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自殺してはならない理由


-私がこれまでに会った人の中には、自分はスピリチュアリストであると言いながら相変わらず何かの既成宗教に属している人がいます。スピリチュアリズムを信じるようになったら、それまでの宗教は捨てるべきではないでしょうか。

 私はそうした名称(ラベル)には煩わされません。実はこの私自身が果たしてスピリチュアリストなのかどうか定かではないのです。スピリチュアリストであるとの認証を頂いたわけではないからです。ご自分のことをどうお呼びになるかは問題ではありません。大切なのは毎日をどう生きるかです。
 一体宗教とは何なのでしょう。教会や礼拝堂や寺院へ通うことでしょうか。人間の拵えた教義を受け入れることでしょうか。私はローマカトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですと名乗ることでしょうか。
 宗教とは宇宙の大霊すなわち神の御心に一歩でも近付くことになるような生き方をすることです。あなたの行為の中に神の御心が表現されることです。要するに宗教とは人の為になる行いをすることです。
 もしも霊界との交信の事実を信じてその恩恵を受けている人が相変わらず従来の神学的教義に拘り続けている時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。密かに祈りの気持を送ってあげることです。その人はまだ梯子段の下の方、せいぜい中途までしか上がっていないからです。
 精神が従順で感化され易く、与えられたものは何でも吸収して行く幼少時に教え込まれた教義を棄てることは容易ではありません。それがいつしか潜在意識のタテ糸となりヨコ糸となって、その深層を形成します。そうなると、自らその誤りに気付いて取り除くということは、殆ど不可能に近いと思わないといけません。
 ですから、我慢してあげることです。我々だって、かつては間違った考えを抱いていたのを、その後の叡智の発達のお蔭で棄て去ったことがあるではありませんか。所詮人間の誰一人として完全の極致まで到達した人はいないのです。それには永遠の時を必要とするのです。
 我慢してあげるのです。手助けをしてあげるのです。議論し合ってはいけません。議論からは何も生まれません。詩人(注)が言っております-〝議論をしても、入って来たのと同じドアから出て行くだけである〟と。(注-英国の詩人エドワード・フィッツジェラルド)
 自分の宗教の教義より先が見えない人のことは辛抱強く見守ってあげなさい。時が経てば、あなたの場合もそうであったように、きっと機が熟します。

-わけもなく塞ぎ込んでいる人間が多いのですが、若者に一体何が起きているのでしょうか。霊的に飢えているのでしょうか。

 道を見失っているのです。彼等若者は暴力の支配するこの時代に生を享けました。彼等の気持の中には大人は自分達を裏切ったという考えがあります。又、従来の宗教では救いは得られないとも考えております。

-その考えは大人に責任を負わせ過ぎだとは思われませんか。誰しも自分なりの道がある筈です。

 私はそうした若者の考えに賛成であると言っているのではありません。私は現代の若者の心理を説明しているだけです。いずれは彼等も年輩になるのです。

-体験というものは掛け替えのないものです。

 苦々しい体験程薬になるのです。楽な体験は往々にして毒になるものです。サークルのメンバーの方なら私が何度も申し上げているのでよくご存知でしょうが、しくじるということの効用は、やり直しがきくということです。

-(旧約聖書の天地創造の話を持ち出して)ある人達はその創造活動に宇宙人が参加したと言っておりますが、いかがでしょうか。

 申すまでもないことでしょうが、あなたは今、大気圏外から来た生物へ質問していらっしゃるのですよ!創世記その他の話に惑わされてはいけません。あなたの理性に照らして受け入れ難いものは拒絶なさることです。要するにあなたがお知りになりたいのは、地球はどうやって誕生したかという、その事実なのですから。

-その説が沢山あるのです。どれが事実なのかが分からないのです。

 生意気を言うようですが、私はそうした〝説〟を超えたものを手にしております。この問題に関しては少しばかり知識があるのです。地球は無窮の過去から存在し続けております。始まりもなく終わりもありません(注)。バイブルにもイエスが言ったとされる名文句があります-〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟と。(注-これは最後に引用されているバイブルの文句から察せられるように、地球という惑星を物的天体としてではなく霊的存在として考えた上でのことである。地上の万物に霊が宿っているように、地球そのものにも霊が宿っている-と言うよりは地球の霊が顕現したのが生きとし生けるものであると考える方が順序であろう。日本の古神道ではその生成過程を寓話風に物語っている-訳者)
 霊は無窮の過去から存在しております。ある時ひょんなことから創造されたのではありません。それが地球に宿り、数え切れない程の年数をけみして、やっと生命として顕現し始めたのです。生命は霊であり、霊は生命です。永遠の過去から無限の可能性を秘めているのです。
 その生命の誕生に大気圏外からの存在(注)が参加した事実はありません。内在していた生命力が無限の知性によって考案された進化の法則に従って顕現し、発達し、進化して来たのです。(注-天地創造についての質問に対する答えの冒頭でシルバーバーチは自分のことを〝大気圏外から来た生物〟という冗談めいた表現をしているが、これは勿論〝霊界からやって来た霊〟の意味で言っている。ここで言っているのは他の惑星からの所謂宇宙人の参加は無かったという意味であって、霊界からの働きかけは大々的に行われたものと想像される。生命の誕生はそれなくしては考えられないことで、今後の研究に待たれる面白くかつ重大なテーマであろう-訳者)

