で儲けるというビジネスは破綻しましたが、今度は、自分達が経営者となり、多くの作業員を雇って大儲け出来る可能性が出てきたのでした。元々、その部長さんと三人とは、たまたま知り合ったらしいのです。その二人の夫婦の管理人と50代の管理人もたまたま会ったし、部長さんとも縁あって会ったらしいのです。それが、作業開始からほんの一月程度で、そんなビッグチャンスが舞い込んで来たので、管理人さん達は有頂天になっていました。

 それで、我々残ったメンバーも、新しい会社に来れば厚遇するから、ということで、勧誘されていました。その50歳の作業員の人も、職長にして厚遇するから!とのことで、説得されていたのです。しかし、ある日、ちょっと実家に帰るということで、確か名古屋に帰ってしまいました。その後、直ぐに帰って来ると思っておったのですが、待てど暮らせど、帰っては来ませんでした。やがて、その人が、寮費の残りを支払いたくないから、バックレた、ということが確定的となり、今まで信じていた管理人さん達も、一斉に罵倒し始めました。しかし、その人の最後の給与は、バックレたということで、直接、その会社に受け取りに来なければならない、ということになってしまいました。それで受け取りに来た時に、管理人さん達で問い詰める、という話になって、その人は、怖くて受け取りに来れなくなったようです。で、今、その最後の給与の行方は知りません。なので、バックレずに普通に[辞めます]と言って、最後の寮費を支払って、給与も受け取って帰れば、万事解決だったのにね。まあ、その人は見た目は怪しかったのですけど、話し方とかはまあまあ穏やかだったし、冗談もよく言う人だったので、信用されていたのでした。しかし、やはり内面は、今までそういうことが度々あったようです。管理人さんがその人の奥さんに電話したら、まあ、その奥さんは東南アジア人なのですが、「ワタシモアノヒトニダマサレタヨ~」なんて言っていたようですから。

 と、いう訳で、残りは私も含めて、作業員三名、管理人三名となりました。でも、もうこの頃には、管理人さん達も、別に寮費で儲ける話ではなく、新たな除染会社を作って大儲けするという方向にシフトしていたので、別に大したダメージではありませんでした。

 で、私達も誘われたのですけど、私以外の一人は実家に帰り、もう一人は新会社に移行しました。

 結局、私は神奈川に帰ることにしました。俺は真面目だから、信頼できるとのことで、是非、新しい会社にも来てくれ、とのことでした。けども、その新しい会社を作るにあたり、「今まで勤めていた除染会社に潜り込みながら、そんな新しいライバルとなる会社を立ち上げることを目論んでいたのか!」というように、元の除染会社の人からキツい目で見られたりしました。また、それまでの煩わしい人間関係にも嫌気がさしておったので、私は臆病でしたから、帰宅を選択してしまったのです。その時に、元の除染会社の運営する寮に移動して、そのまま勤務を続けないか?という話もあったのです。だから、二つの除染会社で働き続けられる可能性はあったのです。けども、私はそのどちらも選択せずに、帰宅するという選択をしてしまいました。後々考えれば、そのままどちらかに残り続けて、大金を稼ぎ続けた方がよかったように思えます。どちらに残るにしても、寮費を引いた後であれ、無能な私にとっては、けっこうな金額を稼げた計算になったのですから。仕事内容も、今までそつなくこなせていたのですから。

 ライフカードの借金は未返済のままでした。まあ、なんとかなるだろう、みたいな、安易な考えで放置しておりました。今から考えれば、ライフカードの借金返済分のみでも、そのまま残り続けて、頑張って稼いだ方が良かったように思えます。まあ、うんと遠い将来的に、微量の放射能を浴び続けたせいでの体への影響のことまでは、知りませんけど。とにかく、私の福島での生活は、二月から始まり、三月から働き出して、五月末辺りまでで終了しました。ごく短期間しかいませんでした。

 で、私は、最初の頃には、新会社なんて上手く行く筈がない、と勝手に思い込んでいたのですが、どうやら、その新会社の様子をネットで見ると、けっこう上手くやっているようです。ただ、最近は新規作業員の募集は見かけないので、今、どうなっているのかは知りませんけど。私も、あの時、半年でもいいから、もうちょっと頑張って留まっておればよかったかなぁ、と、今でも後悔しております。

