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カテゴリ:★『アラン・カルデック』 > 死後の世界の実態と、その法則・カルデック

どのような時代においても、人間は、「地上でなした善と悪に応じて、死後に、幸福、または不幸になるはずだ」ということを、直観的に理解してきた。
 ただし、その理解がどれほど明確なものであるかは、その時点における人間の徳性の発達の程度と関連していたし、善と悪に対する認識の深さともかかわっていた。死後の裁きと報いに対する考え方は、その人間を支配している本能的な考え方を反映するのである。
 例えば、戦闘的な民族であれば、「勇敢さに対して最も高い報いが与えられる」と考えた。狩猟民族であれば、「どれほど獲物を獲ったかによって死後の処遇が決まる」と考えた。官能を大事にする民族であれば、「天国とは、官能的な無上の喜びが与えられる世界である」と考えただろう。
 人間が物質に支配されている間は、霊性に関しては充分に理解できないはずである。だから、その場合には、天国の喜びも地獄の苦しみも、霊的というよりは物質的なレベルのものとならざるを得ない。天国に行っても飲み食いをすることになるだろう(ただし、地上よりも、はるかに美味しいものである)。
 その後、死後の様子は、霊的な要素と物質的な要素が入り混じったものとなる。例えば、「天国には、至福に満たされた霊的な時間を過ごす人々がいる一方で、地獄には、物理的な責め苦を受ける人々がいる」といった具合である。
 目で見えるものしか信じられない時代にあっては、人々は、当然のことながら、死後の世界を地上そっくりなものとして思い描いた。目の前に見える世界とは異なった世界のことが思い描けるようになるためには、時間とともに人間の知的能力が大幅に拡大する必要があったのである。
 したがって、まだ知的な進化が充分でなかった頃の地獄とは、人間が地上で体験し得る苦痛の程度を強化したものにすぎなかった。地上に見られる、あらゆる拷問、責め苦、体罰、苦痛などが、地獄にもあるとされた。
 例えば、灼熱の地に住む人々であれば、地獄は灼熱地獄となるであろう。また、極寒の地に住む人々にとって親しい地獄とは、当然ながら、寒冷地獄であろう。
 霊界の実態がいかなるものであるかが、よく分かっていなかったので、地獄の責め苦といえば、物理的なものを思い浮かべざるを得なかったのである。
 だから、多少の細部の違いを別とすれば、あらゆる宗教の地獄はよく似ている。

死後の刑罰に関する霊実在論の考え方はー勿論、死後の刑罰に関する考え方だけに限ったわけではないがー、一切の固定観念から自由である。
 それは、単なる理論ではなくて、厳然たる事実の観察に基づいている。だからこそ、権威があるのだ。
 これまで、一体誰が、死後の魂の行く先を知り得ただろうか。
 今日、我々に、死後の生命の神秘を告げにやってきているのは、まさしく地上を去った魂達なのである。彼らは、現在の幸福な境涯について、また、不幸な境涯について語り、肉体の死に際しての種々の印象、そして、その後の変容について語ってくれた。
 一言で言えば、キリストが充分語らなかった部分を補ってくれたのである。
 語ったのが単一の霊であったとすれば、その視点、観点に偏りがある可能性もある。その霊が、まだ地上時代の偏見から自由ではないということも考えられる。
 メッセージを受け取ったのが、たった一人の人間だったとすれば、その人間が情報を歪曲しているという可能性も考えられる。メッセージを受け取った人間が、恍惚(こうこつ)状態にあったのだとしたら、その情報は、想像力によって誇張されている可能性もあるだろう。
 しかし、霊界から受け取ったメッセージは、実に多岐にわたっており、膨大な量にのぼっているのである。
 メッセージを送ってきたのは、最も低い境涯にいる霊から、最も高い境涯にいる霊まで、あらゆる種類の霊達であった。また、それを受け取ったのも、世界中に散らばる、あらゆる種類の霊媒達だったのである。
 メッセージは、一人の人間に独占されているわけではなく、一般に公開されているのだから、誰でも、直接、自分の目で見て、読んで、確かめることが出来る。

