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自殺してはならない理由


 無限なる叡智と愛を具えた大霊は、医学によって〝不治〟の宣告を受けた人達にもう一度チャンスを用意してくださっております。
 大切なのは魂の琴線に触れることです。その時霊の力が、それまで有るか無いかの状態で明滅していた神性の火花を美しい大きな炎と燃え上がらせ、潜在する霊的エネルギーを活気付け、それが身体の病を治し、精神に教訓を学ばせ、霊的本性を開発させるのです。それが首尾よく行われた時は、治療家はその貢献の栄誉を授かったことを大霊に感謝すべきです。
 もしも身体は治っても魂を目覚めさせるまでに至らなかった時は、それは残念この上ないことです。その患者は霊的真理に目覚めるチャンスを目の前にしながら、それを手にすることが出来なかったことを意味するからです。いずれにせよ治療家は精一杯の努力をして、霊力が存分に流入し神の意志が届けられるようにすることです。
 全ての魂が受け入れる用意が出来ているとは限りません。それは有り得ないことです。治療家の下を訪れる患者の全てが治せるわけではありません。が、もしも絶望視されていた患者に何等かの改善が見られたら、それは、いやしくも思考力と理性とを具えた人間にとって、物質より遙かに勝る力が働いたことを示す明確な証拠というべきです。
 起源においても本質においても霊的であるその治癒力は、今日の地上界へ流入している大切なエネルギーの一つです。地上界は今とても病んでおります。あまりに多くの人が調和の乱れた生活環境が生み出すストレスと不自然さによって病気になっております。自ら〝文明〟と呼んで誇っているものが実は、本来ならエネルギーを供給してくれる大自然から人間を絶縁させているのです。
 その為に人間のバッテリーである魂が枯渇しており、それを霊の力によって再充電してあげなくてはならないわけです。それが功を奏してバッテリーが働き始めると、身体と精神と霊との間に調和が戻ります。それが健康です。神はその無限の叡智によって、人体の骨格及びその関連器官を、霊の自然治癒力が働くように拵えてあるのです。
 その身体と精神と霊という三位一体の関係が乱れた時に病気になるのです。健康とは全体の調和状態のことです。
 では治療家がその治癒エネルギーの通路となると、どういうことが起きるのか。生命力、すなわち霊の力が治療家を通って患者に流入し、その魂と接触をとり、先程述べたバッテリーを補給し、原因はともあれ、乱れてしまった調和を取り戻させるのです。
 心霊治療の肝要な点は、治療家自身が苦痛を体験していて、訪れる人々に対する思いやりの心が培われていることです。それが摂理の働く唯一の道なのです。ここにお集まりの方のどなたよりも永い人生を生きて来た私は、今尚、全存在を包摂する宇宙的摂理を考案した大霊の無限の叡智に感嘆させられることばかりなのです。
 平穏の有り難さが分かるのは嵐の中においてこそです。晴天の気持ち良さが分かるのは雨の日があるからです。このように全てが両極の原理で成り立っているのです。もしも全体が光ばかりだったら、光の有り難さは分かりません。そうした違いが分かり自然の摂理の素晴らしさが分かるのは、そのコントラスト、比較対照の原理のお蔭です。
 そこで苦しみがあるのです。苦しみの中において霊性が目を覚まし、その結果として治病能力が開発され、自分の下を訪れる人の苦しみも分かるのです。 このサークルへご招待する〝霊の道具〟(心霊治療家)の全ての方に申し上げていることは、明日のことを思い煩ってはいけないということです。治すべき患者はちゃんと導かれてまいります。自分から出歩いて〝私は治療家です。どなたか治して欲しい方はいませんか〟などと触れて回る必要はありません。霊界からの働きかけはそういう方法は取りません。
 治療してあげて、とりあえず身体上の痛みや症状が消えれば、それはそれなりに結構なことです。が、それより更に一歩踏み込んで、そうした変化が何を意味しているかを患者が理解してくれれば、尚結構なことです。
 その段階から患者の霊性が目を覚まし、真の自我を知り、地上に生まれて来た目的を成就し始めることになります。そこが大切な点です。症状が取れれば、それはそれなりに結構です。が、霊的実在に目覚めることになれば、尚一層結構なことです。

