霊界旅行は次から次へと不思議なことや奇妙なことが見られるのでさぞ興奮に満ちたものであるかのように想像する人が多いが、事実はけっしてそんなものではない。初めの頃は私の連れて行かれたところは低級な、或は未発達の境涯が多かった。そして今も述べたように、そこは地球にそっくりであり住民もそこを地球とばかり考えているので、そこでの生活は陳腐で退屈極まるものが多く見受けられるが、しかしそこから私は何かを学ばねばならなかったのである。
 そうした旅行を体験していると私は死後の世界について地上にいるうちに知っておく必要性をしばしば痛感させられる。例えば誰一人見当たらない学校の校庭の真ん中で二人の掃除婦がおしゃべりをしているのを側で聞いているのは不愉快極まるものである(私の姿は波長の違いで二人には見えない)。二人はもう一人の掃除婦が自分達が掃除することになっている校舎を掃除していることに対して、酷い口調で文句を言い合っているのである。
 そこは『夢幻界』である。子供の霊がそんな学校へ通うわけがないのである。が掃除婦達はその誰一人いない校舎が少しも変だとは思わないのである。
 私が覗いた工場は従業員でごった返しており、規律も流れ作業もない。みんなてんでに好きなこと得意なことをやっているようであり、また、同じことを何度でも繰り返し行っている。面白いのは、そうした記憶に焼き付いた仕事の思念がそのまま死後に持ち越されている一方で、『さぼる』習慣も持ち越されていることで、ベンチで大勢の者がたむろしているのを見かけた。見張りのいない工場はまさに労働者の天国であろう。
 クリスマスが近づいた頃に案内された工場では、子供のおもちゃに色を塗っているところだった。やはり幼い頃のお祭りの季節の記憶がそのまま死後に反映しているようだった。その工場の外には大きな運動場があり、その中央に大きくてがっしりとしたステージが組み立てられているところだった。一体何に使うのだろうと思っていると私の指導霊が静かな口調で『従業員の娯楽の為です』と教えてくれた。
 これまでに二度、霊界で『肉屋さん』を見たことがある。動物を屠殺することがありえないはずの世界でそんなものを見かけるのは、霊的知識をかじりかけた人には驚きであろうけど、これも純粋に記憶から生まれる思念の作用の結果であり、立派に実質があるように思えるのである。思念が全ての世界では地上の人間の常識を超えたことがいくらでもあるのである。
 肉屋の場合も、お客さんの要望にお応え出来る立派なお店を、という地上時代の強い願望が具現化しているだけである。私が見かけた二つの店は比較的小さいものだったが、店先にはちゃんと肉がぶら下げてあった。輝くような美しい赤味をした肉を見かけたが、それはさしずめ『極上』なのであろう。
 こうした夢幻界に何十年、何百年と暮らしている霊が多いということが不思議に思える方が多かろうと思うが、そういう霊を目覚めさせる為に交霊会を開いて招霊してみると、もう地上を去って霊界で生活している事実をいくら説いて聞かせても、断固として否定してかかるというケースがよくあるのである。スピリチュアリストがよく交霊会を開くのもその為である。