しかし、それにしても、なぜ霊実在論が真実だと分かるのか?
 まずは、理性によって、次に、直観によって、さらには、発達した科学の知見との整合性によってである。
 伝統的なキリスト教神学は神の属性を卑少にし、霊実在論は広大にする。一方は進歩の法則に反し、一方は進歩の法則と調和する。一方は歩みを止めて遅れており、一方は未来に向かって軽快に進む。良識から見て、どちらに真理があるかは歴然としているのではないだろうか?
 この二つの考え方を前にして、各自が自らのうちに深く尋ねてみればよい。そうすれば、必ず、内なる声が応えてくれるはずである。それこそが、実は神の声であり、人間を過(あやま)たせることのない、確かな指針であるのだ。
 だが、それならば、どうして、神は、そもそもの初めから、人間に真理をすべて明かさなかったのだろうか?
 それは、おそらく、成熟した大人に教えることを子供には教えないのと同じことであろう。
 人類が、ある程度、進化するまでは、それほど高度でない教えさえあれば充分だったのである。神は、人間の力に応じて啓示を降ろす。今日、より完璧なかたちで啓示を受け取っている人間達も、かつては、別の時代に、それらを部分的に受け取っていたにすぎない。ただ、それ以来、彼らは知的に進歩したわけである。
 人間が、科学を通じて、自然の強大な力を理解し、惑星の配置を知り、地球の来歴と、その真の役割に気づく以前であったら、はたして、人間は、宇宙空間の広大さ、複雑さを理解し得たであろうか?
 地質学が、地球の形成について明らかにしていなかったら、人間は、「創造の六日間」の本当の意味を知り得ただろうか?
 天文学が、宇宙を統べている法則を発見しなかったら、人間は、宇宙空間には上も下もなく、天国が雲の上にあるわけでもなく、天国が星の下にあるわけでもないことを、理解できたであろうか?
 心理学の進歩がなかったら、人間は、自分が霊的な生命体であるということを納得できたであろうか?
 「人間は、死ぬと、境界のない、物質的な形態をとらない世界に赴き、幸福な生活、あるいは、不幸な生活を送る」ということが、はたして納得できたであろうか?
 おそらく、そういうことはなかったであろう。
 かつては、部分的な啓示で充分だった。だが、今日、それだけでは不充分である。人々の考え方が進化していることに気がつかず、子供に与えていた絵本を分別盛りの大人に与えて、よしとしているとしたら、これほどの時代錯誤はないと言わねばならない。