始めのところで私は、こうした体験を公表する私の意図は、現代にまだ地上に生活している人間が持ち帰った死後の世界のありのままの姿を紹介することにあると述べた。私の霊界旅行の範囲は実に広くかつ次元が異なるので、その叙述の内容が様々とならざるを得ない。が、これで従来の霊界通信の内容が一定のパターンでないことを理解する上での一助となるであろうことを期待している。そうした差異が地上の人間にとって霊の世界についてのイメージをまとめるのを困難にしてきているのである。
 この二十年間の霊界旅行で私が訪れた境涯のバラエティの豊かさは、私自身が改めて何度も驚かされてきている。同じ場所に二度訪れたことは滅多にない。一つ一つの環境が異なったバイブレーションを発しており、それが霊的身体にすぐさま感応する。
 私が定期的に訪れている場所は霊界の私の住居、庭、店といった私個人に関わりのあるところだけである。そして当然その辺りの地域も入る。霊的身体の感受性は素晴らしいもので、あたかも『触手』のように自然に働くようである。私の(霊界の)家に入った時などは瞬間的にその場の私固有のバイブレーションを感知する。目で見て我が家であることを確認するのではない。時には無意識のうちに我が家に連れて来られていることがあるが、意識が目覚めた瞬間に我が家だと感じる。
 地上で飼っている猫を時折霊界の我が家で見かけることがあるのも、やはり同じ原因、つまり私のバイブレーションがそこに充満しているからだと思われる。猫はあまり変化しないようである。霊界へ来ても相変わらず冷静であり、常に自分というものを守って超然としており、私に対しても『あなたはあなた』といった態度が見られる。
 私の店がある境涯は、現実の英国の街と較べても極めて自然と言えると思っている。大体において霊界へ来てまだあまり長くない者が集まっている。 どれくらいの長さかと言われても、一人一人進化の度合いが違うので断言出来ない。死後の睡眠状態からようやく目覚めて、さし当たってそこで過ごしているという段階の人達である。そして結構、生活を楽しんでいる様子である。それは地上生活のような煩わしさがないし、生活費を稼ぐ必要もないからである。死後の世界をバラ色の天国のように伝えてくることが多いのも、そうした事情による。
 霊界の私の店は地上の店の複製ではない。地上の店よりずっと大きく、造りも違う。が、店に並べてあるのは同じ種類のもので、書籍類と文房具、絵はがきなどである。時折店番として若い女性が二、三人来てくれるが、いずれも地上では知らなかった人達である。売買はお金によるのではなく、何らかの形でお返しをするという形式で行われる。
 ある時何気なく店の雑誌を眺めていたところ、The Popularという文字が印象に残った。地上に戻ってからそれが1926年の発行であることを思い出した。少年向けの本で、これで霊界の本には地上の本の複製もあることが明らかとなった。
 私の店はまた気楽な集いの場でもある。数ヶ月前に、夜中にそこへ訪れ、客を奥の部屋へ案内したことがある。その客の中には、地上では会っていないが古い親戚の人だと分かる人もいた。そういう人を格別しげしげと見つめることはしなかったが、一人だけ顔をそむけて過ぎ去ろうとする者がいた。そしてそれが実の父であることを直感した。
 私は興奮気味に『おや、父さんじゃないの。始め気がつかなかったなぁ』と言った。すると父は笑って返した。その時の容貌から既に相当進化していることを見てとった。背丈も、地上では私より低かったが、その時は私と同じだった。以前会った時は決まって地上的外見を具えていたが、この店は私を試す為に本来の霊界での姿を見せたことは明らかである。繊細さを増した私の霊的身体がその策謀に引っかからなかったというわけである。父の笑いはその笑いだった。
 私が田園風景を好むことを知っている背後霊は、時折、低級界からの帰りに休息と回復の為に森の中の泉へ連れて行ってくれた。初めての時、夢遊状態で茂みの中の曲がりくねった道を辿っていくと、泉が湧き出て大きな水たまりとなっているところへ出た。意識状態のままで行けるようになってからは、どこでどっちへ曲がり、次に何がある、ということまで分かるようになった。以来度々連れて行ってもらっているが、どうやら、その土地にも季節があるらしく、泉を取り囲む繁みが高い時と低い時がある。
 もっとも地上の暦とは無関係で、まだ冬のような季節を見かけたことはない。既にそこへ数え切れないほど度々訪れていて、まるで『私の庭』のように、どこに何の繁みがあるといったことがみな分かるほどになっている。