注釈]このページは、[恥の多い人生を送ってきました(18)]よりも古い公開日となっています。しかし、作成日は[恥の多い人生を送ってきました(18)]よりも最新です。それは、作成日は一番最新であっても、公開日を以前公開した記事よりも古くしなければ、以前公開した記事よりも下に位置しないからです。これがブログのシステムなので、ご理解ください。


 それで、まあ、除染の仕事関連のことは、以上です。まあ、あんまり詳しく書いても、それは他人の個人情報の特定に繋がってしまうので、これでお終いです。

 ここからは、私個人に関することを、少し、というかけっこう書き連ねていきたいと思います。

 んで、最初に福島の寮に集まった時に、皆さん、殆ど、スマートフォンでした。対して、私はその時はまだ、ガラケーでした。スマートフォンなんて不要だと思っておりました。けども、その時、ガラケーではインターネット契約はしていなかったので、純粋な電話専用機でした。それで、周りの皆さんが、スマートフォンでインターネットを閲覧しているのを見て、私も、そろそろスマートフォンに移行した方がよいかな・・・なんて思い立ってしまい、皆さんが一時的に解散した直後に、いわき市のAUショップに赴きました。

 まあ、その時は、たしか2013年の2月頃でした。その頃はまだ、格安SIMなんて知らなかったし、存在していたのかどうかも不明なので、AU一択でした。だって、AUのガラケーだったから。今思えば、ドコモとかソフトバンクに乗り換えとけば、乗換割で安上がりになったのかなぁ、と思いますけど、後の祭りです。

 そんで、AUショップに行ったら、まあ、その当時の最新機種が五機種程度展示してありました。その中で、私は、とりあえず一番重要視したのが電池の持ち時間でしたので、そのラインナップの中で一番電池の持ちが良いと表示されておった、京セラのDIGNO S KYL21という機種にしました。カラーは白色にしました。本心では、ピンク色が良いと直感したのですが、その当時は、男ばかりの職場と寮で、ピンク色のスマートフォンを選択する勇気がありませんでした。でも、今使用中のガラケーはピンクですけど。

 それで、スマホを契約するという話になったのですけど、そこのショップの店員が、上手く私を話術で丸め込みました。それは、こういうことでした。「子供向けの見守りケータイを別途、新規に契約してくれれば、二年間、このスマホ使用料が割引になりますよ!」というものでした。その当時の私は、キッパリと断るとか、相手の本心を見抜くという力が圧倒的に不足していたので、相手の主張するがまま、その形態で契約してしまいました。

 だから、私は、本来の携帯番号のスマホと、あともう一つ、使用する予定のない携帯番号が付与された、子供向けキッズケータイを持つに至りました。当初は、「これで得した!」なんて思っていたのですけど、やはり、子供なんていないのに、なんでキッズケータイなんて契約したんだ・・・という後悔が沸き起こって来ました。で、結局、後に、そのキッズケータイは、直ぐに解約してしまいました。結局、そのキッズケータイの解約料約一万円と、キッズケータイの残債を一括で支払うという、バカげた結果になりました。あの時のAUショップの男、ぶっ殺したい!と思うけど、実際にぶっ殺したら、刑務所に入れられてしまうので、止めときます。

 そんな形で、当初はスマホの使い方に戸惑いながらも、なんとか一か月も経過する頃には、大体の操作及び仕組みは理解しました。それで、色々とインターネットを閲覧しておました。

 その頃、まだ私は、霊的知識普及の為の本を出版することを目標としておりました。なので、支援者、多額の金銭を支援してくれる人なんて、おらんかなぁ~・・・なんていう甘い気持ちで、色々とそのようなキーワードを入力しながら、ネットサーフィンしておりました。そして、雨の日、除染作業が出来なくて休みになった日のことでした。その日、私はいつものように、押し入れの中におり、スマホで支援者を探しておりました。

