初めの頃の訪問先は低級界が殆どで面白味のない世界だったが、それでも、いよいよ肉体に戻る前は必ずといってよいほど明るい境涯ないし界層へ連れていってくれた。これには理由があり、低級界の大気には執着性があってそれが不快な後遺症を生むことがあるからである。
 一つの界層へ到達すると私にはすぐにその界の本性が知れる。というのも、幽体は極めて鋭敏で、その界の住民の思念を直接的に感じ取ってしまうのである。低級界の場合はそれが吐き気を催すほどと表現する以外に言いようがないほどの不快感を覚える。地上で味わういかなる不愉快さもそれとは比較にならない。というのも、地上では様々な思念が一度に襲ってくることはないが、霊界ではその界の特殊な思念が一つにまとまって一度に迫ってくるのである。
 しかし、やむを得ずしばらく滞在する時は指導霊がその低級な波長を何らかの方法で中和してくれていた。幽界の殆どの下層界においては、私の幽体はそこの住民には見えていない。
 下層界は地上とそっくりである。都会あり、町あり、村ありで、いずれも地上の現在のその地域の写しであるように思える。幽体がその界層と同じ波長を整えれば、そこの存在物は全て地上と同じく固く感じられる。
 そうした地域性はその地域で他界した住民の精神の働きによって形成されるーだから見覚えのある環境となっているのだということを、何かの本で読んだことがあるが、それは事実のようである。同時に、精神というものは細かな点まで再現する写真的ともいうべき記憶性を有していることも事実である。
 一例をあげれば、ある町の通りに街灯を見かけたことがあるが、これなどは夜のない世界では不要のはずである。が、地上で見ていたその記憶が自動的に再現するのである。
 この無意識の創造力についてある時、霊界の教師と話をしていた時に『その衣服はどこで仕入れられましたか』と聞かれたので、私は真面目に受け止めて地上の洋服店の名前を思い出そうとしたが思い出せなかった。実はその先生はそんなことを聞いたのではなかった。
 その後で私の衣服を指差して『よく見てごらんなさい』と言われて改めて見ると、いつもの普段着を着ており、驚いたことに、チューブを強く押さえ過ぎて飛び散った歯磨きが全部取り切れずにシミになって残っているところまで再生されていた。
 下層界の住民は大なり小なり霊的真理について無知である。自分が死んだことに気づかない者すらいるほどである。生活環境が変わったことに薄々気づいてはいても、夢幻の境にいるようで、はっきりとした自覚はない。こうした種類の人間は地上時代そのままの常識を携えており、彼らにとって『霊』は相変わらず曖昧な存在である。環境が地上と少しも変わらないからである。
 これだけ体験と知識とを得た私ですら、霊界のどこかに到達した時は自覚がはっきりせず、まだ地上にいるような錯覚を抱いていることがある。そのうち前もって知識が表面に出てきて、やっとそこが霊界であることを認識する。
 見かけたところ大抵の住民が満足している様子である。体調はいいし疲れを感じることもないからである。が、知識欲も好奇心も持たない。どうやら向上心というものは内部から湧き出るしかないというのが法則であるらしい。いつかはその時期がくるであろうが、地上時代に染み込んだ観念がそのまま霊界生活となっている人が多く、習慣がそのまま持続されているのである。その為、下層界では地上と同じ仕事が見られるー道路工事、工場での仕事、橋の建設、等々。炭坑夫が例の運搬車に乗って機嫌良さそうに鼻歌を歌っているのを見かけたことがある。
 ある工場では溶接工が仕事をしているのを見物したことがある。火花といってもごく小さなもので、マスクもいらない程であるが、本人は大真面目で溶接しているつもりだった。見つめている私を見上げて『あんたもここで働いているのか?』と聞くので『いや、いや、ちょっと見物して回っているだけだ』と答えたことだった。
 霊の世界では思念が『具体化』するようである。それで『物』が存在するように思える。進化するとその一種の創造力が別の形で活用されることになる。有名な心霊学者のF・W・H・マイヤースが死後送ってきた通信『永遠の大道』の中でこの下層界のことを『夢幻界』と呼んでいるが、至言である。