したがって霊実在論は、勝手に以下の法律をつくり上げたのではない。死後の魂のあり方を示す法則集は、確固たる事実から導きだされたものである。
第一条 魂、ないし霊は、地上における肉体生活を通じて克服できなかった未熟さを、すべて、霊界においても引き受けなければならない。
 霊界において幸福になるか 不幸になるかは、地上生活を通して、どれだけ心の浄化を果たしたかによって決まる。
第二条 完全な幸福は、心を完全に浄化したときに与えられる。未熟さが残っている限りは、苦悩から脱却することは出来ず、喜びは制限される。
 逆に言えば、悟りが高まる程、喜びが深まり、苦悩から自由になるのである。
第三条  たった一つの欠点から不幸が生じるのではなく、また、たった一つの長所から喜びが生まれるのではない。
 苦しみの総量は、欠点の総量に見合っており、喜びの総量は、長所の総量に見合っている のである。
 例えば、十の欠点を持っている魂は、三つの欠点を持っている魂よりも苦しみが大きい。十の欠点のうち、半分を克服すれば、苦しみも、それだけ少なくなり、欠点をすべて克服すれば、苦しみは全くなくなって、完全な幸福を得ることが出来る。
 丁度、地上において、病気を何種類も持っている人間が、一種類しか病気を持っていない人よりも苦しむのと同じことである。
 また、十の長所を持っている魂は、三つの長所しか持っていない魂よりも多くの喜びを得ることが出来る。
第四条 魂は、進歩の法則に基づき、意志に基づいて努力しさえすれば、自らに欠けている長所を獲得し、既に持っている欠点を取り去ることが出来る。 
 
つまり、どの魂に対しても、未来は開かれているのである。
 神は、自らの子供を見放すことはない。魂が完成に近づけば近づく程、より大きな幸福を与える。魂自らがあげた成果を、すべて魂自身に還元するのである。
第五条 苦悩は未熟さから生じ、幸福は成熟から生まれるものである以上、魂は、どこに行こうとも、自分を処罰する原因を自らの内に持つ。 罰を与えるための特定の場所は必要ないのである。
 したがって、 地獄とは、魂が苦しんでいる、その場所にあると言える。
 それは、天国が、幸福な魂がいるところに存在するというのと同じである。
第六条  人間がなす善、または悪は、自らの内にある長所、または欠点の産物である。なし得る善を行わないというのは、したがって、未熟さの結果である。
 未熟さが苦しみの原因である以上、霊は、地上において、なした悪によって苦しむだけでなく、なし得たにもかかわらず、なさなかった善によっても苦しむ。 
第七条 霊は、自分のなした悪がどのような結果を招いたかまで、つぶさに見せられる
ので、反省が進み、更生への意欲が高まらざるを得ない。
第八条 正義は無限である。すなわち、善と悪は、すべて厳正に評価される。
 
それが、どんなに小さなものであれ、たった一つの悪しき行為、たった一つの悪しき思いでさえ、見逃されることはなく、それが、どんなにささやかなものであれ、たった一つのよい行為、たった一つのよき思いでさえ、評価されないことはない。
 どのような邪悪な 人間であれ、それが、どんなに些細なものであれ、善をなせば、それは必ず評価される。その瞬間こそ、向上への第一歩だからである。
第九条  あらゆる過ち、あらゆる悪は、債務となり、必ず、それを償わなければならない。ある転生で、それが返済されなかった場合には、それは、次の転生に持ち越される。そこでも償われなければ、さらに次の転生に持ち越される。
 というのも、すべての転生は関連しているからである。
 もし、今の転生で弁済した場合には、二度と支払う必要はない。
第十条  霊は、霊界においても、物質界においても、自らの未熟さに由来する苦しみを引き受けなければならない。
 物質界で引き受ける、あらゆる悲惨、あらゆる不幸は、 我々の未熟さの結果、すなわち、今世、あるいは、それ以前の転生でなした過ちの償いである。
 
