霊は、創られた当初は、単純で無知であるが、自由意志を備えているので、すべてを獲得しつつ進化することが可能である。
 進化することによって、霊は、新たな知識、新たな能力、新たな知覚を獲得するが、さらに、未熟なときには知らなかった新たな喜びも獲得する。進化してくると、それまで、見ることも、聞くことも、感じることも、理解することも出来なかったことを、見、聞き、感じ、理解することが出来るようになる。幸福は、獲得した能力に対応するのである。
 したがって、二人の霊人のうち、一人のほうがより幸せであるとすれば、それは、その霊人のほうが、知的にも、精神的にも、より進化しているからなのである。一方が光り輝く世界にいるのに対し、もう一方は暗闇の中にいる。一方が光を見るのに対し、もう一方は何も感じることが出来ない。目が見えないのと同じである。
 霊の幸福とは、その霊が獲得した能力に、本質的に属するものなのである。どこにいようとも、すなわち、肉体に宿って地上に生きていようとも、肉体に宿らず霊界で生活していようとも、その幸福を味わうことが可能なのである。
 もう少し分かり易い例えを引いてみよう。
 今、コンサート会場に二人の男がいるとする。一人は、訓練された繊細な耳を持っており、もう一人は、音楽の教養もなく、まともに音楽を聞いたこともない。素晴らしい演奏が始まると、前者は至福の喜びを感じるが、後者は何も感じない。前者が理解し、感じ取ることを、後者は、まったく、理解することも、感じることも出来ないのである。
 霊と喜びの関係は、以上のようなものである。その霊が獲得した能力に応じた喜びしか得られないのである。
 霊の進化とは、その霊自身の努力の成果である。
 とはいえ、彼らには自由意志があるので、積極的に向上を図るのも、怠けるのも、彼らの自由である。ある者は、どんどん進化するが、ある者は、なかなか進化せず、したがって、なかなか幸福になれない。一方が、すばやく進化するのに対して、もう一方は、何世紀も何世紀も停滞の中にとどまることがあり得る。
 彼らは、自らの幸福・不幸の、自由な作り手であるのだが、そのことを、キリストは次のように言った。すなわち、「自らのなしたことに応じて」と。
 後れをとっている霊の場合、その全責任は自分にあると言わねばならない。同様に、高度に進化を遂げた霊は、その恩恵をあますところなく自ら受けることが可能となる。彼が得た幸福は、自分が成し遂げたことに対する褒美以外の何ものでもない。
 至高の幸福は、完成の域に達した霊にしか、つまり、至純の霊にしか、味わうことが出来ない。知的にも精神的にも進化した果てに、ようやく至福を得ることが出来るのである。しかし、知的な進化と精神的な進化を同時に果たすことは、たいへん難しい。そこで、あるときは知性を発達させ、またあるときは精神性を発達させ、そうして、最終的には、両者を同じレベルにまで上げていくのである。
 知性が非常に発達し、知識も豊富なのに、思いやりを欠いた人間を、しばしば見、また、その反対のケースも、しばしば見るのは、以上のような理由からである。