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 まあ、この記事は、今執筆している日時は、2015年の9月22日午後8時41分です。前回の[恥の多い人生を送ってきました(19)]を執筆したのが2012年4月18日なので、三年と五か月が経過したことになります。

 まあ、別に、社会的な状況は大して変化しとらんのやけどね。

 というわけで、ぼちぼち執筆していきます。

 と、まあ、私は地元の平塚の湘南ベルマーレの馬入練習場での練習風景などをたまに見ながら、家で自殺ダメの構築作業をしつつ、福島に行くという話で、業者からの連絡を待っておりました。しかし、いくら待てど暮らせど、実際に赴くという話にはなりませんでした。

 それは、その時、どうやら業者は、求職者をとりあえず自社に留めておいて、空きが出たら、順次電話をかけて補充する、という形だったようです。だから、そこんところの業者は、空きがなかったんだろうね。だから、適当にお茶を濁す形で、「あともう直ぐです」とか言いつつも、ズルズルと引き伸ばしていったのだろう。

 そんなふうにして、時間が経過していきました。ただ、その間、私は無為に過ごしていた訳ではない。仕方がないので、自殺ダメの構築作業を、朝から晩までしていた。そして精神的に疲れたら、ベルマーレの練習風景などを見学しに行っていた。その頃は、まだベルマーレの熱心なファンだったから。あと、たまに川崎のソープランドにも行っていた。性欲が強かったから。

 それで、いつまで経っても呼ばれないので、そこの企業には断りを入れた。そして次に、東京にある何とかっていう建設業者だかが除染の作業員を募集しているとのことで、応募した。東京まで行き、面接した。当初は直ぐに福島に入れる予定だったのが、なんだかんだで、またここもズルズルと延期、延期の繰り返しだった。そんなこんなで、翌年の2013年になってしまいました。

 2012年の10月頃に、金銭的な支援をしてくれていた父方の祖母が死んでしまった。なので、私は資金がなくなった。バイトもせずに、ずっと一日中、自殺ダメの制作作業をしていたのだ。その頃、毎月15000円のリボ払いのライフカードの借金返済があったし、その他の費用もかかった。ピンチであった。でも、なんか、そんな時に、自殺ダメの寄付の募集欄を見た山田さんという人が、支援してくれた。当初は、山田さんは、自宅で可能な転売の方法を教えて私を支援してあげる、とのことであった。しかし、私はその時に、転売する気も暇もなかった。なので、断り、直接的な金銭的な支援をくれ、と要請した。そうしたら、山田さんは、なんだか霊能力があるらしく、善いことをすべき時には小指が痛くなるとのことだった。その時もどうやら小指が痛くなったらしい。なので、私に三万円振り込んでくれた。私の自殺者救済事業に共感したとのことだった。まあ、背後では、善霊が動いて、私を支援してくれたのだろうな。

 自殺ダメを制作していた間、勿論、親からは相当なプレッシャーを受けた。なにせ、30~31歳の間を、自宅でずっと一日中、無職でパソコンに向かい合いながら、タイピングして自殺ダメを制作していたのだからな。私の両親はそういうことには全く理解が及ばないのだ。だから、積極的に支援してくれるタイプではない。だから、相当衝突した。しかし、私には使命感があったので、自殺ダメの制作を貫いた。そりゃ、30過ぎて自宅で無職でブログを制作しまくる人生なんて、聞いたことないよな。まあ、世間的にはニートと同じだ。でも、その時の俺はニートではない。自殺ダメの制作は、後々何十年も、インターネットにおいて、自殺志願者を救うことになるのだから、意味がある作業なのは明白だったから。

 そんなことがありまして、結局、2013年の2月になり、ようやく自殺ダメの本文入力作業は終了しました。勿論、その後も枝葉を付ける作業は、この文章みたいにちょくちょくありました。しかし、骨格となる、幹となる部分の文章入力に関しては、この時点で終了しました。2012年の4月頃から始めて、2013年の2月に完了した。勿論、その時点では、ブログの全体デザインは酷かったし、目次もまだ設置していなかったけどね。