-最近ではダーウィンの進化論が色々と批判を浴びております。ダーウィンは色んな事実を見落としているようです。

 いかなる発達段階にあっても全知識を手にすることが出来ない以上、見落とされる事実があるのは仕方のないことです。完全のみが全知識を含むことになるのですが、その完全性は地上はおろか霊界においても誰一人として達成した者はいないのです。進化について明言出来ることは、物的進化も精神的進化も霊的進化も、全て大自然の摂理によって営まれているということです。

-私は人間が猿から進化したという説はあまり嬉しくないのですが・・・

 もしかしたら猿の方も嬉しく思っていないかも知れませんよ!神の目から見れば猿は、大切な存在である点では人間と全く同等なのですから。

 (シルバーバーチがイエスの偉大さを述べ、地上において開始した地球浄化の大事業を死後もずっと続けており、シルバーバーチ自身もイエスの指揮の下で働いていることを述べると)

-イエスの名の下に行われた数々の歴史上の行為を見るのは、イエスにとって心の痛む思いだったに相違ありません。

 仰る通りです。何度涙を流されたか知れません。もとよりそれはイエスの責任ではありません。スピリチュアリズムの七つの綱領の中には、各自が各自の行為に責任を持つと謳った条文があるのをご存知でしょう。

-イエスはどういうお顔の方だったのでしょうか。

 地上の画家が描いている肖像とは似ていません。伝道時代に行動を共にした人達とよく似ておりました。もし似ていなかったら使命は果たせなかったでしょう。(訳者注-原文から受けるニュアンスとしてはズバリ容貌を述べるのを避けている節が窺える。それは多分、とかくイエスが神格化され、神々しく近付き難い存在だったように想像されがちなので、実際は至って人間味を具えた、その意味で平凡なユダヤ人だったと言いたいのであろう)

-霊界通信によっては、宇宙的キリストと人間としてのキリストの二つの言い方をしているのがあります。同じ存在の二つの側面を言っているのでしょうか。

 あなたは名称に惑わされています。まずイエスという人物がいました。その人物の姓はキリストではありません。一方、キリスト的生命力、つまり霊力が存在します。人間イエスと、そのイエスを動かした威力とを区別してお考えになれば全てがすっきりします。

-イエスが述べた正確な言葉を自動書記か何かで入手することは可能でしょうか。

 何とも申せません。問題は当時イエスの言葉を記録した人物が一人もいなかったことです。ですから、それを伝えるには記憶に頼らねばならないわけです。がしかし、イエスの教えの肝心要は〝愛〟です。〝己を愛する如く隣人を愛せよ。汝に敵対する者にも優しくすべし〟です。愛とは摂理(神の心)の通りに行うことです。人類の救済にとってこれ以上に必要なものがあるでしょうか。愛は霊性の最高の表現です。大霊から下されるものです。それを私達があなた方にお届けしているのです。
 イエスの使命は霊的実在を証明してみせることでした。もしも今の時代にイエスが出現して二千年前と同じことを説いたら、果して耳を傾ける人がいるかどうか、私は極めて疑問に思います。

-間違った教えを携えて霊界入りする者が多過ぎると仰いましたが、ヨハネの福音書にはイエスを信じることによって永遠の生命を授かると述べられています。

 それは間違いです。人間は一人の例外もなく死後も生き続けるのです。何かの教義や信条、或いはドグマを信じることによって永遠の生命を授かるのではなく、不変の自然法則によって生き続けるのです。それ自体は宗教とは何の関係もありません。因果律と同じ一つの法則なのです。
 今引用なさった文句は地上に大きな混乱の種を蒔き人類を分裂させて来た言葉の一つです。一冊の書物、それも宗教の書、聖なる書が、普通の書が起こそうにも起こせない程の流血の原因となって来たということは、何という酷い矛盾でしょうか。宗教の目的は人類を不変の霊的関係による同胞性において一体ならしめることにある筈です。

