死にたい

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死にたいあなたへ贈る、死にたくても死んではならない理由


 死にたい人が、このページを今、読んでいると思われます。詳しいことは一つ前の[自殺したい]に書きました。まあ、このページは、要約すれば、死にたい人に、死んではダメな霊的な理由を教えて、自殺を回避させるという趣旨なのであります。

 という訳で、死後にも生命はある、という根本的な事実を、是非、死にたいと思っているばかりのあなたにも知って頂きたい。面倒な説明なしに、今すぐ直接知りたいという方は、下のリンク先をお読みください。


 自殺の霊的知識

 自殺してはならない霊的な理由


■なぜ死にたいと思うのですか?

 今まで歩んできた人生というのは、人それぞれです。そして今現在、死にたいと思っている理由も、人それぞれでしょう。若くして死にたいと思っている人もおれば、老いてから苦境に立たされて、今、死にたいとばかり思っている人もいるでしょう。

 死にたい理由は、様々でしょう。中年の人がリストラを宣告されて、首吊り自殺や飛び降り自殺で死にたいと思っているのかもしれません。衝動的に鉄道へ飛び込み自殺をするなんてことは、毎日、関東圏のみでも、数件は発生しています。ほぼ毎日、自殺による人身事故は発生しているのです。また、工場の裏手で首を吊って死亡する人とかもいます。

 老年期に入り、金もない、身寄りもない、体も若い時分のように自由には動かない、もうしんどい、死にたい・・・と思っている老人も多数いるでしょう。また、若くして死にたいと思うに至った子供も多数いるでしょう。子供の自殺なんて、年中無休で報道されていますから。苛めが原因かもしれないし、失恋かもしれないし、とにかく衝動的に自殺するケースが後を絶ちません。

 各個人で、死にたいほどの苦しみを背負っているのは理解できます。死にたい理由の内容は知らずとも、その人自身にとっては、死にたいほどの苦しみなのですね。でも、その老若男女の自殺志願者達は、根本的な知識が欠けています。

 それは、[人間が死んだら、どうなるか?]という知識です。別に、遺産がどうのとか、この世に残されたその人の痕跡の後片付けの話ではありません。そうではなしに、死にたい人が自殺で死んだ後の、その人の魂の境遇のことです。果たして、そこまで思いが至っているのでしょうか?

 多分、というか確実に、死にたい人というのは、死後の世界のことなど眼中にはない筈です。とにかく[死ねば楽になれる]とか[死ねば無になるから、今耐えている苦しみから解放される筈だ]という、根本的に間違った思想に染まっているのです。

 つまり、死にたい人というのは、死後の世界の知識を何も所有していないのです。自殺で死ねば、どれだけの悲惨が待っているかということを知識として生前に知っておれば、けっして自ら死のうとはしない筈なのです。死にたいとは思わないでしょう。または、たとえ死にたいと思うようなことが再度発生したとしても、けっして本気で自殺行為は起こさないでしょう。なぜなら、自殺というのは大罪であり、自殺行為で死ねば、死後にその人自身の魂は辛い目に遭うということを確信しているからです。

 地雷を踏むというのは、そこに地雷があるということを認識せずに地雷原に入り込むから、地雷を踏むのですよね。そこに地雷があるのを認識しているにもかかわらず、地雷を踏んで激痛を体感したいという変わり者など、果たしているでしょうか?それと同様に、死にたい人も、自殺すればとんでもなく悲惨な境遇に陥るということを生前に分かっておれば、いくら死にたいと思っていたとしても、自殺を実行することはなくなります。

 では、肝心の[死にたいと思っても自殺してはならない霊的な理由]というのは、つまりどういうことなのでしょうか?


■死にたいと思っても死んではならない理由とは?

 さて、では面倒な説明なしに、いきなり[死にたいと思っても死んではならない理由]の説明に入りたいと思います。

 それには、アラン・カルデック著の[霊の書]の文章を用いて説明するのが適切かと思います。アラン・カルデックとは、19世紀のフランス人で、霊媒に憑依した様々な境遇の霊と対話し、その記録をまとめた人です。そしてこの[霊の書]とは、その中から、高級霊(死後の世界での偉い地位にある霊)の語った崇高な内容をまとめた書物です。ここでは、その中から、自殺に関連する箇所を抜粋して紹介します。


●自殺の結果

問・自殺の結果は、本人の霊の上に、どのように及びますか?