したがって、地上で経験している苦悩、不幸の性質を分析してみれば、自分が、今世、あるいは過去世でなした過ちの性質が分かるし、その過ちの原因となった自分の欠点の性質も分かるはずである。
第十一条 償いは、侵した過ちの重さと性質によって、それぞれ異なる。
 
したがって、同じ程度の重さの過ちであっても、それが犯された状況に応じて、軽減されたり加重されたりする。
第十二条 償いの種類と期間に関しては、絶対的な、あるいは画一的な決まりがあるわけではない。
 唯一の普遍的 な決まりは、「それが、どのように評価されるかに応じて、過ちは罰を受け、善行は報いを受ける」ということである。
第十三条  罰の期間は、罰を受けている霊が、どれほど向上したかに応じて変化する。前もって期間が限定された罰というものは存在しない。 
 
霊が深く反省した上で向上を果たし、善の道に戻ったとき、神が、その罰に終止符を打つのである。
 そのようにして、霊は常に自分の運命を自分で決めることが出来る。かたくなに悪に留まり続けることで、苦しみを長引かせることも可能だし、努力して善をなすことによって、苦しみを和らげ、その期間を短縮することも可能なのである。
 期間があらかじめ決められている処罰は、次の二点で不都合をはらんでいる。
 まず、既に向上を果たした霊をそのまま罰し続ける可能性がある。次に、まだ悪から脱していない霊を解放する可能性がある。
 神は正義であるから、悪を、それが存在し続ける限りにおいて罰するのである。
 言葉を 換えて言えば、悪は、結局は心の問題であり、それ自体が苦しみの原因となるから、悪が存在するかぎり、苦しみも続くというわけである。心の中の悪が無くなるに応じて、苦しみもまた軽くなる。
第十四条  罰の期間は向上のいかんに関わっている。
 したがって、罪を犯した霊が向上しないかぎり、苦しみは続く。 それは、その霊にとっては永遠に続くように思われるだろう。
第十五条 反省しない霊は、 苦しみがいつ終わるか、まったく分からないので、それが、あたかも永遠に続くかのように感じる。
 そのために、「永劫の刑罰を受けている」と思う のである。
第十六条 悔悟が向上への第一歩である。
 しかし、それだけでは不充分であって、さらに、償いが必要となる。
 悔悟と償いによって初めて、過ちと、その結果を消し去ることが可能となる。 
 
悔悟によって希望が生まれ、再起への道が開かれるので、悔悟は償いの苦しさを和らげることになる。
 しかし、償いを行って初めて、罪の原因が消滅し、したがって、その結果である罪も消えるのである。
第十七条 悔悟は、いつでも、どこでも生じ得る。悔悟が遅れれば、それだけ苦しみは長引く。
 償いとは 、肉体的、精神的な苦痛のことであり、犯された過ちに付随する結果である。この世で始まることもあり、死んでから霊界で行われることもあり、あるいは、次の物質界への転生の際に行われることもある。過ちの痕跡が消滅するまで続くのである。
 償いとは、自分の悪事の対象となった人に対して善を行うことである。 
 