-治る患者と治らない患者とがあるのはなぜでしょうか。

 霊的に治る段階まで来ている人とそうでない人とがいるからです。しかし、治りさえすればよいのではありません。心霊治療の試金石は魂を目覚めさせるか否かです。

-明らかに摂理に背いている為に病気になっているケースがあります。一応治療は施してあげるのですが、相変わらず心掛けが間違っている為にぶり返して、又治療を受けにやってまいります。お聞きしたいのは、そうやって何度も治療を繰り返すというのも計画の中に組み込まれているのでしょうか。

 私達が取るべき態度として一番大切なことは、訪れる患者がどんな人であろうと分け隔てなく援助の手を差し延べることです。それから後のことは、その患者自身の責任に帰すべきことです。身体上の病だけが良くなった場合は、心霊治療としては失敗だったことになります。本当は魂が目を覚まして活動を開始するようにならないといけません。
 つまり治療を受けた結果その患者がそれまでの生活を反省し本来の生き方を学ぶ所まで行かなければ、その治療は失敗と見做さねばなりません。治療家を通じて働いている力は身体上の症状を癒すだけでなく精神も癒して、人生とは一体何なのかを理解させることを目的としていることを得心なさるべきです。時間が掛かるのです。

-ということは、同じことを必要な限り何度でも繰り返すべきだということでしょうか。

 治療家は患者を断るような態度を取ってはなりません。患者は治療を求めてやって来ます。その時治療家は、その患者について勝手な判断を下してはなりません。治療家の仕事は治療を施すことです。それによって患者の魂が目を覚ませば、そこから啓発が始まります。たとえ霊的に何の反応も生じなくても、少なくとも身体だけは、短期間とはいえ、前よりは良くしてあげたわけです。
 いかなる患者に対しても、出来るだけのことをしてあげ、決して断ってはいけません。治療家はいつでも患者を迎えてあげる用意が出来ていないといけません。仮に治療の後間違った生活をして更に厄介なことになっても、それはその患者自身の責任です。
 魂というものはいつかは必ず目覚める可能性をもっております。なぜならば魂とは大霊の一部であり、各自の内部に宿る神性だからです。それは無限なるものですから無限に発達する可能性を秘めております。それが基本の論理です。
 〝治る段階〟とは何かと問われれば、それは金塊が精錬の過程を経て不純物が取り除かれた後に見せる純金の姿と同じだと申し上げます。
 もしも人生が一本調子のものだったら、もしも光だけで闇がなかったら、もしも楽しいことばかりで苦しいことがなかったら、食べるものに事欠かず空腹というものを知らなかったら、その光も、楽しいことも、食べられることの有り難さも分からない筈です。人生の目的と可能性についての理解をもたらしてくれるのは、その両極性です。愛と憎しみは正反対であると同時に相等しいものです。愛を憎しみに変えることが出来るように、憎しみを愛に変えることも出来ます。鋼が溶鉱炉から取り出されて鍛えられるように、金塊が精錬されて初めて純金となるように、ダイヤモンドが磨かれて初めて輝きを見せるように、魂も辛酸を嘗めて初めて真の自我に目覚めるのです。それ以外に、地上で魂が目覚めそして活動を開始する為の手段はありません。
 苦痛や困難は不幸なことのように思われがちですが、本当はそうではありません。各自の霊的進化にとってそれなりの役割があるのです。
 あなたのなすべきことは、あなたの下に導かれて来る人にあなたなりの援助をしてあげることです。もしその人が〝大人の霊〟であれば、死後の生命の実在についての証拠を提供することによって、愛が生命と同じく不滅であることを教えて慰めておあげなさい。
 もしも病弱の人であれば、心霊治療とは物的な秤では測れない力が働いていることを実演してみせるものであることを教えておあげなさい。
 あなたに望めるのはその為の触媒を提供する掛け橋となることです。もし上手く効を奏すればその人が自我を見出す手助けをしてあげたことになります。それによってあなたは心に大いなる喜びを感じられる筈です。たとえ失敗しても、それはあなたが悪いのではありません。その人は絶好のチャンスを目の前にしながら、まだそれを生かす用意が出来ていなかったことを意味するのです。

-特殊な理由から治して欲しいと思わない、だから治らない(と私は考えるのですが)、そういう人は別として、カルマというのはどのように働くのでしょうか。治りたい一心で治療を受けていながら一向に良くならない人がいます。これはカルマのせいでしょうか、それとも治療家の力不足でしょうか。

