現世に存在する苦しみの原因

四、
人生の苦しみには二通りあります。言い換えるならば、二つの全く違った種類の原因があります。一種類目の原因とは現世の中にあり、もう一種類は現世以外のところに存在します。
 地球上で私達が体験する苦しみを遡れば、その原因の多くは苦しんでいる人自身の性格、或はその人自身の行いの中にあることが分かります。
 しかしそれでは、どの位の人が自分自身に原因があるということを認めることが出来るのでしょうか。どの位の人が自分自身のプライド、野心、不注意の犠牲となっているのでしょうか。
 どの位の人がその規律の無さ、根気の無さ、不適切な行動、きりの無い欲求によって惨めな思いを強いられているのでしょうか。
 本心を無視し、私欲、虚栄心の計算の下に結ばれ、不幸を迎える夫婦が何組あるでしょうか。もう少し慎重に行動し、怒りをこらえることを知っていれば、何組もの不和、口論、致命的な言い争い、離別を防ぐことが出来たのではないでしょうか。
 不節制や、全てにおける行き過ぎた行いがどれだけの身体が不自由な状態や病気をもたらしているでしょうか。幼い時からのしつけを怠った為に、子供との関係が上手くいかなくなってしまった親が何人いるでしょうか。
 子供に対する弱さと無関心が子供の中に自惚れやエゴ、虚栄心の種を植え付け、乾いた心をつくってしまうのです。暫くして、その植え付けた種を収穫する時、親に対し尊敬を欠いた恩知らずな子供を見て驚き悲しむのです。
 人生の変遷による失望によって心を傷付けられた者は、自分自身の良心に問うてみてください。あなたの苦しみの原因を一歩一歩辿って行けば、殆どの場合、それがあなた自身の中に存在することを知り、「これをやっていなければ」とか「あれをやっていればこんなことにはならなかった」などとは言うことが出来なくなるでしょう。
 自分自身のせいでないとすれば、一体誰のせいで苦しまねばならないというのでしょうか。人間はこのように、殆どの場合、自ら自分の不幸の主要原因をつくっているのです。しかしながら、実際はその人自身の怠慢であるのにもかかわらず、自分の自尊心が傷付かないように、そのことを認めずに、運命や神、チャンスの不足のせいにしたり、或は、星とは自分の不注意であるにもかかわらず、星などのせいにしてしまった方がより容易なのです。
 こうした態度は、必ず人生の中に無数の苦しみを生み出すことになります。人間は、その道徳的・知性的な自己の改善によってのみ、これらの苦しみから逃れることが出来るでしょう。

五、人間の法律は悪に応じて罰を与えるようになっています。悪を働き処罰される者は自らの行った悪行の報いを受けることになります。しかし、法律は全ての悪や罪を扱えるわけではありません。法律は社会的な損害を与える罪を処罰するように出来ており、過ちを犯す者個人に損害をもたらす罪を処罰するようにはなっていません。しかし、神は全ての人間の進歩を見守ってくれています。ですから、正しい道から逸れると、どんな小さな過ちであっても神は罰するのです。いかに小さな過ちであったとしても、神の法に反していれば、多かれ少なかれ、避けることの出来ない悲しい結果を必ず得ることになります。小さな罪であれ、大きな罪であれ、人間はその犯した罪に応じて罰せられます。だから、罪を犯した結果として現れる苦しみは、罪を犯したのだという警告なのです。苦しみはその人に善悪の区別を体験として教え、将来の不幸の源となり得るものを改める必要性を教えてくれるのです。そうした動機がなければ、人間は自分を改めようとはしません。罰は与えられないのだと信じていれば、その人の向上は遅れ、更に幸福な人生への到達も遅れてしまいます。
 そうした改善の必要性を認識させてくれるような経験は、時には少し遅れて来ることもあります。生命が既に消耗され、混乱に陥り、苦しみが最早その人を向上させる為には効力を持たなくなった時、人は概してこう言います。「もし、人生のスタートからこうなることを知っていたら、どれだけの過ちを未然に防ぐことが出来ただろう。もし、やり直すことが出来たら、私は全く別の生き方をしていただろうに。でも、もう時間はない!」。その人は、怠惰な労働者が、「今日も何もせずに一日が終わってしまった」と言うように、「人生を無駄にしてしまった」と言うことになるでしょう。しかし、その翌日、労働者の頭上にはまた太陽が輝き、新しい日が始まり、失った時間を取り戻すことが出来るように、人生においても、墓の中で過ごす夜が過ぎると、新しい太陽が輝くのです。その新しい人生の中で、過去の経験や、未来へ向けて固めた決意を生かすことが出来るのです。