自らの弱さ、あるいは、意志の欠如によって、今世中に過ちの償いが出来なかった者は、今後の転生において、自らが選んだ条件のもとに、その人と出会うことになる。そして、自分が犯した悪に見合う善を、その人に対して行う必要があるのである。
 あらゆる過ちが、直接、目に見える犠牲を引き起こすとは限らない。その場合には、次のようにすれば償いが完了する。
 なすべきであったにもかかわらず、なさなかったことをなす。 怠った、あるいは無視した義務を果たし、成し遂げられなかった使命を完了させる。
 また、既になした悪に見合う善を行う。 つまり、傲慢であった者は謙虚になり、冷酷だった者は優しくなり、エゴイストだった者は思いやりを持ち、悪意に満ちていた者は善意の人となり、怠け者だった者は勤勉となり、無用だった者は有用な人間となり、放蕩(ほうとう)を行った者は態度を取り戻し、悪しき見本だった者はよき見本となる。そういうことである。
 こうすることによって、霊は、過去を有効に利用することが出来るのである。
第十八条  悪霊となった者は、幸福な世界から排除される。そうしないと、幸福な世界の調和を乱すからである。
 彼らは、下位の世界に留まり、辛酸をなめつつ、償いを果たす。そうして、徐々に未熟さから脱していくのである。
 その結果、優れた世界に移動していくことが可能となる。
第十九条  霊には、常に自由意思があるので、向上は、時には遅く、また、いつまでも悪を改めない者もいる。何年も、何十年も、さらには、何世紀も悪に留まる者がいる。しかし、その空威張りにもかかわらず、最後には、苦しみに屈服し、神に反抗することをやめ、至上者の権能を認めざるを得なくなる。悔悟の最初の光が心に射し始めるや、神は、それに応じて希望をかいま見させるのである。
 いかなる霊といえども、「向上の可能性が一切ない」という状況に追い込まれることはない。だが、自らの自由意志を行使して、霊自身が、進んで、永遠に劣った状態に身を置き、あらゆる被造物に適応される、神聖なる進化の法則から逃れ続けることは、可能である。
第十二条 霊がどれほど未熟であろうと、邪悪であろうと、神が霊を見捨てることはない。どの霊にも守護霊が付いており、その心境の変化をうかがい、彼らの内に、よき思い、向上への欲求、犯してしまった悪を償おうとする気持ちを起こさせようとして、働きかけている。
 一方では、指導霊が、決して強制することなく、本人に知られないかたちで働きかけている。
霊は、外部から何らかのかたちで強制されるのではなく、自分自身の意志で向上していかねばならないからである。自由意志を発揮して、よい方向にも悪い方向にも進めるが、「どちらかの方向に、強制的に追いやられて、引き返すことが出来なくなる」ということはない。
 悪をなした場合、悪の道に留まり続ける限り、その結果としての苦しみを引き受け続けざるを得ない。
 善に向かって一歩でも歩みを開始すれば、ただちに、その成果は表れ始める。
第二十一条  各自が責任を負うのは、自分が犯した過ちに対してのみである。何人(なんびと)といえども、他者の罰を引き受けることはない。
 ただし、自らが悪の手本となり、他者にも悪を犯させた場合、また、悪の発生を防ぐことが可能であったにも関わらず、それを行わなかった場合は別である。
 また、自殺は常に罰せられる。 
 冷酷さによって他者を絶望に追いやり、その結果、自殺せしめた者は、自殺した者よりも重い罰を受ける。
第二十二条  罰の種類は無限にあるが、未熟な魂に対する罰は、ある程度、決まっている。ニュアンスの違いは多少あるが、結果的には大体同じである。
 霊的進化を怠り、物質に執着した者に対する罰は、まず、「魂と肉体の分離がなかなか行われない」ということである。死の苦しみが続き、霊界への移行が困難となる。その混乱の期間は、場合によっては、数ヶ月、数年に及ぶこともある。
 それとは逆に、意識の進化が進んでいる者は、生前から既に霊的生活を送って物質から解放されているために、肉体と魂の分離は動揺もなく急速に行われ、霊界への穏やかな目覚めを得ることが出来る。この場合、混乱はほとんど見られない。
第二十三条 精神的に未熟な霊は、死んだのにも関わらず、自分がまだ生きていると思うことが多い。
 
