以下の文章は、[霊との対話]という、霊的知識の書物から抜粋した文章です。また、自殺に関するその他の霊的知識は、[自殺してはならない霊的な理由]に書かれています。

 1858年4月7日、夜7時頃、こざっぱりした服装の50代の男性が、パリの、ある公衆浴場にやってきた。サービス係の少年は、浴室に入ったその男性が、いつまでたっても自分を呼ばないので、不審に思って浴室をのぞいてみた。そして、そこで、見るも無惨な光景を目撃したのである。その男は、剃刀で喉を掻き切っており、浴室中に血が飛び散っていた。身元の確認ができなかったため、遺体は死体公示所に運ばれた。

 死後6日たってから、パリ霊実在主義協会において、この男性の霊を招霊したところ、次のような問答がなされた。

-招霊します・・・・・。
 霊媒の指導霊からのメッセージ:「ちょっと待ってください。今そこまで来ていますから」
-今、あなたはどこにいますか?
 「分かりません・・・・。ああ、私が今どこにいるのか教えてください」
-あなたは、今、霊実在論を研究している人々、あなたを好意的に迎えようとしている人々のあいだにいます。
 「私はまだ生きているのですか・・・・。棺桶の中で窒息しそうです」

彼の魂は、肉体から離れたとはいえ、未だに混乱したままである。地上で生きていた時の感覚が強くて、自分が死んだとは思えないのである。

-ここに来るように、誰かに勧められたのですか?
 「何か、ほっとしたことを覚えています」
-どうして自殺などしたのですか?
 「では、私は死んでいるのですか・・・。いや、そんなことはない・・・・。まだ、体の中にいますから・・・。私がどれ程苦しいか、あなた方には分からないでしょう。ああ、息が詰まる!誰か、優しくとどめを刺してくれないだろうか?」
-どうして身元を確認できるようなものを何も残さなかったのですか?
 「私は、皆に見放されたからです。苦しみから逃れようとしたのに、これでは、まるで拷問です」
-今でも身元を知られるのは嫌ですか?
 「ええ。どうか、血が噴出している傷口に、赤く焼けた鉄を押し付けるようなまねはしないでください」
-お名前、年齢、職業、住所を教えて頂けませんか?
 「嫌です!どれも教えたくない」
-家族はおありでしたか?奥さんは?子供は?
 「私は、皆から見放されたのです。もう誰も愛してくれません」
-どうして、そんなことになったのですか?
 「ああ、どれくらい多くの人が私のようになっていることだろう・・・・・。家族の誰からも愛されなくなってしまった・・・・・、もう誰にも愛されないんだ!」
-いよいよ自殺をしようとした時、ためらいはなかったのですか?
 「とにかく死にたかったのです・・・・。疲れ果てていたので、休息が欲しかった」
-「将来のことを考えて思い留まる」という可能性はなかったのですか?
 「私には、将来は、もはやありませんでした。希望をすっかり失っていたのです。希望がなければ、将来のことなど考えられません」
-生命が失われる瞬間は、どんな感じがしましたか?
 「よく分かりません。私が感じたのは・・・・。だいたい、私の生命はまだ失われていません・・・・。私の魂は、まだ体に繋がっています。ああ、蛆虫が私の体を食っているのが感じられる!」
-死が完了した時、どんな感じがしましたか?
 「死は完了しているのですか?」
-命が消えていく時は、苦しかったですか?
 「その後ほど苦しくはなかった。その時苦しんでいたのは体だけだったから」
-(近くの指導霊に対して)この霊は、「死の瞬間には、その後ほど苦しくはなかった」と言っていますが、これはどういうことですか?
 「死の瞬間に、霊が、その生の重荷から解放されつつあったのです。そういう場合には、解放の喜びが死の苦しみに勝ることもあります」
-自殺した人の場合、常にそうなるのですか?
 「必ずしもそうではありません。自殺した人の霊は、肉体が完全に死ぬまでは、肉体に結び付けられたままです。それに対して、自然死は生命からの解放です。自殺は生命を破壊することなのです」
-意思とは無関係に、事故で亡くなった場合でも、同じなのですか?
 「いいえ・・・・。あなたは自殺をどう考えているのですか?霊は、自分のやったことに対して責任を取らされるのですよ」

 死んで間もない人が、自分が死んでいるのかどうか分からない状態になるということは、実に頻繁に観察される。特に、自分の魂を肉体のレベル以上に向上させなかった人の場合には顕著である。
 この現象は、一見、奇妙に思われるが、ごく自然に説明できる。
 初めて夢遊病に陥った人に、眠っているかどうか尋ねた場合、必ず「眠っていない」と答える筈である。この答えは極めて論理的なのだ。非は、不適切な言葉を使って質問した側にある。
 「眠る」という言葉は、一般的な使い方では、あらゆる感覚器官が休息することを意味している。ところが、夢遊病者は、考えられるし、見られるし、感じ取ることも出来るのである。したがって、自分が眠っているとは思わないし、実際、言葉の普通の意味においては眠っていないのである。だから、彼は「眠っていない」と答えるのである。
 これは、死んだばかりの人間についても言える。彼にとって、死とは、すべての消滅を意味していた。ところが、夢遊病者と同じく、彼は、見ることも、感じることも、話すことも出来るのである。したがって、彼にとっては、それは死を意味していない。だから「死んでいない」と言う訳である。
 それは、彼が、この新たな状態について、しっかり理解するまで続くだろう。
 この状態は、いずれにしても、辛いものである。なぜなら、それは不完全な状態であるために、霊をある種の不安定な状態に投げ込むからである。
 右の例では、蛆虫が体を食っている感覚があるだけに、苦痛はより激しいものとなっている。
 さらに、その状態は、彼が命を縮めた年数分だけ続くことになるので、いっそう、辛いものとなるだろう。
 こうした状態は、自殺者において一般的に見られるものであるにせよ、常にそうであるとは限らない。特に、苦しみの強度と期間は、自殺者の犯した過ちの大きさに左右される。
 また、蛆虫の感覚や、身体が腐敗していく感覚も、自殺者特有のものであるとは言えない。それは、精神的に生きず、ひたすら物質的な享楽を求めて生きた人間が死んだ時に、よく見られるものである。
 要するに、罰せられない過ちはないということなのである。しかし、罰の与え方に、画一的で普遍的な法則はない。