それで、その就職先は複数の工場や森林現場の仕事場があったのだが、俺はとある街の木材加工工場に配属されました。そこは、独身者向けの寮があったので、そこに入寮しました。
 寮費は13000円くらいでしたが、途中から経営が苦しいからとか、隣の家族向けの社宅の家賃と比べて安すぎるという理由で、途中から24000円くらいになりました。でも、三食付きで風呂もついて、狭いながらも個室が与えられていたので、良心的だったと思います。が、当時の俺は、甘やかされたツケなのか、寮母さんに、ちょっと食事の量が多いので減らしてくれとか、あと大量に俺宛の郵便物が送られてきて、風呂掃除の時にあんたの郵便物の受け取りのせいで中断して出るはめになったとか、ちょくちょく衝突してしまい、結局、2ヶ月くらいで出て行くことになりました。
 まぁ、俺も岐阜県に住んでいるのに、名前が珍しいからとかいう理由でトマト銀行の口座を作ったりしていました。その郵便物を受け取った寮母さんが、なんで岡山県のトマト銀行の口座なんて作るんだ、向こうも迷惑しているよ、とか言われて、今ならまったく同感でその通りなのですが、俺はそういう変な部分が昔からあるのでした。その寮母さんとは、休日に近くのスーパーに一緒に買い物に行ったりしていたのです。仲はそんなに悪くはなかったのですが・・・。まぁ、寮母さんの愚痴を2時間くらい休日に聞いたり。まあ、悪い人ではないのですが、俺がわがまま言ったことと、その寮母さんの人生が色々あって少々ヒステリー気味になっていた、などの理由が重なり、衝突してしまいました。それで、近くのアパートを借りることにしました。

 でも、資金が足りませんでした。俺は弾きもしない、練習もしないギターを買ったり、祖母から専門学校の進学祝いで貰った30万円を、車で岐阜県に帰る途中にケーズ電機に寄り、そこでシャープの薄型テレビを27万円で買ったりしました。そんなの、今から思えば、画質は超悪いし、薄型テレビとはいえその頃のは分厚いし、画面も小さいし。でも、物欲を抑えられずに、買ってしまったのでした。とにかく、生存に関して不要な物を大量に買ってしまい、貯金し続けていればけっこうな額になったであろう金を、全部浪費してしまっていました。あと、進学の際に、母親の死んだ祖父が母親のために用意していた100万円を俺にくれて、それで新車のマツダのMTのデミオを買ったのですが、その維持費とかいろいろかかりました。自動車教習所の費用も親が出しました。とにかく、金銭面で甘やかされた環境で育ったものですから、我慢ということが出来ない性質だったのです。だから、貯金がなかったので、サラ金のアイフルに手を出してしまいました。

 その街の市役所の前には、二階建ての建物があり、焼き鳥屋以外は全部サラ金の無人契約機が入っていました。当時、アイフルが白いチワワをCMに起用し、大きなインパクトを与えていたので、色々なサラ金の中から、アイフルに決めました。入ったら本当に無人で、オドオドしながら進むと、声がしました。それで、給与明細とか、必要な書類とかを提示して、契約出来ました。最初は限度額50万円でした。
 それでアパートを借りました。二部屋の和室で、駐車場代無料で、35000円でした。それでも、俺は浪費癖が続いたのと、サラ金という金銭問題の補助手段を見つけて安易に物事を考えてしまったため、ベトナム戦争のように泥沼にはまり込み出しました。
 最初の頃は、恐る恐る借りては給与日に全額すぐに返していたのが、段々と気持ちが緩くなってしまい、終いにはサラ金と友達みたいな感覚になってしまいました。あの無人の機械は魔物だな。
 会社の給与は、月給175000円でしたが、色々引かれて、手取りは少なかった。で、会社の業績も悪くて、求人票にはボーナスは1年で月給3ヶ月分と書いてあったが、実際は夏55000円で、冬45000円であった。残業は、業績が悪いので、なるべくしない方針であった。だけど、俺が配属された部署は、赤字のくせに仕事量が多く、休日出勤もけっこうあり、休みは、月に四日くらいだったかな。なんか、俺の部署は、赤字だけど、お得意さんとの儲かる取引が他の部署であり、したがって、その顧客の機嫌を損ねないためにも、赤字続きでもその部署は存続させていたようだ。んで、その工場は100人くらい働いていたが、俺の部署は10人くらいで、主にフィリピン人やブラジル人がトンカントンカン叩いて製品を組み立てて、俺はその材料をフォークリフトで補充したり、出来た製品を運んだりしていた。
 
 でも、俺はフォークは下手で、積み上げた製品をドンガラガッシャンと崩してしまったり、動作が遅かったり、同僚の日系ブラジル人や日本人の先輩のフォーク操作に比べて格段にトロかったので、いつも超怒鳴られていました。マジで、怒鳴られました。直属の日本人のおじさんの上司に怒鳴られ、外国人の人達に遅いと怒鳴られ、積み込むトラックの運転手のオジさんに、「おいおい、今日、俺、○○まで行かなきゃならないんだよ。早くしろよ」と怒鳴られ・・・。
 でも、俺にあてがわれたフォークリフトは、年代物で、頻繁にシフトレバーがポロっと折れてしまうようなもので、ギアチェンジもミッションがガリガリと反発してなかなか入らなかった。いや、マジで。だって、俺だって、他のフォークリフトに乗れば、もっと上手に出来たのに。新たに買う余裕がなかったんだろうな。
 その頃は、会社では作業着で長袖長ズボンであり、プライベートでは、たまに一緒に専門学校からこの会社に就職した同級生と食事に行ったりする程度だったので、他人に肌を見せることはなかった。だから、しばらくは、体毛は生やしたままだった。というか、忙しかったし、借金のこととか、肉体的にヘトヘトになったり、あと一人暮らしなので、それにまつわる仕事も全部しないといけないので、そんな体毛を抜いている暇などなかった。だから、しばらく忘れていました。

