私は先にこの辺の境涯を『正常』と呼んだが、その正常さの中にも様々なバリエーションがあることを付け加えておかねばならない。観念が支配する世界であり、様々な性格の人間が混み合っていても、地上時代の習性が相変わらず残っていて、こればかりは『いつまで』という線を引くわけにはいかないのである。
 この俗にいう『常夏の国(サマーランド)』はキリスト教で『天国』と呼んでいる漠然とした世界とは似ても似つかぬところである。何の不自由もない世界なのであるが、そういう世界の存在を知ったからといって、それが直ちに魂に大きな影響を与えるわけでもない。地上で霊的なことに全く関心のなかった者は、こちらへ来てもそう簡単に精神的革命は起こらない。精神構造の中にその要素が一欠片もないからである。
 その意味では、死後の世界は地上時代に培われた精神がむき出しになる世界ともいえる。内部にあったもの、支配的に働いていた観念が表面に出てくるのである。時には慣習として引き継がれてきたものが固定化し、霊界での進歩の妨げになることもある。
 例えば、あるとき私はごく普通の明るさの界へ連れて行かれた。見るとそこは公園で、一見したところなかなか快適で、立派な石造りの門、石庭、鑑賞池、木製のベンチ等が揃っている。が、池を覗いてみてがっかりした。魚が一匹もいない。さらに気がついてみると植物が一本も見当たらない。おまけに人影がまばらである。歩いている者もいればベンチに腰掛けている者もいる。そのどれ一人を見ても身なりは実に立派である。が、その態度には特権階級特有の排他性からくる勿体ぶった威儀とエレガンスの極みを見る思いがする。
 ベンチに腰掛けている姿も威儀を正し、どこから写真を撮られてもよいようにと緊張した顔をしている。女性はそれぞれの時代の最高のファッションの帽子をさらに大げさに飾り立てたものをかぶっているが、地上時代の人間味に欠けた生活習慣からくる思考形式が表面に出て、何か冷淡な味気なさを感じさせる。
 そう見ているうちに公園の門をくぐって一人の男性が入ってきた。距離は遠かったが、私の幽体の望遠鏡的視力が働いて、上層界からの指導者であることがすぐ分かった。その公園の人達に説教する為に訪れたのである。が、その人が説教を始め、この界より上にもはるかに進んだ境涯があることに言及し始めると、近くにいた人の中から二人の男性がやってきて、その説教者を門の外へ連れ出してしまった。
 が、間もなくその説教者がまた入ってきた。そして再び説教を開始すると、また同じ二人が連れ出してしまった。連れ出すといっても、決して乱暴には扱わない。見栄を第一に重んじる習性が人に対する態度を嫌にいんぎんにさせ、さも『これはこれは牧師さま。有り難いお言葉ではございますが、私どもの階級におきましては公園でのスピーチはどうも肌に合いませぬ。どうかお引き取りを』と言わんばかりなのである。
 実に不思議な境涯である。他人に対する態度は誠に丁寧である。けっして迷惑は及ぼさない。その辺に環境の明るさの原因があるのであるが、不自然な気取りの固い殻から脱け出ることがいかに難しいことであるかを見せつけられる思いがした。霊的摂理は完全であり、そして単純なのである。が、それを悟るには単純な正直さが要求されるのである。
 同じ界で、地上時代にただ食べて飲んで生きること以外に何も考えたことのない人達の住んでいる境涯へ何度か行ってみたことがある。これといった興味を持たなかったーというよりは、興味をもつ精神的ゆとりを持たなかったのである。死後そうした精神構造の者ばかりが集まっているこの境涯に親和性の作用で引き寄せられてきた。生きる為に働く必要がなくなった今、全く何もすることがなく、精神活動が完全にストップしてしまっている。求めればいくらでも興味あることがあるのに、無関心の習癖のついた精神が活動を阻止しているのである。延々と住居が立ち並ぶ通りにも全く活気がなく、見つめている私の幽体に極度の倦怠感とものうさのバイブレーションが伝わってきた。