善行

十一、
友よ、善行はあなた達に最も純粋で甘い喜び、つまり、後悔にも無関心にも邪魔されることのない心の喜びを与えてくれます。ああ、美しい魂達の持つ寛大さが、どれ程偉大で柔らかいものであるのかを理解することが出来れば、その感覚は、自分自身を見つめる時と同じように他人を見つめることが出来るようになり、そのことによって、兄弟に衣服を与える為に自分の服を脱ぐことが出来るようになります。友よ、他人を幸せにするということだけに身を捧げることが出来たなら。神の代理人として、辛さと苦しみばかりの人生しか知らない家族に喜びを届けることが出来た時、彼等の苦しめられた表情が、途端に希望に輝くのを見た時の喜びは、地上のどんな宴にもたとえることは出来ません。なぜなら、食べる物にも不足した不幸な彼等は、「お腹が減った」という、鋭い刃物のように母親の心を突き刺す言葉が、生きることが苦しむことであることをまだ知らぬその子供達によって、繰り返し泣き叫ばれるのを聞いたことしかなかったからです。おお、その時、一寸前には失望しか感じていなかった者に再び喜びが生まれるのを見た時に受ける印象が、どんなに素晴らしいものか理解しなければなりません。あなた達があなた達の兄弟との間に持つ義務を理解しなければなりません。不幸な者達に会いに出かけてください。中でも、より苦しみの大きい、目立たぬ不幸の救済に出かけてください。愛する者達よ、救い主の次の言葉を心に抱き出かけて行ってください。「これらの小さい者達に服を着せる時、あなたは私を通じて服を着せているのです」。
 慈善。全ての美徳を一つに纏める崇高な言葉よ、それが人々を幸せに導くのです。慈善を実践することにより、その人は自分自身の未来における無限の喜びを創っているのであり、地球上に追放されている間は、やがて後に愛に溢れる神のもとに集まる時に受けることが出来る喜びを、試しに味わうことで慰安としているのです。神なる美徳よ、地上で満足を味わうことの出来た唯一の時を与えてくれたのはあなたでした。肉体を持って生きる私の兄弟達よ、「人生の苦しみの為の薬となる、心の安らぎ、魂の喜びは、慈善の中に求めなさい」と伝える友の声を信じてください。おお、神を非難しそうになった時には、あなた達よりも下方に目を向けてください。和らげてあげるべき不幸がどれだけあることか、家族を持たぬ子供達がどれだけいることか、死が訪れた時、親しい助けの手を誰からも差し伸べられることなく目を閉じていく老人がどれだけいることか見てください。やらなければならない善が、何と多く存在することか!おお!不平を言ってはなりません。反対に、神に感謝し、あなた達の同情、あなた達の愛、あなた達のお金を、この世の富を受け継ぐことが出来ず、苦しみと孤立に衰弱した者達全ての為に、精一杯費やしてください。この世で最も甘い喜びを感じることが出来るようになり、又、その後には-それは、神のみが知っているのです。(アルジェルの司教アドルフ ボルドー、1861年)

十二、「善を行い、慈善的になりなさい」。これが、あなた達の手の中に握られた天に入る為の鍵です。永遠の幸福は、どれもが「お互いに愛し合いなさい」という戒律の中に含まれているのです。魂は、隣人への献身なしに霊的に高い次元へ昇っていくことは出来ません。魂は、慈善の衝動の中にのみ幸運と慰安を見つけることが出来るのです。善人となり、あなた達の兄弟を助け、恐ろしいエゴイズムの傷を捨て去りなさい。この勤めを遂げることが出来れば、永遠の幸福への道が開かれます。更に、美しい献身の行動や真の慈善の行動が語られるのを聞いて、歓喜と内なる喜びによって心が打ち響くのを未だに聞いたことがない人が、あなた達の間にどれだけいるでしょうか。もしあなた達が、善を行うことがもたらす快楽だけを求めることが出来れば、いつも霊的成長の道を歩むことが出来るでしょう。模範に事欠くことはありません。意欲を見るのが稀なだけなのです。あなた達の歴史は、大勢の善人達の慈悲深い思い出を守っているのだということを覚えておいてください。