この錯覚は、数年にわたって続くこともあり、その間中、彼は、地上生活における、あらゆる欲望、あらゆる苦悩、あらゆる不都合を感じ続ける。
第二十四条 犯罪者は、自分の犯罪の犠牲者、犯罪が行われた時の様子を、繰り返し再現して見せられる。これは実に辛いものである。
第二十五条 ある者達は、漆黒の闇の中に放置される。ある者達は、絶対的な孤立の中に置かれる。自分がどこにいて、この先どうなるのかが、まったく分からないのである。
 最も 重大な罪を犯した者達は、最も厳しい拷問を経験するが、いつ終わるか分からないだけに、それは本当に耐え難いものとなる。
 大多数は、親しかった者達に会うことを禁じられる。
 原則として、全員が、犠牲者が味わったのと同じ痛み、苦悩、欠乏を経験させられる。やがて、 悔悟ならびに償いへの欲求が生じると、苦痛は和らぎ始め、そうした苦しい状況に、自分自身で終止符を打てるという可能性が見えてくる。
第二十六条 傲慢に暮らしていた者は、自分が地上にいた時に軽蔑していた者達が、栄光に包まれ、人々に囲まれ、賞賛されて、はるかな高みにいるのを見る。自分は最下層に落とされている のに、である。
 偽善者は、光に貫かれて、心の奥に秘めていた考えを全員に暴露される。逃げも 隠れも出来ないのである。
 官能に溺れていた者は、あらゆる誘惑、あらゆる欲望にさらされるが、決して満足を得ることが出来ない。
 守銭奴だった者は、自分の金がどんどん他人によって使われるのを見るが、それを防ぐすべはない。
 エゴイストだった者は、全員に見捨てられる ことによって、かつて自分が他者に与えていた苦しみを経験するのである。喉が渇いても、誰も水をくれない。腹が空いても、誰も食べ物をくれない。誰も手を差し伸べてくれず、誰も慰めの声をかけてくれない。
 彼は、生前、自分のことしか考えなかったので、彼が死んでも、誰も彼のことを思ってくれないし、誰も悲しんでくれないのである。
第二十七条  死後、自らの過ちの結果としての罪を避けたり、あるいは軽減したりするには、生きている間に、出来るだけ、それを解消しておく必要がある。
 そのためには、充分な反省を経て、その悪事を償うことである。そうすれば、死後に、もっと恐ろしいやり方で償うことを免除される。
 過ちを解消する時期が遅れれば遅れる程、その帰結は、より苦痛に満ちたものとなり、果たすべき償いは、より厳しいものとなる。
第二十八条 死後の霊の境涯は、生前の心境に正確に対応したものとなる。
 やがて、新たな転生輪廻の機会を与えられるが、それは、新たな試練を通して償いを果たすためである。
 
だが、それも、すべて彼の自由意志に任されているため、もし、その機会を充分に生かさなかったとしたら、さらに、次の転生で、今度は、もっと厳しい条件のもとに再度チャレンジすることになる。
 したがって、 地上生活を通じて、多くの苦しみを経験している者は、「それだけ、自分には償うべき過去の過ちがある」と自覚することが大切である。
 また、悪徳を重ね、社会に役立つことをしていないにもかかわらず、表向きは幸福を享受しているように見える人間がいるとすれば、次の転生で高く支払わされることを覚悟しなくてはなるまい。
 そうした意味も込めて、イエスは次のように言ったのである。
 「苦しむ者は幸いである。彼らは慰めを得るであろう」
第二十九条 神の慈悲は無限である。だが、神は一方で極めて厳格でもある。
 神が罪人を許すということは、罪を免除するということではない。罪人は、その罪を償わない限り、過ちの帰結を引き受けざるを得ない。
 神の慈悲が無限であるとは、「神が、善に戻ろうとする罪人に対して常に扉を開いて待っていてくださる」という意味であり、「本当に悔い改めた者は必ず許してくださる」という意味なのである。
第三十条  罰は一時的なものであり、自由意志に基づく悔悟と償いによって解消されるが、それは、罰であると同時に、また、悪を犯すことによって傷ついた心を癒すための治療でもある。
 
