続いて紹介するのは、実際に死を体験して霊界入りした者が、その体験を霊媒を通じて報告してきた、いわゆる霊界通信である。霊媒はロングリー夫人で、通信霊はジョン・ピアポント。ロングリー夫人の指導霊である。

 自ら死を体験し、また何十人もの人間の死の現場に臨んで実地に観察した者として、更にまたその「死」の問題について数えきれない程先輩霊の証言を聞いてきた者として、通信者である私は、「肉体から離れて行く時の感じはどんなものか」という重大な質問に答える充分な資格があると信じる。いよいよ死期が近づいた人間が断末魔の発作に見舞われるのを目の当たりにして、さぞ痛かろう、さぞ苦しかろうと思われるかも知れないが、霊そのものはむしろ平静で落ち着き、身体は楽な感じを覚えているものである。勿論例外はある。が、永年病床にあって他界する場合、或は老衰によって他界する場合、その他大抵の場合は、その死に至るまでに肉体的な機能を使い果たしている為に、大した苦痛を感じることなく、同時に霊そのものも恐怖心や苦痛をある程度超越するまでに進化を遂げているものである。
 苦悩に打ちひしがれ、精神的暗黒の中で死を迎えた人でも、その死の過程の間だけは苦悩も、そして自分が死につつある事実も意識しないものである。断末魔の苦しみの中で、未知の世界へ落ち行く恐怖におののきながら「助けてくれ!」と叫びつつ息を引き取っていくシーン。あれはドラマとフィクションの世界だけの話である。(中略)
 中には自分が死につつあることを意識する人もいるかも知れない。が、たとえ意識しても、一般的に言ってそのことに無関心であって、恐れたり慌てたりすることはない。というのは、死の過程の中ではそうした感情が薄ぼんやりとしているからである。(中略)意識の中枢である霊的本性はむしろ喜びに満ち溢れ、苦痛も恐怖心も超越してしまっている。
 いずれにしても霊がすっかり肉体から離脱し、置かれた状態や環境を正常に意識するようになる頃には、早くも新しい世界での旅立ちを始めている。その旅が明るいものであるか暗いものであるかは人によって異なるが、いずれにしても物質界から霊界への単なる移行としての死は、本人の意識の中には既に無い。
 かつては地上の人間の一人であり、今は霊となった私、ジョン・ピアポント。かつては学生であり、教師であり、ユニテリアン派の牧師であり、そして永年自他共に認めたスピリチュアリストであった私が、霊界側から見た人生体験の価値ある証言の一環として、今「死」について地上の人々にお伝えしているのである。80年余にわたってピアポントという名のもとに肉体に宿っていた私は、その70年余りを深い思索に費やした。(中略)
 以前私は、自分が老いた身体から脱け出る時の感じをこの霊媒を通じて述べたが、その時の感じは喜びと無限の静けさであることをここで付け加えたい。家族の者は私があたかも深い眠りに落ちたような表情で冷たくなっているのを発見した。事実私は睡眠中に他界したのである。肉体と霊体を結ぶ磁気性のコードが既にやせ細っていた為に、霊体を肉体へ引き戻すことが出来なかったのである。が、その時私は無感覚だった訳でもなく、その場にいなかった訳でもない。私は直ぐ側にいて美しい死の過程を観察しながら、その感じを味わった。(中略)自分が住み慣れたアパートにいること、お気に入りの安楽椅子に静かに横たわっていること、そして、いよいよ死期が到来したということ、こうしたことがみな分かった。(中略)
 私の注意は、未だに私を肉体に繋いでいるコードに、しばし、引きつけられた。私自身は既に霊体の中にいた。脱け出た肉体にどこか似ている。が、肉体よりも強そうだし、軽くて若々しくて居心地がよい。が、細いコードは最早霊体を肉体へ引き戻す力を失ってしまっていた。私の目には光の紐のように見えた。私は、これは最早霊体の一部となるべきエーテル的要素だけになってしまったのだと直感した。そう見ているうちに、そのコードが急に活気を帯びてきたように見えた。というのは、それがキラメキを増し始め、奮い立つように私の方へ向けて脈打ち始めたのである。そして、その勢いでついに肉体から分離し、一つの光の玉のように丸く縮まって、やがて、既に私が宿っている霊体の中に吸い込まれてしまった。これで私の死の全課程が終了した。私は肉体という名の身体から永遠に解放されたのである。

