神があなたを赦してくれるよう、あなたは人を赦しなさい

一、憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受けるからです。
(マタイ 第五章 七)

二、もし人の罪を赦すなら、あなた達の天の父もあなた達を赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなた達の父もあなた達の罪をお赦しになりません。(マタイ 第十八章 十五)

三、もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たことになります。(マタイ 第十八章 十五)

 その時、ペテロがみもとに来て言った、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。イエスは言われた、「七度まで、などと私は言いません。七度を七十倍するまでと言います」。(マタイ 第十八章 二十一、二十二)

四、憐れみ深くない者は、温和で平和を愛することが出来ないことから、憐れみとは温和さを補足するものであると言えます。憐れみは他人の過ちを赦し、忘れることによって成り立ちます。憎しみと怒りは、その魂が小さく、気高くないことの表れです。攻撃を忘れることは高貴な魂だけに属するもので、そのような魂は、人がその魂に対して行おうとした悪を高所から眺めることが出来るのです。一方は常に落ち着くことがなく、悲しく苦しい感覚です。他方は落ち着いた、慈善と温和さに満ちた感覚です。
「断じて赦すことは出来ない」と言う人は不幸です。なぜなら、その人は人間によっては非難されないとしても、必ず神に避難されることになるからです。自分自身が他人を赦すことが出来ないのに、自分の過ちを赦してもらう権利があるでしょうか。兄弟を赦す時、七度までではなく、七度を七十倍するまで赦しなさいと言うことによって、イエスは、憐れみは限りないものでなければならないと教えています。
 しかし、赦し方には違った二つの方法があります。一方は偉大で高尚な、真なる寛大さによって、いかなる下心も持つことなく、その責任の全てが相手にあったとしても、その人の自己感情と感受性を傷付けないように優しく扱います。もう一方の方法は、攻撃されたり、攻撃されたと判断すると、相手に屈辱的な条件を強要し、赦したことの重圧を感じさせ、それによって安心を与えるのではなく、苛立ちを与えることになります。手を差し伸べるのは善意からではなく、見栄によってであり、そうすることにより皆に対し、「私がなんと寛大であるか見るがよい」と言います。このような場合、いずれの側にとっても誠実な和解をすることは不可能です。それは全くの寛大さではなく、自尊心を満足させる為の手段でしかありません。どのような争いにおいても、和解を求めて、自分自身の利害に構わず、慈善と真なる魂の偉大さを見せる者が、必ず公平な人々の同情を得ることが出来るのです。