野心の彼方に、ありとあらゆる人間的利己心の彼方に、もがき争い、飽くことを知らない欲望の彼方に、愛または情愛という、同じ霊系に属する魂を引き寄せる無形の絆が存在する。
 愛は死よりも強く、失望を克服し、有限の世界のありとあらゆる存在のどれ一つとして征服出来ないものはない。愛はまさに宇宙根本原理の一つと見なしてよく、未来永劫、各自が存在し続ける限り織り込まれていく『宿縁の背後の力』である。
 死はその終焉の孤独な姿ゆえに普通人には恐怖として映る。が、真相を知ればその恐怖が杞憂に過ぎないことが分かる。宿縁の人々、つまり情愛によって結ばれた人々と永遠に別れるという哀しみは、何の根拠もない杞憂なのである。と言うのは、死後いずこへ行こうと宿縁の型の中にいる点においては生前と少しも変わらず、一時の忘却がいかに深かろうと、その後の体験がいかに多岐にわたろうと、地上生活で同じ宿縁の型に織り込まれた人々、深く愛した人々ーその中には道ならぬ恋もあれば最後は憎悪と変わったものもあったかも知れないがーそういう人々と再び相見えることになっているからである。
 人間は原始的である程、その愛は全身全霊的では有り得ないものである。献身的な愛こそ向上の第一義であることを理解するまでに霊性が発達していないということである。愛の中にこそ永遠の生命の種子が宿されているとの理解が出来ないのである。
 そうした原始的な魂は、これから宿縁の型をこしらえて行くというその当初において、しばしば憎悪、強烈な怨恨のとりことなり、死後第三界へ行ってからもその憎悪を拭い切れずに地上圏へと引き戻され、事情次第では地上へ再生することにもなる。そして首尾よくいけば第一の霊的摂理、すなわち愛の摂理を学ぶことになる。
 愛の摂理を悟った者は最早死を恐れる必要はない。何となれば、いつ自分が地上界を後にしても、自分と宿縁のある他の誰かがそれをすぐ察知して、死後に始まる生命の大冒険の先達となってくれることを知るからである。
 それゆえ死を友と思うがよい。救済者と呼んでもよかろう。何となれば、地上的な愛の全てに付きまとう闇と汚れは死と共に消滅するからである。