 すると、青山考明という人物のサイトに行き着きました。その人物は、大金持ちで、カナダ在住であり、イタリアとか世界中でビジネスをしており、主に不動産とかで財を成した人物とありました。その青山考明が、日本の困っている人、40歳以下の、何かをやり遂げたい人に、無償で金銭的な支援をする、という趣旨のブログでした。私はそのブログを発見した時に、「この人だ!この人しかいない!」と、直感で思い、有頂天になりました。遂に、探し求めていた人物に出会ったからです。

 それで、早速、ブログの内容はそこそこ見ただけで、メールで連絡を取りました。すると、直ぐに返信がありました。私はスマホで自分の考えを訴えました。しかし、スマホはご存じの通り、PCのタイピングのように素早くは入力できない。だから、もどかしいので、時間はかかりますが、いわき市のネットカフェに向かいました。もう午後二時頃だったと思いますが、「この人と本格的に連絡を取り合いたい!」と思い、急いでネットカフェに向かいました。

 ネットカフェに到着した後、私は二時間位かけて、自分の熱意を超長文にまとめて、送信しました。それは、霊的知識普及の為の書籍を出版したいので、その執筆の為の部屋を借りる費用、あと新聞へ広告を載せる費用、出版費用、あとはパソコン数台の費用等、合計二千万円を要求しました。それで、青山考明は「それでOKです、齋藤さんの熱意に負けました!」とのことで、OKを貰いました。そんで、「その齋藤さんの熱意が本物かどうか、まずは証明してください、その為に、齋藤さんが、今、私に振り込めるだけの費用を、お振込みください!」というメールが来た。

 私は少し悩んだ。「もしや、詐欺ではないか・・・・?」と。事実、[青山考明]で検索したら、その当時は、[青山考明は詐欺師だ!]というページが幾つか出てきました。でも、青山考明を賛美するページも幾つか出てきました。「私は青山考明さんの支援で、実際に自分の店をオープン出来ました!」という、料理人のブログも発見しました。後に、それは青山考明と名乗っていた詐欺師野郎が自作自演で作った偽のブログだったのですが・・・でも、その当時の俺は、多少は疑心暗鬼になりながらも、「いやいや、このチャンスを逃したら、もう、チャンスなんかないだろ!」ということで、青山考明を信じる方向に突っ走ってしまいました。今から思えば阿呆なのですが、事実阿呆なのです。阿呆なので、実際に自分で痛い目を見なければ、理解出来ないのです。詐欺師が世の中には大勢いるというのは、当時でもニュースで数多く、それまでの人生で認識していたのですが、実際に自分が騙されるとは、思ってもみませんでした。まあ、私のようなバカが沢山いるので、詐欺師もわんさか蛆虫の如く湧いて出てくるのですけどね。

 それで、実際の最初の給与の振込の直後の休日に、いわき市に行って、まずは喫茶店に入りました。そこで、青山考明に再度連絡しました。それで、今から振り込みますと。で、その時も、微かに、というか、心の中では4割位は迷っておりました。「やっぱり詐欺なのではないか?」と・・・。でも、ここまで来たのだから、やるしかない!という思いで、近くのみずほ銀行のATMから、15万円も振り込んでしまいました。

 二千万円くれるんだから、私の熱意を証明する代償として、除染で稼いだ15万円、つまり15日分の給与を、振り込みました。初月の振込は、20万円で、その内の5万円はライフカードの借金返済分とかで取っておいて、あとの15万円を振り込んでしまったのです。

 まあ、結果としましては、やはり詐欺師でした。超絶、後悔しました。地球一周航海してしまうほど、後悔しました。まあ、そんな甘い話は存在しませんでした。その青山考明のブログには、病で苦しむ子供を支援したとか、資金繰りに困っている建設会社の社長に無償で六千万円支援したとか、夢のある若者に五百万円支援したとか書かれていたのです。てっきりそれらは本当の話だと信じてしまったのです、私は。でも、それらは全部、青山考明の自作自演でした。[青山さんへの五歳児の感謝の手紙]みたいなのも載っていて、それには五歳児が青山考明に、心臓病の治療費を支援してくれたことを感謝する簡単な言葉と、グチャグチャな下手くそな絵が描かれていたのですが、それらも全部、青山考明が自作自演した、只の絵でした。あー、バカらしい。