 イエスは、愛と慈善に関することを全てあなた達に伝えませんでしたか。なぜ神からの教えを軽んじるのですか。なぜ神からの言葉に耳を閉ざし、そこにあるあらゆる善なる規律に心を閉ざすのですか。私はあなた達に、もっと福音の朗読に感心を持ち、それをもっと信じて欲しいと思います。それなのに、あなた達はその本を軽んじ、中身のない言葉の倉庫であるかのように考え、封の切られぬ手紙のように扱い、その見事な法のことを忘れ去ってしまいます。あなた達の悪は全て、その神の法の要約をあなた達が自ら放棄することによって生まれるのです。イエスの献身を伝える頁を読み、それを学んでください。
 強い者達よ、お互いに愛し合ってください。弱い者達よ、あなた達の温情、信心をあなた達の武器としてください。人の心を動かし、いつもあなた達の新しい教義を広めるようにしてください。私達がやって来たのは、あなた達に勇気を与える為です。神によって託された為にこうして私達は現れ、あなた達の熱望と美徳を刺激しに来たのです。しかし、一人一人が望むのであれば、各々の意欲と神の助力で事足りるのです。霊現象は、目の閉じた人、不従順な心の持ち主の為にのみ起きるのです。
 地上のあらゆる美徳は、慈善という根本的な美徳がその礎とならなければなりません。慈善という美徳なしに、他の美徳は存在し得ません。慈善なしには幸運を期待することも出来なければ、慈善のない道徳的な手引きというものも存在しません。慈善なしには信仰心も存在しません。というのも、信仰心とは慈善に満ちた心を光らせる、純粋な輝きのことに過ぎないからです。
 慈善はどの世界においても、永遠の救いの支えです。創造主の放つ最も純粋な放射です。慈善は被造物に与えられる創造主の美徳そのものです。この至上の神意を私達はどうして軽んじることが出来るでしょうか。そのことを知りながら、自分の中にある慈善を妨げ、神からもたらされるこの感情を退ける程非道な心を持っているのは誰でしょうか。慈善、この甘い慈善に反抗する程悪い息子となっているのは誰でしょうか。
 私が行ってきたことについては、敢えて言うつもりはありません。なぜなら、霊達も自分達が行ってきたことに対して恥ずかしい気持ちを抱くからです。しかし、私が始めたことは、あなた達の同胞達の慰安に最も貢献することの一つであったと考えています。私が行ってきたことを引き継ぐ任務が、責務として自分に与えられることを霊達が願うのをしばしば見ることが出来ます。神の慈悲深い任務についている、親愛なる情け深い兄弟、姉妹達の間にそうした霊達を見ることが出来ます。彼等は犠牲と献身のみがもたらす喜びを感じながら、私があなた達に勧める美徳を実践しています。彼等の状況がどれだけ敬意に値し、彼等の果たす任務がどれだけ守られ、尊ばれているかを見ることは、私の計り知れない喜びです。善意に満ちた堅実な意欲に溢れる善人達よ、力を合わせ、慈善を広める事業を大々的に継続してください。この美徳を実践することにより、あなた達の為の報酬を見つけることが出来ます。現世を生きる内から現れることのない霊的な喜びは存在しません。力を合わせ、キリストの教えに則ってお互いに愛し合ってください。そうありますように。(聖ヴィンセント・デ・パウロ パリ、1858年)

十三、人々は私のことを「慈善」と呼びます。私は神のもとへ続く本道を歩んでいます。私について来てください。あなた達の全てが心がけるべき目標を知っているからです。