したがって、罰を受けている霊は、徒刑を科せられた罪人というよりも、むしろ、病院に収容されている病人と見るべきなのである。
 この病人達は、自らの過ちの結果である病気に苦しみ、また、それを治すための辛い処置も受けなければならないが、治る希望を失っているわけでは決してない。
 そして、思いやりを込めて 医者が書いてくれた処方箋に、忠実に従えば従う程、治る見込みは高くなるのである。
 処方箋に従わない場合、医者に出来ることは何もない。
第三十一条  霊は、地上に転生してくると、霊界で決意してきた解決手段を実行して、過去世で集積した悪を償おうとする。
 したがって、一見、存在理由がないように思われる、種々の悲惨や不遇などにも、本当は、それなりの、しっかりした理由がある ということを知らなければならない。それらは過去の悪行の帰結であって、我々が進化するためには必要不可欠なのである。
第三十二条  「神が、人間を、決して間違いを犯さないように完璧に創ってくだされば、人間は、未熟さに由来する不幸を経験しなくても済んだのに」と思う人もいるかもしれない。神が、知識においても精神性においても完璧な人間を創ろうと思えば、当然、そうできたはずである。だが、そうはなさらなかった。というのも、叡智に満ちた神は、進化の法則にすべてを委ねることを選ばれたからである。
 人間が不完全であり、したがって、程度の差はあれ、必ず不幸に見舞われるということは事実であって、認めざるを得ない。既に、そうなっているからである。
 そのことをもって、神が善でもなく公正でもないと考えるとすれば、それは神への反逆となるだろう。
 例えば、もし、あらかじめ神から特権を与えられており、他の人間が苦労しなければ手に入れられない幸福、あるいは、他の人間がどんな苦労をしても決して手に入れられない幸福を、何の努力もなしに与えられるような人間がいるとすれば、それは、神が公正さを欠くということにもなるだろう。
しかし、霊は絶対的な公平さのもとに創られたのである。あらゆる霊は同じように創られた。最初に創られたとき、その能力には差がまったくなかった。例外的な扱いを受けた霊はただの一人も存在しなかったのである。
 目的に達した霊は、必ず、他の霊と同様に、未熟な状態から試練の段階を経て徐々に向上していった霊なのである。
 以上のように考えてみれば、行動の自由が全員に与えられていることになり、これ以上、公平なことはない。
 幸福への道は全員に開かれているのである。
 
目的も、全員同じである。目的に達するための条件も、全員同じである。そして、そのための決まりも、全員の意識の中に、しっかりと刻み込まれている。
 神は、努力の結果として、 全員に公平に幸福を与えてくださるのであって、特別措置によって、限られた者だけ幸福を与えるわけではない。
 各人は、努力することにおいて、また、努力しないことにおいて自由である。
 一生懸命、努力する者は、早く報いられる。途中で迷ったり、道草を食ったりする者は、当然、目的地に着くのが遅くなる。
 
しかし、それも、すべて自分の責任である。
  善を行うのも、悪を行うのも、各人の自由に任されている。まったく自由であって、どちらかの方向に強制的に向かわせられるということはない。
第三十三条  未熟な霊を待ち受ける苦しみは、その種類も程度も様々であるが、死後の運命を決める規則は、次の三つの原理に要約される。
 1 苦しみは未熟さから生じる。
 2  あらゆる未熟さ、そして、それに由来する、あらゆる過ちは、それ自体に罰を内包している。不摂生をすれば病気になるように、また、無為が必ず退屈につながるように、未熟さは、必然的に、過ち、そして罰という帰結を生み出す。したがって、それぞれの過ち、また、個人ごとに、特別の罰を考え出す必要はない。
 3 人間は、誰でも、意志の力によって、その未熟さから脱することができ、したがって、未熟さの当然の帰結としての悪を免れることが出来る。そして、そのことによって幸福になれるということが保証されている。
 以上が、 神の正義による法である。
 すなわち、霊界においても、地上においても、各人の努力に応じた結果が与えられるということである。

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