 でも、本当に、疑うことを知らぬ、純粋なバカが見たら、本当に信じてしまうような内容だったのです。他のサイトにも、[青山さんの活動は素晴らしい、私も見習いたい!]みたいな記事があり、思わず信じてしまいました。まあ、知能の高い人からすれば、「バカじゃねえの」と思わず吹き出すような、幼稚な詐欺事件かもしれません。しかし、私は実際に、苦労して苦労して、重たい石とかヒーヒー言いながら運んだり、泥だらけになりながら仕事して稼いだ15日分の日当を、その詐欺師に振り込んでしまったのでした。

 正確に言えば、この後も継続して騙され続けるのですけど、まあ、その話は後程、話します。とにかく、このクソ野郎に、金を毟り取られました。当初は殺してやろうかと思いましたが、居所なんて分からないし・・・警察に被害届を出すにしても、あまりにも欲深なバカげた理由だし・・・別に200万円とか400万円詐取された訳ではなく、15万円という、微妙な額なので・・・結局、警察には訴えずに終わりました。

 これはバカな俺に対する、世の中の厳しい洗礼、授業料だと、そう自分に言い聞かせました。ただ、皆さんに誤解しないで頂きたいのは、騙されたり被害に遭っても、泣き寝入りしろ!ということは、私は絶対に言いません。強姦被害とか、強盗被害とか、詐欺被害に遭ったら、迷わず、絶対に警察に訴えるべきです。そういう事件の被害者ならば、絶対に泣き寝入りするべきではありません。ただ、今回の件に関しては、被害金額も微妙な額ですし、この事件のお陰で、私は多少は賢くなることが出来て、更にアルマジロみたいに用心深くなれた、ということで、プラスに働いた部分もあり、訴えなかっただけです。

 あと、自分が欲深過ぎて騙された、と訴えるのが、どうにも恥ずかしかったからです。あまりにもアホ過ぎだからです。警察署の取調室で、「無償で二千万円くれることを本気で信じたのか?君は」と尋ねられて、「はい」というやり取りをするなんて、あまりにも恥ずかしいと思ったからです。純粋な被害者ならばよいのですが、私の方も大きな欲をかいた結果の被害だったので・・・まあ、青山考明の方も、こういう相手の心理状態も考慮して、詐欺を働いていたのでしょうな。その頭の良さを、世の中を良くする方向に使えばよいのにね。

 そして、この青山考明を名乗ったクソ詐欺師野郎は、神の定めたカルマの法則により、必ずや、俺を騙した分のカルマ、いつか必ずコイツの人生に跳ね返ってくるのは確実なので、後の懲らしめは、神にお任せします。

注釈]このページは、[恥の多い人生を送ってきました(18)]よりも古い公開日となっています。しかし、作成日は[恥の多い人生を送ってきました(18)]よりも最新です。それは、作成日は一番最新であっても、公開日を以前公開した記事よりも古くしなければ、以前公開した記事よりも下に位置しないからです。これがブログのシステムなので、ご理解ください。

 そんで、神奈川に帰ってきました。それが、丁度、六月の初めか、五月末でした。その前に、既に青山考明は偽物だと思って、「てめえは詐欺師だ!よくも騙したな!ぶっ殺す!」「早く、本物だったら、金寄越せ!」みたいなメールを送っていました。しかし、それに対して、青山考明は、「まあまあ、齋藤さん、当初の本の出版の件よりも、私は齋藤さんの為を思って勧誘するのですけど、私の居るカナダに来ませんか?そこで、勉強してみませんか?」という内容のメールを寄越したのでした。

 その内容は、こうでした。[私、青山考明は、カナダで不動産取引等で、大金を稼いでいる。また、イタリアとか、世界各地に友達もいるし、事務所もある。それで、齋藤さんには、是非、最初に語学を学んで頂いて、その後、私の事務所で働いて欲しい。だから、以下の三か所の中から、どこか選んで欲しい。一つはフランスの語学学校、もう一つはロンドンの語学学校、もう一つはカナダの語学学校。どこでも費用は全額、私が出しますよ。そこで半年程通って語学をマスターした後、私の世界各地の事務所のどこかで働き始めてくれませんか?安心してください。全ての滞在費用、語学学校にかかる費用は私が出しますから。私はあなたに一流の金融マンになって欲しいのです]ということでした。