答え・その結果は、個々の場合によって違う。と申すのは、罰が、どのような経過で自殺に至ったか、その状況に応じて色々違ってくるからである。先ず、自殺者全員が等しく受ける罰は、失望落胆これである。他は、それぞれの事情で異なる。自殺者の中のある者達は、死後すぐに誤りの償いをさせられる。他の者達は、償いをするとしても、自分が放り捨てた人生よりも、更に辛い新しい人生で、やり直しをさせられるだろう。

(注解)自殺の結果は個々の場合ですべて違っている、という上記の解答は、観察によって確かめられている。ただし、その中の幾つか、突然に生命を失ったものの場合は、暴力で生命を奪われたものと同じ結果を示している。右の場合の特色は、霊肉を繋ぐ紐が丈夫で切れにくい、切断の瞬間、非常な抵抗を示すことである。これに対し、自然な死の場合は、生命の紐は徐々に弱まり、生命はすっかり燃え尽きる前に、千切れていくのである。暴力的に生命を失った場合の結果の第一は、一般に死後に味わう精神的混乱の期間が永びくこと。第二に、自分は未だ地上で生きているという錯覚を、当分の間持ち続けるということである。霊肉間にある引力のために、自殺者の幾つかの場合、まだ肉体の中にあるような意識をもち、自分は死んだ筈なのに死んでいないので、激しい苦悩と恐怖を経験する。これは本人が自分で縮めた生命の期間ほども続くものである。自殺の結果がすべてこうだとは限らない、しかし、自分で生命を縮めた者は、勇気と忍耐を欠いたことの結果から逃れる訳にはいかぬ。いつかは、何らかの方法で自己の誤りを償わされることになる。実は、ひどく不幸な地上生活を送った霊達が、次のように言っている。自分達はその前世で自殺したということ、それで自ら志願して新しい試練を引き受け、甘んじてこれを耐えたのだということ。ある場合は、自殺したが現世との何かの引っ掛かりが出来ていて、幸福な国を目指しても、道は閉ざされ、徒にもがいているということである。またある場合は、ただ唯あるのは無益な事をしたことの悔恨、それから受取るのは失望ばかり、こういうことである。
 宗教、道徳、及び全哲学体系は、自殺は自然法に反するものとして非難する。その根本原理は、人間には自分の意志で生命を縮める権利はないということである。しかし、なぜ我々にその権利がないのか。なぜ我々は自分の苦しみに終止符をうつ自由をもたないのか。この点、心霊主義は自殺の実例によって、下記のように主張できる。自殺は道徳違反として、間違いであるだけでなく、得るものは何一つなく、更に償いまでしなければならないのであると。この心霊主義の教えは、単に理論にとどまらず、我々の前に展開される事実なのである。

 ★死にたい人への詳しい解説

 自殺という手段は、日本人の場合、自分の命なのだから、自分で好き勝手に捨て去ってもよい、と考えている節がある。対外的には、[自殺はダメです]とカッコつけても、その理由をハッキリと述べられる日本人は少ない。また、宗教の禁忌項目としても、イスラム教やキリスト教では自殺は明確に駄目と規定されているが、神道と仏教では、前者に比べて、それほど自殺は駄目であるという一般的な概念がない。

 しかし、自殺は霊的に見て大罪なのだ。その結果は、悲惨なものとなる。生命というのは勝手に生まれて勝手に死んでいくものではない。神が与えて、神がよしとする時に失われるものであるから、自らの判断で勝手に地上生活の生命を切り上げてはならないのである。


●愛する者を失い自殺

問・愛する者を失った悲しみに耐えきれず、来世で一緒になる期待をもって自殺する者は、望みどおり目的が遂げられますか?

答え・自殺しても、その結果は、期待とは逆になる。愛する人に会えるどころか、この悲しい誤りを犯したために、長期にわたり、目指す相手からは切り離されたままになる。神は、この心根の卑怯、神慮を信じぬ神へ向けられた軽侮、この行為に対しては、いかにも一人よがりの本人の願いに、お応えになる筈はないのである。本人は悲しみの時を短くしようとしたばかりに、却って大きくなった悲しみによって、己が愚行の償いをさせられるのである。かねてよりの望みが叶えられることはないのである。


 ★死にたい人への詳しい解説

 よく後追い自殺なんてする人がいます。しかし、日本の世間の大多数は、霊的知識が無知なので、[あの世で愛する人と一緒になれたね]とか、[天国で○○さんと一緒にずっと幸せに暮らしてね]とか、勝手なことを言う。しかし、現実は違う。後追い自殺をすれば、自殺をしてまで会おうとした愛する者に会えないばかりか、自分自身も、生前に味わった喪失感以上の苦しみを長期間にわたり味わうこととなる。

 霊的知識を知らないということは、平気で恐ろしい愚行を犯す可能性が高い、ということなのだ。


●苦しみの短縮

問・自殺で自分の苦しみを短くしようと、死の淵へ身をさらす者の場合、間違っていますか?