 それで、借金ですが、段々と借金に対する恐怖心も無くなっていきました。いつの間にか、アイフルのATMに『限度額が100万円まで増やせます』という表示が毎回出るようになり、また、職場で働いている時にも、俺の携帯にアイフルから直接電話がかかってきて、限度額を増やすことを勧誘してきました。最初の頃は『おいおい、さすがに百万円まで増やしちまったら、どうしようもなくなるぞ』と思ったのですが、借入金が限度額一杯まで来ていたこともあり、とうとう、100万円まで増やしてしまいました。それと同時に、専門学校の研修旅行でカナダに行く前に作ったクレジットカードのセゾンカードが、いつの間にか限度額がショッピング100万円、キャッシング80万円までだったかな?いや、もうちょっと下かな?とにかく、いつの間にか、限度額が増えていました。
 それで、意味もなく、使いもしないのに、近くのミドリ電機とかギガスとかエイデンとか行って、高級なコピー機とか買ってしまい、いつの間にか、どんどん借金は増えていました。ただ、具体的にどんなものに大金を投じたのか、よく覚えていない。とにかく、不要なものに使った使途は、記憶に残らないものだ。
 そんで、仕事の方は相変わらずてんで駄目で、でも一生懸命働いていました。でも駄目だから、そのストレスとかかなぁ、今から思えば。だから休日に、ドカンと不要品を買ってしまったのかな。とにかく、借金残高はどんどんエベレストのように増えていきました。しかも、その頃は、今みたいに金利が18%でなくて、クレジットカードもサラ金も、グレーゾーン金利とかいうので29%くらい取られていたから、本当にもう、返すアテはなかった。けど、当時の俺は呑気だしバカだし将来を見通す能力なんてないから、借金を続けてしまっていた。

 あと、今思い出したけど、専門学校を卒業する直前に、本屋にフラッと寄ったんだ。そして、いつもは行かない自己啓発コーナーに行ったんだ。そこには速聴の本があって、速聴をすれば、あなたも天才になれるみたいなことが書かれていた。そこには、無料の本プレゼントのはがきが入っていた。無料ならラッキーと思い、軽い気持ちで投函しました。すると、速効で資料と本と契約書が配達された。そして、速効で電話がかかってきた。そんで、散々煽てられて、褒められて、気づけばコンビニから契約書のFAXを送っていた。そんで、俺は毎月、35600円を五年くらいかけて返済するローンに縛られた。最初の頃は少しやっていたが、すぐに飽きた。それはでっかいトランク二つにびっしりとCDが入っていて、速聴の機械が、カセット用とCD用とが二つ入っていた。お値段は、ローンなので総額215万円くらいだった。気づいた時には、クーリングオフは無理だったし、そもそもクーリングオフって何?みたいな感じでした。その時は、「まぁ、いいや」なんて呑気に構えていた。毎月35600円の返済が、どれほど重くのしかかるか、知る由もなかった。そのくらい、金に対して呑気だったのだ。俺は、本当にお金に甘く育てられたので、金銭感覚がおかしかった。親や祖父母は子供のため孫のためと大金を与えるのはいいが、相手が馬鹿だと、自滅してしまうから注意してください。

 そんなこんなで、とうとう仕事を始めてから1年1ヶ月目の五月、退社したいと本社の人に伝えました。はー、すべて、これ以前の決断がバカすぎるな。やはり失敗とは、その直前にのみ原因があるのではなく、それよりもはるか昔に原因があるのだろう。なんで俺は、わざわざ岐阜県まできて、こんなにボロボロになってしまったのだろうか。
 俺は、次の就職先なんて決まっていなかった。とにかく、もう精神状態がボロボロで、とてつもなく怒鳴られまくりで、おかしかった。俺の部署は人の出入りが激しくて、外国人達も、次々に近くの別会社に転職しちゃうし、俺に仕事を教えてくれた日本人の若い先輩も、俺がそこの部署に配属されてすぐに辞めちゃって別の会社の工場に転職しちゃったし。その先輩の後釜で入った日系ブラジル人の若者も、もっと条件の良い職場に転職しちゃうし。そんで、そこには、とうとう俺と、怒鳴ってばかりいる怖い上司しか、フォークリフト使いはいなくなりました。緩衝剤がなくなって、毎日毎日、直接怒鳴られ、嫌みを言われ、精神はどんどん追いつめられていきました。
 まあ、結局、俺が弱いんだが。しかし、弱いのは事実なので、仕方がない。逃げちゃ駄目だという人もいる。しかし、そのままそこに留まったせいで自殺しちゃう人も日本人には大勢いるのだから、逃げちゃ駄目だという方針も、時と場合によるな。ケースバイケースですね。

 俺はアテもないまま、とりあえず、暫くの間は借金で生活することにした。