 私は、その話が怪しいと思いつつも、またしても本当に信じてしまいました。[やっぱり、日本で霊的知識の普及の為の本を出版するとか、そんなことよりも、外国で金融マンとして大金を稼いだ方がよかろう]と思ってしまったのでした。それで、自宅のインターネットで、どこにしようかな~、なんて楽しい気持ちのまま、ロンドンとかフランスとかカナダの語学学校のホームページを閲覧して、一人悦に入っておりました。

 でも、当初の話では、10月に出発とか言っておいて、その後、12月に延期になりましたとか言ったり、その後は来年の2月ですなんて言い出したりして・・・さすがに、私も怪しいと思い出しました。否、正確に言えば、これもまたコイツの詐欺による方便だ!と感付いていたのですけど、心のどこかで、そんなシンデレラストーリーの主人公になりたい!という甘い気持ちが存在して、たとえこの話が真実である可能性が5%しかなくとも、その5%に賭けたい!という馬鹿げた思いから、あとは現実逃避の気持ちから、その詐欺話に気持ちが浮ついておりました。

 そんなんで、英語の勉強の教材を買って、自宅で勉強したり、仕事に行く途中に携帯プレーヤーで英語の単語を聴いたりしていました。その時はまだ、本気でこの話が真実だと思い込んでいたので。つくづくバカですね、私は。もっと知能の高い人間ならば、こんなバカげた話に、人生の貴重な時間を費やすことなど、絶対にないのにね。

 でも、基本的に、こんな詐欺話に、二度、短期間で同一人物の詐欺師に引っ掛かる程度の、アホウドリ程度のお頭の持ち主の私ですから、英語をいくら勉強しても、一向に頭の中に入って来ませんでした。基本的に、頭の回転も、記憶力も、極度に悪いのです。だから、難しい説明がある漫画とか映画も、理解することが出来ません。「え?なんで・・?」というふうに、理解出来ないのです。まあ、キン肉マンのような単純明快なストーリーの話ならば、理解できますけど、嘘喰いという漫画のように、難解なギャンブルのルールの説明をいくら読んでも、私には一向に理解不可能なのでした。

 そんな知能なので、途中で英語の教材を投げ出してしまいました。だって、いくら努力しても、全然頭の中に入って来ないんだから。なので、日本語に一番近いと言われる、ハングルをなぜか学習し出しました。せめて、何か一つでもやり遂げたい!と思ったからでした。で、実際にハングルの勉強を始めたのですが、最初の、日本語で言う[あいうえお かきくけこ]の部分に相当する、たったの10文字のみでさえ、30時間必死になって聴き取って、何度も何度もノートに書き写しても、一向に記憶出来ないのでした。いくら努力しても無駄でした。インターネットには、「ハングルなんて簡単だよ、文字だけなら、俺なんて三日で覚えたぜ」という日本人の書き込みがありましたが、私は30時間勉強しても、最初の10文字さえ、満足に覚えられなかったのです。自分のお頭の無さに絶望して、終了しました。

 それで、ようやく青山が詐欺師だと確定したのは、翌年の2月頃でした。その時に、私は性欲に負けて、また鶯谷のラブホテルで、ハッピーメールのアダルト掲示板で出会った女子大生とセックスしていたのですが、一回目が終了した後に、スマホで何気なく青山考明関連のキーワードで検索したら、青山考明のブログとそっくりな文体及び構成のブログが出てきました。

 その時には既に、元の青山考明のブログは削除されておりました。2013年の6月頃には削除されておりました。なので、私が福島に行ってスマホにしなければ・・・ガラケーのままだったならば、青山考明のブログに出会わずに、結果的に金銭を毟り取られる被害に遭わずに済んだ可能性が、極めて高かったのです。まあ、ネットカフェのパソコンで偶然に発見したかもしれませんけど、その可能性は限りなく低いです。やはりいつでもどこでも気軽に検索可能なスマートフォンという文明の利器があったが故に、出会ってしまった最悪な例ですな。便利というのも、それは逆に言えば、その便利さを利用した悪に出会う可能性もある、ということを実感しました。