答え・神の定められた死の時を待たないのは、常に誤りである。それに、自分の生命の終りの時が今来ていると、誰に分かるだろうか。自分で最後の時と思っていても、どんな救いの手が現れないとも分からないではないか。

-自殺は、普通の状況では、悪い事は当然のことです。しかし、もう死ぬことが分かり切っていて、ほんのちょっとその時間を早めるだけ、という場合がありますが。

答え・この場合、神の御意思のままに従う、その気持が常に欠けているのである。

-この場合、自殺したら、その結果はどうでしょうか?

答え・他の場合と同様である。自殺した状況に応じて罪の重さが定まり、罪の重さに応じて罪の償いがある。


 ★死にたい人への詳しい解説

 死にたいから自殺する、という人は、もしもその時点で自殺で死ななかったとしたら、とは考えないのだろうか?例えば、借金で苦しんで死にたいから自殺したケースを考えてみよう。その場合、自己破産すればいいだけではないのか?そうすればチャラになるのではないか?物事はごく単純なのではないか?なのに、死にたい死にたいとばかり言って、鬱になって死ぬことばかり考えているから、実際に自殺してしまうのだろう。

 その時点で[もしも死ななければ]という、もう一つの未来もあった筈だ。なぜなら、自分で死ななければ、生きていくという選択肢しかなかったからだ。勿論、自殺せずとも、近日中に他人に殺されたり、事故死したかもしれない。けど、その場合は、自殺した場合とは霊的に見て別の結果が待っていることとなる。

 だから、物事はわりかし単純なのではないか?自殺で死ななければ、とりあえず生きていく未来があった、ということだ。よく、他人の助けを受けるのは恥だという観念で思考が凝り固まった人が、誰にも助けを求めずに、自宅でひっそりと餓死や病死したというニュースを見るが、その人も、役所に積極的に支援を求めていれば、違った未来があったはずだ。要は、心の持ちようだと思うよ。頑固な思考も結構だが、やはり[死にたくても自殺しないこと]が最重要だということだ。


●恐ろしい激情

問・自分で、それが死を早めると分かっている、恐ろしい激情に落ち込んでいる者、しかし、それが習慣になって自分でもどう仕様もなくなっている者、彼は自殺をしているのでしょうか?

答え・彼は精神的に自殺している。この場合は、三重の罪があるという事が、お分かりだろうか。一つは意思の固さが欠けている、二つには獣のようになっている、三つには神を忘れている罪。

-このような者は、絶望で自殺する者より、なにがしか罪が大きいのでしょうか?

答え・この者の罪の方が大きい。と言うのは、自分はまさに自殺といえる道を歩いている事を、反省してみる時間があったのだから。時のはずみで自殺する者がある。この場合、狂気といえなくもないある程度の戸惑いがある事がある。だが、質問の彼は狂人よりずっと罪が重い。なぜかというと、罪の報いである罰は、その犯行をする際の本人の意識がどうだったか、これと常に関係があるからである。


 ★死にたい人への詳しい解説

 突発的に自殺をする者も大罪を犯すことになるが、長期間、長考した後に自殺を選択した者は、もっと大きな罪がある、ということだ。なぜなら、その間、じっくりと思慮する時間があったからだ。これも、唯物主義者や無神論者は、神などいないし、死後は無になると思い込んでいるので、平気で自分の命を軽視する傾向がある。勿論、人生が健康でビジネスも順風満帆に進んでいる時は楽しさや幸せの効用で死にたいなどとは思わないでしょう。しかし一転、人生に暗雲が立ち込めて、やがて暴風雨のような悲惨な状況下になれば、何にも[生きる]ということに対する信念がないので、割と簡単に自ら死を選択する傾向が強い。

 しかし、それは間違いだ。あなたは幸運だ。死にたいからと自殺する前に、この霊的な自殺防止サイトに辿り着けたのだから。中身をよく読んでくださいな。


●早く楽になる為の自殺

問・早く楽になりたいと願って、自殺する者について、どうお考えですか?