 今朝、いつもの散歩に出かけて来て、心が悲しくなり、あなた達に次のことを伝えにやって来ました。おお、友よ。貧困、涙、それら全てを拭おうにも、その何と多いことでしょうか。無駄だとは思いながらも何人かの可哀想な母親達を慰めようと、彼女たちの耳元で囁きました。「勇気を出してください。あなた達のことを見守る善き心を持った人々がいるのですよ。あなた達は見捨てられることはありません。辛抱強くいてください。神はそこにいるのです。あなた達は神に愛され、神に選ばれたのです」。彼女達には私の声が聞こえたようで、驚きに目を丸くして私の方へ向きました。彼女達の外見から、霊を束縛する彼女達の肉体は飢えていることが分かります。私の言葉は確かに彼女達の心を静めたでしょうが、彼女の空腹を満たすことは出来ませんでした。彼女達に向かって繰り返しました。「勇気を持ってください。勇気を出してください」。すると、子供に母乳を飲ませていたまだ若い一人の哀れな母親は、痩せた胸から十分な栄養を得ることの出来ないその小さな命を私に守って欲しいと願うかのように、その子を腕に抱え、空に向かって差し出したのでした。
 友よ、別の場所では、仕事を失った老人達が、遂には家もなく、貧困のあらゆる苦しみに縛られながらも、その惨めさを恥じて物乞いなどしたことがない為に、道行く人々の慈悲を懇願しているのを私は見ました。私は何も持ってはいませんが、心が同情で一杯になり、彼等の為に物乞いとなって、寛大で情け深い人々の心に善い思考を持ってもらおうと、あらゆる場所へ行き人々の善意を刺激して回りました。友よ、その為に私はここへ参り、あなた達に伝えに来たのです。「家に食料もなく、かまどに火をつけることも出来ず、寝床には毛布もない可哀想な人々がその辺に沢山います」。私はあなた達に何をするべきかは申し上げません。あなた達の善なる心の自発性に任せます。私がその方法をあなた達に教えたとしたら、あなた達の善行は何のメリットももたらさなくなってしまいます。次のことだけを申し上げます。「私は慈善であり、私はあなた達の苦しむ兄弟達の為に手を差し延べます」。
 しかし、頼むこともあれば、与えることもあり、与える時には多くを与えます。あなた達を大きな宴に招き、あなた達の全てを満足させることの出来る木を提供します。その木がどれ程美しく、どれ程多くの花が咲き、実を結んでいるか見てください。行きなさい。行きなさい。善意という名のこの偉大なる木がもたらす果実を全て収穫することが出来るように。あなた達が実を収穫したその枝に、私はあなた達が行って来た全ての善行を括り付け、その木を神のところへ持って行きます。すると神は、再びその木を沢山の実で茂らせてくれます。善意は尽きることがないからです。友よ、私の掲げる旗に従う者達の内に数えられるように、私について来てください。恐れることはありません。私はあなた達を救いの道へと導きます。なぜなら、私は「慈善」だからです。(ローマで殉教したカリタ リヨン、1861年)

十四、慈善を行うことを、あなた達の多くは、施しを与えることばかりだと間違えていますが、実際には様々な方法があります。そしてそれらの間には大きな違いがあります。友よ、施しは、貧しい者達の負担を軽くするという意味で、時によっては大切です。しかし、それは殆どの場合、施しを与える側にとっても、受け取る側にとっても屈辱的です。慈善は、逆に、与える側と受け取る側とを結び付け、様々な見えない形で実践されているのです。家族内で、又は友達同士でも、お互いに寛大になり、相互の弱みを赦し合い、誰の自尊心をも傷付けないようにすることによって、慈善的になることが出来ます。あなた達スピリティストは、あなた達と同じように考えない人達に対する接し方で、相手に衝撃を与えたり、彼等の確信していることに対して攻撃するのではなく、私達の集会に親切に誘って、私達の考えを聞いてもらい、彼等の心の中に私達が入って行くことの出来る入口を見つけることによって、慈善的になることが出来るのです。これも慈善の一つのあり方です。
