前にも述べたが、下層界では地上時代の記憶や先入観の似通った者が親和力の作用で同じ境涯に集まって暮らしている。その境涯に身を置いてみると『支配的観念』というものがいかに強烈で顕著であるかがよく分かる。
 私がこれまでに訪れた中で一番不快な思いをしたのは、いがみ合う習性が魂にこびりついてしまった気の毒な人間ばかりが住む町だった。その町の通りの一つに連れて行かれると私はいつものようにその土地の性質をすぐに感じ取った。それは、ただただ怖いという感じだった。見回すとー例によって私の姿はその土地の者には見えないーそこら中で罵り合っている。私の幽体の感覚がその土地の波長に近づくにつれて、彼らの思念が伝わってきた。邪悪で、無慈悲で、残忍そのものだった。
 どうしようもない土地である。その地域全体の雰囲気が個々の人間の性質をますます悪化させている。私は耐え切れなくて、思わず背後霊に『連れ出してください』と言った。するとすぐに連れ出してくれて、今度は町外れの砂利だらけの土地へ連れてこられた。そこにはネズミや兎などのペット類の檻が沢山置いてあった。何の為かと尋ねると、指導霊の答えは、その辺りの人間は同胞に対しては全く愛情を持っていなくて、時折こうしたペット類を可愛がることがあるということだった。と言ってもそれは、愛というものを悟らせる為に、せめてペットでも飼うように、各自の背後霊が印象づけているのだった。
 そこの状態は、人間はかくあるべきというのものを全て否定した状態である。死後そのような状態、言い換えれば、そのような波長の界層に赴くに相応しい生活を送っている人間の宿命を考えてみられるがよい。僅かながらも残っていた愛すら奪い去られ、全体の殺伐たる雰囲気の中に呑み込まれてしまう。聖書の次の言葉がぴったりである。
 『全て、持てる者は与えられて、ますます豊かにならん。しかれど、持たぬ者はその持てるものをも奪わるるべし』(マタイ25・29)
 思念はすぐに幽体に感応する。そしてその思念が強ければ強いほど、その影響も大となる。例えば、真面目な知人同士が楽しい界層で出会えば、互いに楽しい思念を出し合って、それを互いの身体が吸収し合う。受ける側の楽しさが倍加され、それを返す楽しい思念もまた倍加されるわけである。こうした幸福感の倍増過程が電光石火のスピードで行われる界層があることを思えば、同じ法則が今述べた絶望的境涯においても働き、憎しみの念が倍加され、その結果として現出されていく地獄的状態は、およその想像がつくことであろう。
 ある時は肉体から出た後、気がついてみると小さな家の外に腰掛けていた。その時はそこがどういう環境なのか、私の身体に何も感じられなかった。背後霊によって絶縁状態にされているらしかった。そのうち突如として私の身体が持ち上げられ、二人の背後霊が腕を交差させたその上に座らされた。そしてその二人の背後霊がおかしそうに笑う声が聞こえるので、私も思わず笑いだしてしまった。顔は見えないが、腕だけは見えていた。それから二人は私を腕に乗せたままその家の周りを走って一周し、それから玄関のところに下ろした。
 一体何のことかわけが分からずにいると、その家から背後霊の一人が出てきた。今度は姿が見えた。早速私がここは一体どこなのかと尋ねると『低級思念の土地』と答えてくれた。それから私を案内してくれたのは、延々と続く陰気な湿地帯だった。その時は絶縁状態も切れていた。下水処理場のような悪臭がしてきた。
 あちらこちらに哀れな姿をした人達がとぼとぼと元気なく歩き回っていたり、じっと立ち尽くしていたりしている。その土地の波長は実に陰湿である。背後霊が私を連れてくる前にあのようにふざけてみせて明るい雰囲気にしてくれたのもその為であることが理解された。それでもなお私は長く滞在出来ず、いつものように、ひとまず明るい境涯へ案内してもらってから肉体に戻ったのだった。
 これは是非とも必要なことだった。と言うのは、私の身体はそれほど低劣な波長にさらされていて、テープレコーダーのような性質の為に、そのままではその低劣な波長がいつまでも残るのである。肉体に戻ってから記憶を辿ってその境涯の体験を思い出すと、程度こそ弱いが、その悪影響を同じ波長で感じ取ることが出来る。
 幽界の下層界にはそうした劣悪な波長の境涯がいくつもあり、そこでの体験を述べることすら気が滅入る思いがするが、事実は事実として知っておく必要があることを考えて述べているのである。