さて、いま、何らかの緊急事態が起こり、一週間後に地球上のすべての人間が死に絶えることになったとしよう。しかも、「死んだら最後、一切が消えてしまう」ということになったとしよう。
 そうすると、この一週間の間に人間は何をするだろうか?
 自らの向上のために、腰をすえて、じっくり勉強するだろうか?辛い思いを我慢して、正しい努力を続けるだろうか?法律を遵守し、善を目指し、隣人を愛するだろうか? 権威の言うことに耳を傾けるだろうか?何らかの義務を果たそうとするだろうか?答えは、間違いなく、「否」であろう。
 だが、そうしたことが全体のレベルで起こらなくても、日々、虚無主義の教義は、同じように、一人一人を侵しているのである。
 とはいっても、事態がそれほど酷くならないのは、「神を信じていない」と言う人々のほとんどが、心の底からそう思っているわけではないからである。神の不在を確信しているのではなく、神の存在を確信することが出来ないだけである。虚無を恐れてはいるが、それが本当にあってほしいと願っているわけではないのだ。
 絶対的な無神論者は、ほんの一握りにすぎず、無神論は、唯物主義から力を得ているとはいえ、常に反対意見にさらされている。
 しかしながら、絶対的な無神論が社会全体を覆ったとしたら、社会は確実に崩壊するであろう。そして、それこそが、虚無主義が狙うところであるのだ。
 もし虚無主義が真理であるならば、それがどのような結果を招くとしても、信じざるを得ないだろう。それが真理である以上、それに反する、どのような考え方も、それが惹起(じゃっき)するであろう、どのような悪しき思想も、それを消滅させることは出来ないからである。
 ところで、懐疑主義、猜疑心、無関心が、宗教の努力があるにもかかわらず、日々、地歩を固めていることは、無視するわけにはいかない。もし宗教が無神論に対して無力であるとすれば、それは、今日の宗教に何かが欠けているからであろう。そして、このままでいけば、宗教は、そのうち完全に無力になるに違いない。
 信じる前に、まず理解することを人々が望む、この19世紀にあっては、宗教の教義が、明白な事実に基づいて説明される必要があるだろう。また、実証科学の知見と教義の内容が一致する必要もあるだろう。もし、宗教が「白」と言い、事実が「黒」と言うならば、盲信よりも事実を取るのが当然なのである。
 さらには、あらゆる宗教は、死後に天国と地獄が存在することを認めているが、「どうすれば地獄に堕ち、どうすれば天国に行けるのか」という点、さらには、「地獄では、どのような苦しみを受け、天国では、どのような喜びを得るのか」という点に関しては、それぞれ異なった見解を持っている。
 そこから、ある場合には、互いに矛盾するような見方も生じ、「神を讃えるには、どうすべきであるのか」という点に関して、様々な異なった考え方が生じているのである。
 全ての宗教は、それが発生した時点では、人間の、精神的、知的進化の度合いを問題としていた。しかし、今なお、人間は、純粋に霊的な事柄の持つ意味を理解するには、あまりにも物質的でありすぎるために、宗教的な義務のほとんどを、心と関係のない物質的な事柄の成就に置きがちである。
 だが、暫くの間は、そうした外面的な形式の問題で満足していても、やがては、そこに虚しさを感ずるようになってくる。そして、宗教がそうした虚しさを埋めることが出来ないと、彼らは、宗教を捨てて哲学へと向かうのである。
 もし、宗教が、原則として、人間の限られた知性にふさわしいものであり、なおかつ、人間の精神の発達に対応し続けることが出来たとしたら、おそらく無神論者は存在しなかったであろう。というのも、信ずるということは、人間には本性として与えられており、知的な必要性と調和したかたちで、霊的な糧が与えられさえすれば、人間は、信仰を持つように、もともと出来ているからである。人間は、「どこから来て、どこへ行くのか」を知りたがる存在なのである。
       
       
自殺してはならない霊的な理由 自殺志願者は、まず[自殺の霊的知識]を読んで!
[自殺の霊的知識]へ クラウドファウンディングの案内 霊的知識以外の自殺防止サイト