 今度は、貧しい人達、富を受け継ぐことの出来なかった人々に対する慈善とはどういうものかを聞いてください。彼等は、自分達の貧困を不平を言うことなく受け入れることが出来れば、神に報われることになりますが、そのように出来るかどうかはあなた達にかかっているのです。そのことを例を用いて明らかにしてみましょう。
 毎週、あらゆる年代の女性が参加するある集会を私はよく見ます。私達にとって、ご承知の通り、彼女達は皆姉妹です。何をしているのでしょうか。忙しそうに、とても機敏に働いています。指を早く動かしています。彼女達の心が一つとなって鳴り響き、彼女達の表情が何と楽しそうであるか見てください。一体何の目的で彼女達は働いているのでしょうか。冬が近づき、貧しい家々には生活の厳しさが増していきます。夏の間、忙しく蟻のように働いても必要なだけの蓄えをすることが出来ず、殆どの道具が質に入れられてしまっているのです。可哀想な母親達は、この冬の季節の間に寒さと飢えに苦しむであろう子供達のことを思って心配し、泣いています。不幸な女性達よ、どうか忍耐強くいてください。神はあなた達よりも、より多く富の分配を受けている人達の感情に訴えたのです。彼女達は集まり、衣服を作っているのです。後日、そのうち雪が地表を覆い、あなた達がそのいつも苦しむ身の口から「神は不公平だ」とこぼす時、貧しい人々の為に働くことを自任した、この善なる働き手達の一人が現れるのを見ることが出来るでしょう。彼女達がそのように働くのはあなた達の為であり、あなた達の苦しみは祝福に変わります。なぜなら、苦しむ者の心の中には、憎しみの直ぐ後ろに愛が潜んでいるからです。
 これらの働き手達には元気付けが必要ですが、彼女達のところには、善霊達からの通信が、あらゆる方向から届いているのを見ることが出来ます。この会には、活動に参加する男性達も協力し、それらの朗読を行って人々を喜ばせます。そして私達霊は全ての人々の熱意に、それも一人一人に対して応えることが出来るように、そのような働き手達に祝福という、天の国で唯一流通する貨幣によって、即金で支払う善い顧客を連れて行くことを約束し、そればかりではなく、彼等にとってその貨幣が欠くことがないよう、間違いなく保証致します。(カリタ リヨン、1861年)

十五、親愛なる友達よ、私はあなた達が、「私は貧乏だから、慈善を行うことは出来ない」と言うのを毎日聞き、あなた達が同胞達に対して寛大さを欠いているのを毎日見ています。あなた達は何を赦すこともなく、とても厳しい判事であるかのように取り澄まし、自分に対してそのように振る舞われたら満たされるかどうかなど考えようともしません。寛大であることも慈善ではありませんか。寛大になることによってのみ慈善を行うことが出来るあなた達は、それを広く行わなければなりません。物質的な慈善については、一つ別の世界での話をしましょう。
 二人の人がたった今亡くなりました。「この二人が生きている間、一人一人の善行を別々の袋に入れ、亡くなった時に、その袋の重さを量ることが出来るようにしてください」と神は言ってあったのでした。二人が最後を迎えると、神は二人の袋を持って来させました。一方の袋は大きく膨らみ、一杯に詰まった金が袋の中で鳴っていました。もう一つの袋は小さく、殆ど空っぽで、中に入っていた硬貨を数えることが出来ました。一人が言いました。「この袋が私のだ。見れば分かる。私は金持ちであった為、多くを人に与えることが出来た」。もう一人が言いました。「こっちの袋が私のです。私は貧乏で、人と分け合うものを殆ど持っていませんでした」。しかし驚いたことに、二つの袋を秤にかけると、大きく膨らんでいた袋の方が軽く、もう一方の袋の方が重いことを示し、殆ど空っぽだった袋が、最初の大きく膨らんだ袋の乗った天秤の皿を高々と持ち上げたのでした。すると神は金持ちに言いました。「あなたは確かに多くを与えました。