1860年10月、パリ霊実在主義協会において、ジョルジュという霊からメッセージが伝えられた。その中で、ジョルジュは、「罪のある者が霊界に還った場合、一般的にどうなるか」ということを報告している。

「意地悪な人間達、エゴイスティックで冷酷な人間達は、死ぬとすぐに、現在の状況、そして未来の運命に関して、凄まじい疑念に苛まれている。
 彼らは周りを見回すが、まず最初は、意地悪をするいかなる対象も見つけられない 為に、絶望の念に囚われる。というのも、悪霊にとっては、虐める対象を欠いた孤立と無為の状態は耐えがたいものだからである。
 一方で、彼らは、浄化された霊達が住む領域に視線を向けることが出来ない。
 周囲をじっくり眺めると、やがて、罰を受けている弱々しい霊達が見えてくる。やっと獲物を見つけたとばかり、彼らはその霊達に襲いかかる。
 しかし、そんなことでは彼らの心は治まらない。そこで、飢えた禿鷹のように、地上に這いずり出てくるのである。人間達の中から、御し易そうな者を見つけ、憑依し、煩悩を掻き立て、神への信仰を弱め、完全に支配出来るようになった時に、この者に接触してくる人間達全員に対し、悪しき影響をふるい始めるのである。
 こうした状態にある時、悪霊は殆ど幸福を感じていると言ってよい。彼らが苦しみを感じるのは、何もせずにいる時、或は、善が悪に勝っている時だけだからである。
 だが、そうしているうちにも時間は経っていく。そしてある時、悪霊は、突然、闇に取り囲まれるのを感じる。そして行動範囲が狭まる。それまで麻痺していた良心が少しずつ目覚め、痛みと共に悔悟の気持ちが湧いてくる。じっとうなだれていると、渦巻きに運び去られ、聖書に書かれているように、恐怖のあまり身体中の毛が逆立つのを感じながら、彼は放浪を始める。
 やがて、内部に、そして周囲にも、とてつもない空虚が生じる。ついに贖罪の時期がやってくる。
 こうして、再び地上に生まれ変わることになる。地上で自分を待っている恐るべき試練が、蜃気楼のように視界に入る。退こうとするが、前進せざるを得ない。ぱっくりと口を開いた深淵に吸い込まれ、転げ落ちていくと、やがてヴェールが目の上にかかるのが感じられる。記憶が消されるのだ。
 再び地上に生まれ、成長し、行動し、そして、また罪を犯す。『そうしてはならない』という、微かな記憶があるような気もするし、『こんなことをしたら大変なことになる』とも思うのだが、どうしても悪の道に入っていってしまう。
 やがて悪にまみれ、力尽きて、死を迎える。祖末なベッドに横たわり、じっとしていると、忘れていた霊的な感覚が甦ってくる。目は閉じられているが、彼は一条の光を見、聞いたことのない音を聞く。手が痙攣して敷布にしがみつく一方で、魂は早く肉体から離脱しようと焦る。
 周りを囲む人々に向かって叫ぼうとする。
 『引き止めてくれ!押さえてくれ!嫌だ、行きたくない!処罰が俺を待ち構えている!』
 だが、叫ぶことは出来ない。
 やがて、唇が青ざめ、死が訪れる。すると、周囲にいる人々が言う。
 『ああ、やっと逝ってくれたか』
 彼には、それが全て聞こえる。肉体から離れたくないので、その周りに漂っている。
 だが、何かの力に引っ張られて、否応なくそちらに引き寄せられる。そして、かつて見たことのある風景をまた見るのである。我を忘れて空間に躍り込み、隠れられる場所を探す。だが、もう逃げも隠れも出来ない。休むことも出来ない。他の霊達が、彼がなした悪と同じ悪を彼に対して行うからである。
 こうして、彼を懲らしめ、あざ笑う。彼は恥じ入って逃げ惑う。
 いつまでも逃げ惑っていると、やがて、頑な心に神聖な光が差し込み始め、あらゆる悪に勝利する神の姿が見えてくる。その神のお心に適うには、懺悔をし、償いをする以外にない」

 意地の悪い人間の行く末に関して、これほど雄弁な、恐るべき、赤裸裸な説明は、かつてなされたことがないのではないか。こうした事実が示された以上、もはや地獄の業火や拷問という、伝統的なキリスト教がつくり出した幻影に頼る必要はないであろう。