以下の文章は、[霊との対話]という、霊的知識の書物から抜粋した文章です。また、自殺に関するその他の霊的知識は、[自殺してはならない霊的な理由]に書かれています。

 1859年にイタリア戦争が始まった時、パリに一人の仲買人がいた。多くの隣人達から尊敬されていたこの仲買人には、一人息子があったのだが、その息子に徴兵がかかった。彼は、何とかして息子に徴兵を免れさせたいと思ったが、どうしてもその方法が見つからなかったので、「自分が自殺して、息子を寡婦の一人息子という立場にすれば、徴兵を免れる」と思って、自殺を決行した。
 一年後、生前の彼を知っており、彼が霊界でどのように生活しているのかを知りたくなった人の依頼で、この仲買人の霊を招霊することとなった。

-(指導霊に)いま話題にしていた、この仲買人の霊を招霊したいのですが、よろしいでしょうか?
 「招霊して結構ですよ。彼は、むしろ、それを喜ぶでしょう。そのことで慰めを得ることができるからです」
-それでは、招霊します・・・。
 「ああ、ありがとう!私はとても苦しんでいます。でも・・・は公正です。私は、きっと許されるでしょう」

 この霊は、文字を書くのに非常な困難を覚えているようであった(この場合、[霊媒の手を使って霊が文字を書く]というかたちで対話が行われている)。文字は不規則で、形が随分崩れていた。「でも」と書いた後で、しばらくためらい、それから、また書き始めようとしたが、なかなか書けなかった。判別不可能な線と点を書いたのみであった。「神」という言葉をどうしても書くことが出来なかったのである。

-文字が欠落している部分を埋めて頂けませんか?
 「駄目です。出来ません」
-あなたは「苦しんでいる」とおっしゃいました。おそらく、自殺したことは間違いだったのでしょう。しかし、自殺の動機そのものは悪くはなかったのですから、その点は斟酌されるのではないですか?
 「たしかに罰の期間は短くなると思います。しかし、行為そのものがよくなかったことに変わりはありません」
-どのような罰を受けているのか、教えて頂けませんか?
 「魂と肉体の両面で苦しんでいます。肉体がもうないにもかかわらず、苦しんでいるわけですが、これは、ちょうど、手術で手足を切断したにもかかわらず、なくなった手足が痛むように感じられるのと同じです」
-あなたは一人息子のことを思って自殺したわけですが、ほかにはまったく動機はなかったのですか?
 「父親としての愛が動機となって、私は自殺しました。それが唯一の動機だったのは事実です。ただし、いかなる理由があるにせよ、自殺することは間違いです。もっとも、この動機が斟酌されて、罰の期間は短くなるでしょうが」
-苦しみがいつ終るのか、予測がつきますか?
 「予測はつきません。しかし、それが終ることは分かります。そのために、気持が楽になるのは事実です」
-少し前、あなたは「神」という言葉を書くことが出来ませんでした。しかし、あなたより苦しんでいる霊で「神」と書くことの出来る霊もいます。あなたが書けないのは、罰の一種なのですか?
 「悔い改めの努力を一生懸命すれば、書けるようになると思います」
-そうですか。では、大いに悔い改めて、書けるようになってください。「神」と書けるようになれば、随分楽になると思いますよ。

 霊は、試行錯誤の結果、その線は震えており、崩れてはいるが、ついに、大きな文字で、「神は善なるかな」と書くことが出来た。

-招霊に応じて下さって、有難うございました。あなたに神の慈悲がありますように、お祈りさせて頂きます。
 「はい、どうかお願いします」
-(指導霊に対して)この霊のなしたことについて、どのように評価しておられるのかお聞かせ願えますか?
 「この霊の苦しみは、正当なものです。というのも、彼には神への信頼が欠けていたからです。神に対する信頼の欠如は、常に処罰の対象となります。もしも、『息子を死の危険に晒したくない』という立派な理由がなかったとしたら、罰はもっと長くて恐るべきものとなっていたでしょう。
 神は、真の動機をご覧になります。そして、その人の行ったことに応じて、正当に評価し、どう扱うかをお決めになるのです」

 一見しただけでは、この自殺は正当なものであるように思われるかもしれない。自己犠牲の行為と考えられるからである。確かに自己犠牲の行為ではあった。しかし、完全なる自己犠牲ではなかった。というのも、指導霊の霊示にもあるように、この男には、神に対する信頼が欠けていたからである。
 自らの行為によって、彼は、息子の運命を妨げた。まず、息子がこの戦争で必ず死ぬとは決まっておらず、また、この戦争を通じて得たキャリアによって、息子は次の進化の段階に進むかもしれなかったのである。
 その意図は、確かによきものであった。したがって、それは斟酌された。だから、死後の苦しみは軽減された。しかし、だからといって、それが悪であることに変わりはないのである。
 もしそうでなければ、あらゆる悪事が許されることにもなりかねない。我々は、ある人を殺しておいて、「その人のために殺してやったのだ」と思うことも出来るからである。ある母親が、子供を、まっすぐ天国に送るために殺したとして、「動機がよいから、それは間違っていなかった」とは言えないのだ。もしそんなことが通用するとすれば、宗教戦争での蛮行すら、すべて許されることになってしまうだろう。
 原則として、人間は自分の命を勝手に縮めることは出来ないのである。なぜなら、その命は、彼が地上で義務を果たす為に与えられたものだからである。いかなる理由によっても、命を勝手に縮めることは出来ない。
 人間には自由意志が与えられており、誰にも、その行使を止めることは出来ない。しかし、一旦、それを行使した以上、その責任は自らがとらなければならないのである。
 自殺のうちでも最も厳しく罰せられるのは、絶望からの自殺、すなわち、「悲惨な状況から逃げ出したい」と思ってなされた自殺である。その悲惨な状況は、当人にとっての試練でもあり、また、償いでもあるので、そこから逃げるということは、「自ら引き受けた使命を前にして逃げ出す」ということであり、「果たすべき使命を投げ出す」ということでもあるからである。
 ただし、「同胞を救うために、危機的な差し迫った状況で、自らの命を捧げる」という行為と自殺を同一視すべきではない。第一に、そうした行為は、人生から逃げ出すために、あらかじめ意図されたものではない。第二に、地上を去る時期が、もし来ていないのなら、神は必ずその人を危機から救い出してくださるからである。
 したがって、そうした状況における死は、正当な犠牲的行為と見なされるのである。「他者のために、自らの命を縮めた、純粋な愛他的行為」として評価されるのだ。