答え・これも愚か者の行為である。かような者には、人に役立つ事をさせなさい。そうすればもっと確実に楽に幸せになれる。この者は自殺によって、幸せな国に入る時を遅らすことになる。と申すのは、彼は地上へ逆戻りすることを請い求めることになろう。愚行で切断された人生をやり直すために。善人の聖域は愚行によっては決して開かれることはない、たとえその動機が何であっても。


 ★死にたい人への詳しい解説

 この世の苦しみから一刻も早く逃れたい一心で自殺する人が大半でしょう。未来に何かしら希望があれば、人は死にたいと思っても、なかなか自殺を実行しないものです。しかし、未来に何も希望が見い出せなければ、途端に自殺する確率はグンと上昇してしまうでしょう。それは、何の信念もないからです。つまり、生きる意味を知らないので、生きる意志が、砂上の楼閣の如く脆いのです。だから、愛する者が死んでしまえば、あるいは財産がスッカラカンになってしまえば、割と簡単に死を選択してしまう傾向があるのです。

 そして死にたい者が自殺を実行してしまえば、その愚行の罪滅ぼし、そして前回の人生で中断された目標のやり直しをしに、再びこの地上に、今度は前回よりも更に苦しい立場に身を置いて暮らすはめになることは確実なのです。だから、死にたいからと言って、自殺することは損得勘定の点から見ても、確実に損ばかりなのです。


●恥辱を避ける自殺

問・子供や家族へ恥辱が及ぶのを避ける為、自殺をしたとすれば、これは許されますか?

答え・そのような手段に頼ることは間違っている。しかし、本人がこれが一番良い方法と考えた末での決行なら、神は本人の意図に目を止められる。と申すのは、これが本人が自分に課した罪の償いであるから。彼の誤った行為は、その動機によって情状酌量されるが、それでも罪は罪である。もし、世間から偏見や中傷や陰口が取り払えるなら、自殺はこれ以上増えないだろう。

(注解)悪事をして両目が潰れるのを逃れる為、自殺する者は、神の評価よりも人間の評価に重きを置いている。と言うのは、償いのため現世で自殺をした、その罪の償いの手段のため、不法行為の罪の重荷はそっくり背負ったままで、あの世へ行く破目になるのだから。神は人間より冷酷ではない、神は心から悔いる者を許し給う。我々が過ちを努力して償おうとすれば、これを斟酌して下さる。しかし、自殺をしても何一つ償いとはならない。


 ★死にたい人への詳しい解説

 自殺は常にダメなのである。この前、自作した鹿避けの電気柵により、遊びに来ていた子供や大人が感電して複数人が死ぬという痛ましい事故が発生した。その電気柵を設置した老齢の男性は、その後、自殺してしまった。自責の念に耐えられないので自殺してしまったらしい。また、自分が死ぬことにより、その老人の家族がこれ以上、世間から白い眼で見られるのを防いだとも考えられる。

 日本社会は、犯罪や不祥事を犯した本人が自殺で死ねば、それで責任を取ったことになる、という馬鹿げた考え方が蔓延しているからな。凶悪犯であれ、自殺をすれば、それでもう被害者とはお相子で、罪の償いは終了、みたいな目で見る人が多い。だから、追い詰められた人達は、犯罪者か普通の人かは問わず、容易に自殺を選択するのだ。

 しかし、そんなことで自殺したとしても、自殺するに至った責任は何も消化されずに残ったままである。つまり、カルマとして残り続ける。そしてそれは、来世で返済せねばならないのだ。更に、自殺したという大罪のカルマも発生するので、実は踏んだり蹴ったりなのだ。だから、今回の人生で、自殺に逃げずに、生きて償うという方向性が、一番最短距離でカルマを消化できる道なので、賢明なのだ。


●不法行為の自殺

問・絶望による自殺と同様に、不法行為の恥辱から逃れるための自殺も、非難に値しますか?