 これは難しい問題です。なぜかと言いますと、治療行為が行われている時にその背後でどのようなことがなされているかは、一口では説明出来ないからです。
 ご承知の通り心霊治療の本来の目的は魂の琴線に触れることです。あなたは先の質問で心掛けに問題のある患者のことを持ち出されました。所謂〝心身症〟です。身体上の病も大半は内部の不調和が外部に現れているに過ぎないものです。
 今の地上には過度の緊張やストレス、欲求不満から生じている病気や異常が増えております。純粋に身体に起因している病気は殆どありません。
 霊的治療においては造化の根源から発している霊的なエネルギーを使用します。そのエネルギーの質、量、種類は、それが通過する治療家の霊的発達の程度によって決まります。次にその病気の原因となっている根本的な事情(カルマその他)によって支配されます。更にはその時点における治療家と患者双方の精神的並びに身体的状態によっても影響を受けます。
 治療が成功したと言えるのは、患者が霊的な受け入れ準備が出来ていて魂が感動を覚えた時のみです。その時初めて霊的覚醒がもたらされるのです。それ以外は単なる身体上の反応に過ぎません。それが一時的な場合もあれば、それきり全治してしまうこともありますが、肝心なのは患者の霊性への影響です。
 地上生活のそもそもの目的は人類及び動物その他、ありとあらゆる生命体に宿る霊的要素が、ほんの火花に過ぎなかった状態からゆらめく炎となり、遂には美事な火焔となる為の条件を提供することです。そこで魂が真の自我を見出し、人生が提供する物的な側面だけでなく、更に大切な霊的側面をも味わうようになります。
 さてあなたはカルマの問題を出されました。因果律、種蒔きと刈り取りの原理のことで、あらゆる生活の場で一時の休みもなく働いております。患者の中には前世から持ち越したカルマ的状態によって病を得ている人がいます。その因果関係が完全に解消されていない場合は、治療が表向きは失敗したような結果となります。もしも完全に解消されていてそれ以上カルマが出なくなっていれば、治療が功を奏するわけです。それが〝魂に受け入れの用意が出来ている〟ということです。

-あなたはよく〝心が正常であれば身体も正常です〟と仰っていますが、霊能者も大抵どこか調子が悪かったり異常を抱えていたりするようです。霊能者であるからにはその心はきっと〝正常〟であろうと思うのです。もしもこの世での苦がカルマのせいであるとすれば、それとこれとはどう結び付けたらよいのでしょうか。

 霊能者といえども自然の摂理から逃れることは出来ません。摂理は全ての存在を包摂し、そこには例外も逸脱もありません。病気が生じるのは二つの理由があります。
 一つは霊と精神(心)と身体の調和によって健康が維持されている、その調和が崩れていることです。もう一つの可能性は所謂カルマです。地上でしか償えない前世での出来事があって、それがまだ解消されていないということです。
 理想的な世の中であれば霊能者も理想的な人物なのでしょうが、あなたが住んでおられるのは理想的な世の中ではありません。

-心霊治療の目的は患者の魂の琴線に触れることで、霊と精神とが正常であれば功を奏すると仰っていますが、赤ん坊や動物の場合はどうなるのでしょうか。

 やはり同じです。調和を取り戻すには霊が正常であらねばなりません。赤ん坊の場合でも魂の琴線に触れる必要がありますし、動物の場合でも同じです。私には別に問題は見当たりません。
 私が先程申し上げたのは、永い間患った末に霊的な治療を求めてくる人々についての一般的な話です。心霊治療というのは複雑な問題です。その最も純粋な形においては霊から霊を通して霊へ向けて行われます。つまり大霊から出たものが治療家の霊を通して患者の霊へ届けられるのです。
 さて、これが赤ん坊や動物の病気となりますと、そこに絡んでくる要素が違います。正すべき要素は大抵霊的状態だけです。それも霊的方法で行うしかありません。直接身体的に行うわけにはいきません(注)。健康を取り戻す唯一の手段である霊と精神と身体の調和を妨げている障害物を取り除く為に、魂そのものに充電してやらねばなりません。赤ん坊の場合はカルマの要素が絡んでいることがよくあります。が、この問題はここでは深入りしないでおきます。(注-これは直ぐ前のところで〝永い間患った末に霊的治療を求めてくる人についての一般的な話です〟と述べているものと関連したことで、大人の場合はそうした苦しい体験があるので症状が取れるという身体上のことだけでも魂が感動を覚えるが、赤ん坊や動物の場合はそれが期待出来ないという意味。尚この問題は再生の問題と深く関わっているので、詳しくは第四巻三章を参照されたい-訳者)