 そんで、その新たに発見したブログというのは、日本人の血が半分入っているという、フランス人の白人の口髭を生やした会社経営のおじさんが、日本人の若者を金銭的に支援します!という内容のブログでした。まんま、青山考明のブログと一緒でした。でも、その白人の男の写真をいくら眺めても、どう見ても日本人の血が半分入っているようには見えませんでした。100%、白人のおじさんにしか見えませんでした。

 それで、白人のおじさんの写真付きで、色々と記事が載っていますけど。どうやら、その白人の写真は、外国のサイトだか、国内のサイトだか不明ですが、どこかから盗んで来た写真のようでした。その白人のおじさんが日本人と一緒になってワインを飲んでいるような写真があり、その記事には「支援した日本人の方と交流しました」みたいに書かれていたのですけど、よくよく見れば、全く別の意図で撮影されたような写真でした。要は、勝手に詐欺師が、他人のサイトから写真を拝借して、その架空の、フランス人と日本人のハーフのおじさんとして仕立てあげて、掲載していたのでした。しかし、後に書かれる青山考明のブログに比べれば、ところどころに稚拙さ、構成の甘さが見て取れました。後に制作された青山考明のブログは、もっと洗練された詐欺度でしたから。一番初めの私も、こっちの白人のおじさんの支援者のブログを最初に発見しておれば、途中で気付いて騙されることもなかったように思いました。まあ、一回目よりも、二回目の方が洗練される、というのは、私の自殺防止サイトにも言えることですけどね。

 だから、今から思えば、青山考明のブログにも、青山らしき人物は極力写っておりませんでした。それは、あらゆる記事において、そのものズバリに適合した都合の良い構成の写真をネットから毎回盗んで来れないから、でしょうね。一枚だけ、[フランス料理店の開店資金を援助しました!]という記事のところに、60歳位の日本人男性と、若いシェフと、シェフの奥さんらしき人物が写った写真が貼られておりましたが、それも、どこかから流用した写真なのです。もうね、本当にバカでした。

 それで、もう元気がなくなってしまい、二回目はせずに、別れました。私の方は私の方で、借金があるにも関わらず、毎度毎度、性欲に負けて、一回で数万円を失ってばかりいたのでした。

 それで、青山の話に戻りますけど、その事件があったので、もうコイツは絶対に詐欺師だ!と100%確信したので、青山に対する淡い期待感は完全に消滅しました。それよりも以前であっても、もう数か月前から、コイツはどうせ偽物だろうな・・・と感付いておったのですけど、やはり心のどこかで、甘い話を信じたいという弱い心が、青山を信じる気持ちへと作動させていたのでした。

 まあ、最初に騙された15万円以外の金銭は、さすがに搾り取られませんでした。ただ、私のことを、ありもしない詐欺話でもって翻弄した結果、齋藤健一の人生の七か月程度を、おちょくられて、時間を無駄にしました。本気で、イギリスとかに留学出来ると思っていたので・・・。まあ、半分程度は、どうせ嘘だろうな・・・とは思っておりましたけど、やはり心が弱いので、ありもしない甘い話を信じておったのでした。その結果、この日本社会でしっかりと生きる、ということが、疎かになってしまいました。

 青山に激しい怒りを覚えるのは、15万円を奪い取ったというのみならず、その後も、有もしない話でもって、人の人生をおちょくった、翻弄したからです。もしも15万円振り込んだ後に、「バ~カ!テメエは本当にバカだなぁ、二千万円だぁ?そんな金、振り込む訳ねえだろ、ボケ!」くらい、俺をコケにしたメールを寄越してくれていれば、私も気持ちが吹っ切れて、継続して福島で頑張る気持ちに切り替えられたか、或いは、神奈川に帰ってからも、一念発起して頑張る気持ちにもなったのでしょうけど。まあ、言い訳と捉えられても仕方がないのですが、事実、このような心理的変遷を辿った訳ですから、この通りなのです。

 なんで、余分に騙し続けたのか・・・。ハァ、別に余計に金を振り込んだ訳でもなかったのにな・・・・。コイツの悪質なところは、ダラダラと人を騙し続けたことだ。15万円騙した時点で、キッパリと俺を騙すことから手を引いて頂きたかったよ。マジでムカつく!青山考明を名乗っておった詐欺師の人物に、天罰が下りますように!

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