答え・不法行為が、自殺によって拭い去られるものではない。それどころか、初めの不法にもう一つの誤りを付け加えることになる。誤りをあえて犯す勇気があったのなら、その不法行為の結末を見届ける勇気があって然るべきである。神は唯一の審判者であり、不法を犯した諸般の事情を考慮して、その不法の罪一等を減じられることもあるのである。


 ★死にたい人への詳しい解説

 自分で犯罪行為を犯しておいて、それが遂に世間に露見するとなったら、その人のそれまで築き上げてきた社会的地位が全部瓦解し、自分も刑務所に長期間服役させられてしまう・・・・そういった状況になるのが確実だとして、その暗い未来から逃れたいが為に、自殺を選択する権力者や犯罪者は多い。

 実際の事例として、以前、自民党の現役農林水産大臣であった松岡大臣は、議員宿舎で首を吊って自殺した。事務所費や光熱水費の偽装、不正な献金問題等があったらしい。それでマスコミに追い詰められて、とうとう自殺してしまったのが真相のようだ。

 自殺したということは、やはり不法行為を働いていたのだろう。しかし、その罪が露見した結果、その罪を堂々と償うという勇気は一切無かったようだ。人生を大きな馬力で切り開く力はあったから、大臣まで上り詰められたのだろう。しかし、それとは真逆の事態の、転落する人生を受け入れる勇気は無かったのだ。だから、彼は自殺に逃げたのだ。

 死人に口無しなので、反論したくても、出来ないのだ。だからこそ、ちゃんと罪の償いは[生きて]せねばならないのだ。自殺すれば全ての罪がチャラになる、世間からの冷たい視線も、同情の視線に変わる筈、だと勘違いしている人が多すぎる。霊的な観点からは、自殺することは、不法行為を犯したカルマは一切解消されずに、更にそこに自殺したという大罪のカルマが加わるだけだ。それが来世にズドンと加重され、来世は何らかの厳しい条件で生きていかねばならなくなるのだ。


●絶望の挙句の自殺

問・自殺する者は、逆境と闘い、絶望の挙句自殺したのだと、こう考えることは出来ませんか?

答え・そういう自暴自棄が自殺なのである。だが、自殺に追い込んだ人物、すなわち、もしかしたら自殺させずにすんだ人物は、自殺した本人より罪が重い。従って、本人は寛大に裁かれよう。とは申しても、彼に何の罪とがないわけではない。もし、彼が堅実さと忍耐に欠けていたのなら、困難を乗り切るため知恵を奮ってベストを尽くさなかったのなら。それにまた、もっと罪のある場合がある。プライドが邪魔をして知恵を働かさなかったとか、肉体労働で生計をたてるのを恥としたとか、社会的地位をおとすくらいなら飢えた方がましだと、そういう考え方をしたのだったら。逆境にめげずこれを耐え、つまらぬ利己的な悪意の批判を物ともせぬ、そういう姿勢の中にこそ、百層倍の高貴さと真実の威厳があるのではなかろうか。つまらぬ悪意の陰口を叩く者共は、少しも困ってない人には善意を示しても、本当に困っている人には手も差し出さない、そういう手合なのだ。こういう輩のあれこれの為に、生命を断つなどは二重に馬鹿げている、死んだからといって、彼等は鼻も引っかけない、そういう事を見ればね。


 ★死にたい人への詳しい解説

  これは、苛めで自殺するケースにピッタリと当てはまることかもしれない。苛められて絶望し、電車に飛び込み自殺する、あるいは首吊り自殺する。こういったケースは一か月に一度は必ず報道される程度の頻度で発生している。勿論、話題にもならない子供の自殺も多数発生している。

 このケースでは、勿論苛めた加害者の子供が一番悪いのは明白だ。本人達は、まだ子供だということで、少年法でも守られるし、世間からの視線も大人に比べて緩やかなものだろう。しかし、これは、同様のことを大人がすれば、重罪で確実に懲役刑になるような案件なのだ。それが、子供というだけで、少年院に少し入る程度で済むのだから、加害少年に過保護過ぎると言われても仕方があるまい。本人達は「糞ムカつくアイツが死んで清々したわ、アハハ!」などと思っているかもしれない。しかし、神の視点からすれば、そいつらには、物凄いマイナスのカルマが加算され、将来的に必ず跳ね返ってくることとなっているのだ。だから、結局は、加害者は大損だということだ。しかし、そのカルマの理論は明確に科学では証明できないので、呑気にしているだけだ。

 しかし、苛められて自殺した被害者の子供に関しても、何の罪もない訳ではない。やはり自殺は大罪なのだ。本人は自殺が、自分が今味わっている苦境から脱出する唯一の手段だと思い込んでいたのかもしれぬ。しかし、そうではない。けっして、自殺が唯一の解決手段だ、なんてことはない。むしろ、最悪な手段なのだ。なぜなら、自殺をしても、何も解決したことにはならないのだから。本人が自殺霊となり苦しむのみだから。