 あと、脚本家になるという夢は、2012年の3月の段階で諦めました。無理だわ。誰も支援してくれないものな。グラフィックデザイナーもダメだったしな。頭が悪いし、記憶力もないからな。諦めるのが早すぎると言うかもしれぬが、諦めも肝心である。もしも諦めずにダラダラと才能もないのに脚本家になる努力を継続していたら、何の世間の役にも立たぬ駄作を量産していただけだったからな。だったら、自殺ダメという霊的自殺防止サイトを制作していた今の人生の方が、遥かに有意義ではないか。だから、まあ、いいんだ。私はクリエイティブな仕事をしたかったので、そういったことに挑戦したのだが、とりあえず、それらの夢は破れたということでOK。

 まあ、今もまだ自殺ダメの総合的な制作は完了していない。まだ、自殺ダメへ自殺志願者を誘導するサイトの制作が待っているからだ。でも、自殺ダメへの誘導サイトの制作も全て完了した暁には、ちゃんとした社会的な仕事に就く努力をするつもりだ。ただ、それまでは、まだ自殺志願者を救うべく、活動を継続せねばなるまい。

 で、2013年の2月に、ようやく福島に行くことが決まりました。それは、楢葉町というところで除染の作業員を募集する求人でした。たしか、日給は15000円で、その内、寮費が出勤日一日辺り5000円を納めるという契約でした。それは、名前は忘れたが、ネットの求人サイトで見たからだ。それまでに応募した除染の仕事は、ダラダラと引き伸ばしされた上に未決定だったが、この求人は、応募から実際に赴くまで、二週間程度しかかからなかった。すんなり決まったのだ。多分、骨格となる自殺ダメの制作作業が終了したので、守護霊が福島に行くことを許可したのだろう。また、この求人の先にある出会いによって、俺が人生の修行が出来ると踏んだのだろうな。だから、すんなり決定したのだろう。だって、この求人の募集はこの時だけであり、そこに丁度、俺が応募したのだから。やはり縁があったと見るべきであろう。
 
 それで、私は実際に福島に行きました。いわき市の中の何とか駅という、小さな田舎の駅に到着しました。すると、すぐ傍に、ボストンバッグを携えた中年のおじさんが一人いました。どうやらその人も、同じ寮に入る人らしかったのです。その後、続々と他の人も集まりました。まあ、総勢10名程度だったかな。その後、寮の管理人である中年の夫婦と、50代の男性が来ました。その三人が、今回の寮のシステムを考案して実施した人達、つまり我々を募集した人達でありました。

 まあ、後から知ったことですが、まず、一番上にゼネコンがある。その下に地元の建設会社がいる。その建設会社が、除染の給与を支払う会社です。そこから更に、その三人が借りた寮のシステムがある、という訳です。だから、その三人も給与を支払う会社の準社員として、我々と同じ身分で新規に入社することになっておりました。しかし、既に寮は借りておりました。我々は、その寮に入って、食事と風呂とかの提供を受ける代わりに、出勤日に限り、一日5000円を寮の管理人の三人に支払う、というシステムでした。だから、地元の人ならば、自宅から通えますが、県外からの出稼ぎ者にとっては、そのシステムしかないのかしら、と思います。

 それで、近くのガストでドリンクを飲ませて頂いてから、簡単な説明を受けて、寮に移動しました。寮とはいえ、そこは古びた古民家、5部屋程度の、築60年以上ありそうな、古びた平屋でした。もう、けっこうボロボロで、一年後には、取り壊す予定の物件らしかったのです。だから、室内には、押し入れ裏には小動物の糞が山積していたり、埃だらけだったり、床板も怪しい部分があったりしました。

 そんな感じで、とりあえず、その日は皆さん一緒に泊まりました。食事は、その三人が近くの弁当屋で買ってきたものを食べました。まあ、その食事は、三人の奢りという形でした。

 あ、あと前回の[恥の多い人生を送ってきました(18)・・・・管理人の人生]のところに、永久脱毛の話が掲載してありますけど、その話の続きとしましては、当初はツルツルを目指す予定でしたが、金銭が尽きたので、無理でした。なので、今でも、まだ毛深いといえば毛深いのですけど、大分間引きされた状態といいますか。とにかく、ツルツルになったらなったで、男なのにツルツルとは恥ずかしく思えてきたので、やはり今の少し残ったすね毛の状態とかでいいのではないか、と思うようにしました。まあ、追加で永久脱毛すれば、また莫大な金がかかるからね。これでいいと、思うようにしました。