 ピアポントは同じ書物の中で一女性の死の過程を記述しているが、霊体の離脱と形体がデービスの記述と酷似している。

 今肉体から脱け出るところである。銀色のコードが緩み始めた。物質的エネルギーが衰え始めたのである。そして霊体が新しい生活環境に備えて形成されていく。真珠色をした蒸気のようなものが肉体から出て薄い霧のように肉体を包み、上昇していき、その出方が激しくなってきた。すっかり形を整え、下に横たわっている婦人とそっくりとなってきた。いまや肉体と霊体とは糸のように細くなったコードで繋がっているだけである。肉体は、見た目には既に呼吸が止まっているかに見える。が、コードが繋がっている限り、まだ死の作業は終わっていない。やがてコードがぷっつりと切れた。そしてエーテル的要素となって霊体の中に吸収されていく。   (同前)

 ピーブルズの霊界通信の中に出てくる一霊魂は、自分の死の過程がすっかり終了するまでにおよそ一時間半かかったという。また、霊体が肉体(の頭部)から出る時は決して霊体が分解されるのではないという。彼は言う。

 他界後私は何十もの死の場面を観察してきたが、霊体は決して分解されて出て行くのではなく、全体が一つとなって頭部に集まり、徐々に出て行くことが分った。出てしまうと自由になるが、肉体から完全に独立するのは、両者を繋いでいる生命の糸が切れた時である。事故などによる急激な死の場合は、かなりの間その糸が切れない。

 ハドソン・タトルはその著『大自然の秘密』の中で、自分が入神状態で観察した死の過程を次のように述べている。

 霊体が徐々に手足から引っ込んで頭部に集結してきた。そう見ているうちに頭のテッペンから後光が現れ、それが次第に鮮明に、そして形がくっきりとしてきた。今脱け出た肉体とそっくりの形をしている。そしてその位置が少しずつ上昇して、ついに横たわっている肉体の側に美しい霊姿を直立させた。一本の細いコードが両者の間に繋がっている。それも次第に萎縮していき、二、三分後には霊体の中へ吸収されていった。これで霊魂は永遠に肉体を去ったのである。

 以上が霊能者ならびに実際に体験した霊魂の観察した死の真相である。読んでお分かりの通り、極めて合理的であり、成る程と思わせるものがある。どの観察記録も完全に一致しており、我々が見る臨終における様子とも一致している。スピリチュアリズムの説く「死」はあくまで自然で、科学的事実とも合致しており、我々はそれが真実であって欲しいと願いたい。というのは、スピリチュアリズムの説く「死」は至って安らかであり、かつて言われてきた死にまつわる恐怖というものを完全に拭い去ってくれるからである。しかもスピリチュアリズムによれば、死はより幸せな、より高い世界への門出である。したがって死の結果の観点からすれば、或は、又、死への準備の出来上がっている者にとっては、死は恐ろしいものではないどころか、むしろ望ましいものでさえある。デービスは「死の哲学」の章のところで、最後にこう述べている。

 私が読者に訴えたいのは、老化による純粋な自然現象による死には何一つ恐れるものはなく、むしろ素晴らしいことばかりだということである。言ってみれば、死は、地上より遥かに素晴らしい景色と調和のとれた社会へ案内してくれる素晴らしい案内者である。地上から一個の人間が去ったからといって、ただそれだけで嘆き悲しむのは止めよう。見た目(肉眼)には冷たく陰気でも、霊眼で見れば、肉体を離れた霊はバラ色の輝きに包まれながら旅立つのである。悟れる者、常に永遠の真理と共に生きる者には『死もなく、悲しみもなく、泣くこともない』のである。
 死期を迎えた者が横たわる部屋を静寂が支配するのは致し方あるまい。が、ついに霊魂が去り肉体が屍となったならば、その時こそ静かに喜び、優しく歌い、心から祝福しよう。何となれば、地上で肉体が滅びる時は、天国に霊魂が誕生する時だからである。