 だから、積極的に助けを求めねばならない。学校の先生が使えないのならば、警察とか、警察がダメなら役所とか、その他、子供向けの電話相談とか、児童相談所とか。私はよく知らないが、とにかく片っ端から使えそうなところは利用せねばならない。そして、[逃げる]ということも、全然卑怯ではないのだ。[生きる]ということから自殺で逃げることは卑怯だが、生きていく上で、一時的にその辛い事態から逃げることは、別に生きる為の手段として、全然卑怯ではない。徳川家康とか、織田信長とか、マッカーサーとかも、人生のピンチの時は、とっとと逃げているぞ。で、その後、体勢を立て直して、挽回するのだ。だから、一時的に逃げるのは、全然OKなのだ。

 これは、過労自殺にも言える。なんで、生きていく為に仕事をしているのに、仕事が原因で自殺を選択するのか?矛盾しているではないか?生きていく為の金を稼ぐのが仕事なのに、その仕事のせいで自殺するとは、これいかに?しかも、そういったブラックな職場は大抵、低賃金なので、他にいくらでも同額以上の給与を稼げる職場はあるのだ。

 また、オフィス勤務のホワイトカラーが、不景気でリストラに遭い、もう他のホワイトカラーの職場に就職する当てがない・・・だから自殺します・・・というのもダメだ。それならば、低賃金のブルーカラー、つまり肉体労働者になればいいのに。でも、今更、肉体労働なんて恥ずかしくて出来るか!みたいな考えで、自殺してしまう者もいる。でも、それは間違いだ。別に何も恥ずべきことではない。

 テレビとか世間では、そういった人を見下す傾向もある。しかし、世間なんて、無視すればいい。自分の人生なんだから。仕方がない時は、仕方がないのだ。肉体労働者を見下すような者達は、中年の人が正社員の職が決まらずに、仕方なくバイトで一時的に糊口をしのぐ姿を嘲笑するような奴らは、クソ野郎なのだから。そんな人間のクズ共は無視しなければならない。そんなバカ共の視線や嫌味を一々気にしていたら、生きていけないよ。ある程度は精神を図太くせねば、この社会福祉政策が細い日本国では生きていけないよ。ここは福祉先進国のデンマークではないのだから。


●自殺に追い込んだ者の責任

問・人を自殺に追い込んだ者達には、その責任はないでしょうか?

答え・ある。しかもその罪は甚だ重い。何故なら、これは殺人である。彼等はその責任を負わねばならぬ。


 ★死にたい人への詳しい解説

 人の作った法律は欠陥だらけです。包丁で直接刺し殺せば、正当防衛でない限りは、確実に懲役刑なのに、相手をネチネチ苛めて攻撃して自殺に追い込んだ場合は、それよりもはるかに軽い罪で済むか、無罪で済むという。

 しかし、神の視点からは違います。人間が許しても、神の視点からは、ちゃんと罰を受けるに値する犯罪となります。だから、その責任は必ず、将来、その者の人生に、カルマとして降りかかるでしょう。たとえ今回の人生の内に降りかからずとも、死んで霊界に行ってから、確実に責任は取らされます。だから、相手を自殺に追い込むような暴言など、控えましょう。


●自殺に逃げ道を求める者

問・ この世の苦しみや失望から、自殺に逃げ道を求める者達を、どうお考えですか?

答え・彼等は人生の些細な苦悩を耐える勇気を欠いた、弱虫である。神は勇敢に耐える者には手を貸し給う、勇気も強さも持ち合わさぬ者達には力を貸し給わぬ。人生の艱難辛苦は試練であり、罪の償いである。黙って耐え忍ぶ者は幸いである。彼等に返って来るものは大きい。他方、自分の幸福を偶然や運に期待する者は、不幸である。偶然や運は、彼等の言い草ではないが、一寸の間は按配が良い。だが時が経てば、その言葉の虚しさが、一層手厳しく思い知らされるだけ。


