前章で幽界でも面白みに欠ける下層界での体験を紹介したが、それより少し上層へ行くと、地上とそっくりで、しかも肉体から解放されて比較的自由な活動と霊的可能性を楽しんでいる境涯が存在する。退えい的でもなく、さりとて進化しているとも言えない。言ってみれば『気楽な境涯』で、これを適格に紹介するのは容易ではない。
 一般的に言って霊は地上時代の思考の癖や生活習慣にしばらくの間固執するものである。田舎で生活した者は広々とした地域を好み、都会で生活した者は市街地を好むといった具合である。私が見た市街地は地上と同じように住民が大勢いて、ショッパングセンターのあるところなどは特に賑わっていた。
 道路には様々な交通機関が見られるが、そこは想像の世界であるから、それを利用するのは地上でそういう機関を利用していた人達が主である。地上の様々な時代に生活した人達が集まっている為に、道路を走っている交通機関も様々な時代のものが見られ、結構楽しくもあり時には滑稽でもある。例えば近代的な車に混じってカーマニアによる手作りの車を見たこともある。
 どんな気まぐれな思いつきでも、地上のような費用も労力もなしに楽しめるので、珍妙な格好をした三輪や四輪の車が見られる。それが結構制作者が思った通りに『進む』のである。ある時はノーフォークジャケット(ベルトの付いたシングルの上衣)と1906年頃のニッカーボッカーズ(膝の下にギャザーを寄せ、裾を絞りカフスを付けた半ズボン)の男が自転車に乗り、サドルの横に張り出しの座席をつけて、そこに子供を乗せているのを見かけた。
 私は『永久運動機関』(注)を発明しようとして実現出来なかった研究家達は、霊界ではさぞ満足していることであろうと思う。なぜなら、ここではアイデアが全て実現するからである(注 エネルギーを消費しないで永久に動く機関のことで、一時これを求めて研究が行われたが、実現不可能という結論に達した)。
 これまでの体験で私は身体的な疲労を覚えたことは一度もないが、精神的に退屈感を覚えて気分転換を必要とする場合があるにはある。例えば、ある時非常に幅の広い自動車道をバスで走ったことがある。大変な長い距離で、その帰路で精神的に疲労を覚え始めた。往路で見た沿道の景色をいくつか覚えていたことが却ってまだまだ先があると思わせる結果となり、気分的に果てしないように思えてきた。多分この時の遠乗りはそうした精神状態を体験させる為だったに違いない。
 この境涯には様々なタイプの家屋が見られる。相変わらず地上時代に住んでいた住居の感覚から脱け切れない者がいて、その周りに明らかに無用の付属物が見られる。が、一方には可能性に目覚めて、地上とは全く異質のものをこしらえている者もいる。かつての親戚や友人との接触も始まり、当然その結果として交友関係が広大なものとなっていく。
 そうした人達が一つのグループをこしらえて、勉強の為に様々なところへ見学に行くということが行われる。最近私もその一つに加わったーというよりは私の背後霊によって体験させられたので、それを紹介しておきたい。
 私が加わったグループは十二人から成り、そのリーダー格をしている女性はかつて地上で私の家族と知り合いだった人である。母性的風格の備わった、しっかりとした女性で、地上時代も旅行好きだった。
 既に他界している兄と義兄との間に挟まれた形で歩いて行くと、超モダンな建物が見えてきた。全員が中へ入り、少し見学して他の者は出ていったが、私は全体をもっと見たかったので居残った。 
 そこへ別のグループが通りかかり窓から覗き込んで私を見つめていた。やがてそのグループも中へ入って来て、その中の一人が私に
 「ここで何をなさっているのですか」
と聞くので
 「アダ・メイのグループと一緒に来たのですが、みんな先へ行っております。私だけ残って見学しているところですが、あなた達こそ、ここで何をなさっているのですか?」
と言い返した。
 これには一同が笑ったが、その中の何人かの女性達が「ほんと。確かにあの人だわ」と囁き合っているのが聞こえた。それを聞いて私は、私の親戚の者を通じて既に私の噂を耳にしていることを知った。間もなくそのグループも去って行った。
 このことに関して興味深いのは、先程アダ・メイという姓名を口にした時、メイという姓がすぐに出てこなかったことである。地上へ戻って来てメッセージを伝える霊が妙に記憶喪失のような態度を見せ、特に地上時代の姓を思い出せないことがあるが、これは置かれた環境条件が本来のものでない為であることが、これで分かる。多分私の場合は肉体から脱け出る際に生命力の一部を肉体に残していくことになるので、記憶も一部が残るのではないかと思う。