死んだあと、我々は、どこへ行き、また、どうなるのだろうか?
 今より楽になるのだろうか、あるいは、苦しくなるのだろうか?
 死んだ後も存在し続けるのだろうか、あるいは、いなくなってしまうのだろうか?
 存在を続けるのか、存在をやめてしまうのか、そのいずれかである。
 永遠か、虚無か、全か、無か?
 永遠に生き続けるのか、消えてしまって二度と再び戻ってこないのか?
 考えてみる価値のある問題であろう。
 「死んだらすべてが消滅し、完全な虚無が待っているのみ」という考え以上に恐ろしい考えがあるだろうか?健やかな愛も、知性も、向上も、苦労して身に付けた知識も、すべてが打ち砕かれ、すべてが消滅する!というのであるから。
 もしそうなら、どうして、よりよい人間になるために努力をし、苦労して欲望を統御し、一生懸命、精神を豊かにする必要があるだろうか?何の果実も得られないのだとしたら、どうして果樹を植えるのだろうか?何を得たところで、明日には、それがまったく役に立たなくなるとしたら、あえて、それを得ようとするだろうか?
 もし本当にそうなのだとしたら、人間の運命は、動物のそれよりも、はるかに哀れむべきものとなってしまう。なぜなら、少なくとも、動物は、未来への恐れなど持たずに、今を十分に生き、物質的欲望を満たして完全に満足しているからである。
 だが、我々の心のどこかで、「そんなはずはない」とささやく声がする。
 死後が虚無であるならば、結局は、「今さえ良ければよい」ということになる。論理的に考えても、待っているはずのない未来にかかずらうことは出来ないからである。
 「今さえ良ければよい」と考え始めると、当然、その次は、「自分さえ良ければいい」と考えることになる。まさしくエゴイズムの極致である。そして、そうなったときには、これも当然のことながら、自己信頼は失われる。
 そして、「生きている間だけが華だもの。やりたい放題をやって楽しまなければ損」ということになる。しかも、いつまで生きていられるかも分からないので、とにかく手っ取り早く楽しまなければならない。「とにかく楽しまなくちゃ。自分さえ良ければいいんだ」ということで、この世での幸福だけしか考えなくなる。
 世間体を気にすることは、多少はあるだろうが、それ以外に、こういう人々を思いとどまらせる要素はあるだろうか?
 法律は?
 だが、「法律に引っ掛かるのは、間抜けな人間だけ」と彼等は考えるだろう。そうして、法の網をくぐり抜ける算段をするに違いない。
 もし、反社会的な、極めて不健全な教義があるとすれば、それこそ、まさしく死後の虚無を中心にすえた「唯物主義」という教義だろう。なぜなら、そうした教義は、社会の基盤をなす連帯と友愛の絆を完全に断ち切ってしまうからである。

       
       
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