しかし見栄を張り、自尊心を奉る寺院にあなたの名前が現れるようにする為に与えました。更に、自分自身で何を失うこともなく与えました。左側へ行き、僅かな施しに満足しなさい」。次に、貧しい者に言いました。「友よ、あなたは少ししか与えませんでした。しかし、秤にかけられているこれらの硬貨の一枚一枚は、あなたが自分から無理矢理奪って与えたことを示しています。あなたは施しを与えることはなくても、慈善を行い、何よりも価値があるのは、そのことが自分の為に数えられるかどうかなどと考えることもなく、慈善を自然に行ったことです。あなたは寛大で、同胞のことを勝手に判断することはありませんでした。反対にあなたの全ての行いは同胞を赦すものでした。右側へ行き、あなたの報酬を受け取りなさい」。(ある守護霊 リヨン、1861年)

十六、家の仕事に時間を費やす必要のない、ある裕福で幸運な女性は、同胞達の役に立つ仕事の為に、幾らかの時間を費やすことが出来ないでしょうか。娯楽に費やすお金の残りで、寒さに震える不幸な者達の為に上着を買ってあげてください。その繊細な手で、粗末でも温かい服を縫ってあげてください。生まれて来る子供に服を着せようとしている母親を手伝ってあげてください。そうすることによってあなたの子供を飾るレースの飾りが少なくなったとしても、貧しい母親の子供は身体を温める衣類を得ることが出来るのです。貧しい者達の為に働くことは、神のぶどう園で働くことです。
 貧しい職人であるあなたは、余剰の富を持っていなくても、兄弟達に対する愛に満ち、少ない中からでも何かを人に与えようとするのであれば、所持する唯一の宝であるあなたの時間の内から、一日の何時間かを与えてください。裕福な人達を引き付ける優雅な細工をつくるのです。夜業の成果を売れば、あなたの兄弟達を助ける為に、あなたの役割を担うことが出来ます。細工に用いるリボンの数は何本か減るかもしれませんが、裸足で歩く者に靴を与えることが出来るでしょう。
 そして、神に人生を捧げたあなた達女性も、あなた達に出来る仕事をしてください。しかし、あなた達の仕事は、あなた達の能力と忍耐力によってあなた達の注意を引く為に礼拝堂を飾るばかりではいけません。娘達よ、あなた達の仕事の生産物は、神の前にいるあなた達の兄弟達を助けることに向けられるのですから、大いに働いてください。貧しい者達は神の愛する子供達です。彼等の為に働くことは神を讃えることです。「空を飛ぶ鳥達に神は食物を与える」という神の言葉のようになってください。あなた達の手の中で編む金と銀を、衣類や食物を得ることが出来ない者達へのそれに変えてください。それを行えばあなた達の仕事は祝福されます。
 生産することが出来る者は皆、与えてください。あなたの才能を、あなた達の閃きを、あなた達の心を与えてください。そうすれば神はあなた達を祝福します。世俗的な人々にしか作品を読まれない詩人達、文学者達よ。彼等の娯楽を満足させるだけでなく、あなた達の作品の幾つかを、苦しむ者を助ける為に捧げることも忘れないでください。画家、彫刻家、あらゆる分野の芸術家達よ。あなた達のその知性を、兄弟達を助ける為に使ってください。そのことによってあなた達の栄光が衰えるわけではなく、幾らかの苦しみが軽減されることになるのです。
 誰にも与えることは出来ます。どんな階級に属していようと、分かち合えるものを何か持ち合わせています。神があなた達に与えてくれたものが何であろうと、その一部は、生きる為に必要なものさえも不足している者達の為に負っているのであり、なぜなら、その立場になれば、他人に対して、自分達にも分けて欲しいと思うに違いないからです。地上におけるあなた達の宝は減るかもしれません。しかし、天におけるあなた達の宝は増やされます。そこではこの世で蒔いた善行の種が、百倍になって収穫されることでしょう。(ヨハネ ボルドー、1861年)