-イエスは本当に磔刑にされたのでしょうか。

 そんなことについて私の意見をご所望ですか。どうでもいいことではないでしょうか。大切なのはイエスが何を説いたかです。磔刑にされた時にどういうことが起きたかは、いくら議論してもラチは明かないでしょう。私にもその立証は出来ません。ですから、そのことについてはお答えしません。無意味に人を断罪するのは私の趣味ではないからです。それは私の使命ではありません。(訳者注-イエスの処刑については色んな説がある。一般には聖書の通りにその場で死亡して何日か後に蘇ったことになっているが、実は処刑されたのはイスキリという名の弟だったとか、完全に死んだと思って埋葬したが本当は死んでいなくて、生き返って国外へ逃げたとかの説があり、それぞれにもっともらしい論拠を揃えている。国外へ逃亡したとする説にも、ローマへ行ったという説と日本へ来たという説、そして最近ではインドへ行ったという説があり、いずれの場合もかなりの高齢で他界したことになっている。
 無論シルバーバーチはそのことについての真実を知っている筈であるが、人間がとかく拘る〝証拠〟となると何も提示出来ないからと言って返答を断っている。無論これは言い訳であって、本心はやはり最後で述べている通り、自分が述べることによって右の諸説のどれかを、或いは全部を否定することになるのを避けたいのであろう。どうでもよいことだからである。シルバーバーチはイエスの出生についても死についても途中の事蹟についても、あまり深入りしたことを言っていない。使命ではないからであろう)
 私の使命は人生の基本である霊的原理に関心を向けさせることです。人間はどうでもよいことに拘り過ぎるように思います。イエスが本当に処刑されたかどうかは、あなたの魂の進化にとって何の関係もありません。
 肝心なことに関心を向けなさい。あなたは今あなたなりの役割-人を助け霊性を開発し悟りを深める為のチャンスを提供してくれる、この地上という生活の場に来ていらっしゃるのです。火星にも人間のような存在がいるのだろうかとか、一千年後に間違いなく復活するだろうかとか、そんなことを心配してはいけません。
 大切なのは日常生活での身の処し方です。あなたなりの最善を尽くせばよいのです。それによって大霊とのより大きい調和が得られます。それは晴れやかさ、静けさ、安らぎ、自信という形をとります。神の心を我が心としようと心掛ける者全てに必ず訪れるものです。

 -人類はいつかは戦争のない平和な暮らしが出来るようになるでしょうか。

 これは難しい問題です。まず理解して頂かねばならないのは、神は人間に自由意志というものを授けられているということです。自由意志のない操り人形にしてもよかったのです。が、自由意志による選択の余地を与えられることによって、人間も永遠の創造的進化の過程に参加する機会がもてることになったのです。
 人間は地上をエデンの園、楽園、天国にすることも出来れば、暗く荒涼とした、恐ろしい悪の園にすることも出来ます。そこに選択の余地が残されているのです。
 戦争、暴力、貪欲、情欲、利己主義が蔓延るのは物質中心の考え方をするからです。そういう考え方をするのは、これ程多くの宗教が存在しながら大半の人間が肉体が死ねば全てお終いと思っているからです。死後にも実感を伴った生活-地上生活の賞罰が清算される世界が存在するという事実が信じられず、地上生活が唯一の生活の場であると考えます。すると当然、物質が全てなら今の内に思い切り欲望を満足させておこう、ということになります。それが戦争を生み、憎み合い、征服し合い、殺し合うことになります。
 もっともこれは真相の一面を述べたまでです。有り難いことに、他方では、人間の我侭による混乱を抑制する為の摂理も間違いなく働いております。その一環として私達は、地上に霊的実在についての知識をもたらす為の大事業に携わっているのです。
 霊媒の活用によって人間が霊的天命を背負った霊的実在であることを証明することが出来ます。その天命を全うするも損なうも、日常生活における身の処し方一つに掛かっております。因果律、すなわち種蒔きと刈り取りの摂理は絶対に狂いません。
 良い行いをすればそれだけ幸せを味わいます。利己的な行いをすればそれだけ苦い思いをさせられます。摂理は誤魔化せません。死の床でいくら懺悔の言葉を述べても、既に始動している因果律の働きを止められるものではありません。
 こうした真理を理解する人が増すにつれて戦争が減り、平和な地域が広がっていきます。これは一朝一夕に出来ることではありません。
 私には以上のようなお答しか出来ません。自分の役目を果たすのです。自分なりの最善を尽くすのです。縁あって近付く人の力になってあげることです。親切に、寛容に、そして慈悲の心をもって接するのです。機会さえあれば、どこででも人の為に役立つことを心掛けることです。それが世の中に貢献する所以となります。

-時折味わう精神的な苦悩は外部から来るのではなく内部から湧いて来るのでしょうか。

 どちらからでもあります。よく理解して頂きたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から成っていることです。霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、地上では様々な発達段階の者が混ざり合って生活しております。ということは、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということです。かくして光があれば闇があり、温かさがあれば冷たさがあることになります。そこに地上生活の存在理由があるのです。そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。
 言い換えれば地上は学校です。そこで色々と学ぶことによって、いつかは住むことになる霊の世界での生活に必要な教訓を身に付けるのです。苦悩を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです。
 度々申し上げておりますように、地上での出来事は正反対であると同時に相等しいということがあります。つまり同じコインの表と裏の関係です。魂が自我に目覚めるのは様々な体験の中においてこそです。それは鋼を鍛える過程、或いは原鉱を砕いて黄金を磨き出す工程と同じです。