 ★死にたい人への詳しい解説

 つまり、自殺は駄目なのです。要は、考え方を少し転換すれば、生き易くなるのではなかろうか?人間は最高峰の他人と比較する癖がある。俺だって、未成年でサッカーの世界でスーパースターとして活躍しているような奴を羨ましいと思うことはある。なんでただ球蹴りが上手なだけで偉人扱いなのか、本当に不思議なのですが、今の世の中は、サッカーボールの扱いが上手な奴は大金が稼げて偉人ということになっているようです、この人間社会では。だから、性格が最悪でも、サッカーボールの扱いさえ上手ならば、偉人なんだってさ。

 しかし、そんな奴らと比較しても仕方がない。俺の人生は俺の人生なのだから。俺の人生の課題は、今ズバリ、自分が生きている人生の中にあるのだから。俺も色々と辛いことだらけだよ。でも、生きることは義務なので、生きているのだ。自分を制御できずに散財してしまうけど、それでも生きていくしかない。理想はあくまで理想であり、現実は今、この瞬間なのだから。だから、俺は今後も、俺の人生が辛くても、とりあえず生きていくから。


●厭世自殺

問・ 厭世自殺をする人達、これはどう考えたらよろしいですか?

答え・愚か者よ!なぜ世に役立つ仕事をしようとしないのか?そうすれば、人生とは一向に退屈なものにはならぬだろうに。


 ★死にたい人への詳しい解説

 厭世自殺、つまり、この世で生きることが嫌になって自殺することですね。特に何も理由がなくとも、もういいや、みたいな感じで、自殺を選択するバカもいます。けども、それも当然、大罪です。

 そんな人は、私のように、人の役に立つ仕事をしてみてはどうでしょうか?私も、今、こうして無償で自宅のパソコンで、文章を入力しています。これも、見ず知らずの、赤の他人の自殺志願者を救おうという目的からしているのです。別に、金が儲かるわけでも、何らかの現世的な見返りがあるわけでもないのです。でも、人の役に立つというのは、実に誇らしいことです。もしも、現時点の私が、今までの人生で何も人様の役に立ったことがなかったとしたら、そして霊的知識も知らなかったとしたら、厭世自殺を遂げてしまっていたかもしれません。

 でも、自殺は駄目です。なぜなら、生きる事は義務だから。


●自殺と自由意志

問・自殺は常に自由意志から出るのですか?

答え・自殺をする狂人は、自分のしていることが自分に分かっていない、ということである。

 ★死にたい人への詳しい解説

 まさしく、この通りです。自殺者は、自殺するということがどれほどの大きな間違いなのか、全く理解していなかった。だから、死にたい死にたいと言って自殺してしまった。そして、今、自殺霊として苦しんでいる、という訳です。

 あなたは幸運です。今、こうして自殺する前に、霊的知識に触れられているのですから。


●自分の命を絶つ権利

問・人間には自分の命を絶つ権利がありますか?

答え・いや、その権利は神にのみある。我意によって自殺する者は、彼を地上に送った神の命に背くものである。


 ★死にたい人への詳しい解説

 よく日本人は、自分の命は自分のものなのだから、自殺で命を絶つのも自分の自由の範疇だ!と主張する人がいます。しかし、それは間違いです。自分の命は自分のものではありません。あくまで、神が与えた命なのですから、自然に寿命を全うするまでは、生きるべきです。

 勿論、必ず老衰で死ぬというわけではありません。末期癌とかの病気で死ぬかもしれないし、交通事故で死ぬかもしれないし、誰かに殺されるかもしれない。しかし、自殺で死ぬのとは違い、それらは自分の意志で死ぬわけではないのだから、いいのです。

 とにかく、自殺で死ぬということは、霊的知識の観点からして、100%の間違いなのですから、人生の最期まで生き抜くべきです。誰かの助けを得てもね。


■死にたいと思っても死ぬなよ!

死にたくても、死んではならないぞ!

 とにかく、これまで様々な[死にたいと思っても自殺してはならない霊的な理由]を紹介してきました。しかし、これらはあくまでも、霊的知識全体のほんの僅かな量でしかありません。より理解を深めるには、各々で積極的に、自主的に霊的知識を学習していく他はありません。

 とりあえず、死にたいあなたは、[自殺の霊的知識]に限って、全て読破することをお勧めします。その後、[自殺の霊的知識]以外の霊的知識にも手を広げるべきだと思います。

 最後に、死にたいと思っても、絶対に自殺はしてはならないよ!


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 自殺してはならない霊的な理由

 
       
       
自殺してはならない霊的な理由 自殺志願者は、まず[自殺の霊的知識]を読んで!
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