初訪問者はこちら
自殺してはならない理由


-動物にはよく〝下等〟という言葉が付けられますが、人類より本当に劣っているのでしょうか。まだ人類と同じ進化の段階まで到達していないのでしょうか。と申しますのは、例えば犬には人間に対する無私の献身と忍耐という資質があります。これは我々も大いに学ばされます。進化の道が全く異なるのでしょうか。

 「いえ、進化は全生命が一丸となって歩むものです。進化の法則はたった一つあるのみで、それが生命活動の全側面を規制しております。いつものことながら、用語が厄介です。〝下等動物〟という用語を用いれば、動物は人間と同じ意識段階まで到達していないことを意味します。確かに動物には人間のような理性、理解力、判断力、決断力を司る機能が仕組まれておらず、大部分が本能によって動かされているという事実から言えばその通りです。ですから、そうした限られた一つの視点から観れば動物は〝下等〟と考えることが出来ます。しかし、それで全ての検証が終わったわけではありません。
 動物に教えられることが多いのは当然です。動物は忠誠心、愛着心、犠牲心、献身といった資質を健気に表現しますが、これは人間が学ぶべき素晴らしい手本です。しかし人間はそれらを意識的に、そしてもっと高度に発揮出来ます。なぜなら、動物よりも意識の次元が高いからです。但し、ここでは霊的意識のことではありません」

 ここでサークルのメンバーが〝動物が人間よりも気高い行為をした感激的な話が沢山ありますね〟と言うと、別のメンバーが〝超能力をもっている動物もいます〟と言う。するとシルバーバーチが-
 「それが所謂埋め合わせの法則の一例です。ある種の能力が欠けていると、それを埋め合わせる別の能力を授かります。目の不自由な方には正常な人にない鋭敏さが与えられます」

-例えば家で飼われている猫は人間には見えない霊の存在に気付いているのでしょうか。

 「勿論気付いております。人間に見えなくなったのは、あなた方の文明-時としてそう呼ぶのは相応しくないことがあるのですが-それが人間生活を大自然から遠ざけたことに原因があります。つまり大自然がもたらしてくれる能力と力から人間が絶縁しているのです。その為に文明人は大自然と密接に繋がった生活をしている人種よりも心霊能力が発達を阻害されているのです。
 一般的に言って、家庭で飼われている動物は〝文明の恩恵〟は受けておりません。動物の方がその飼い主よりも自然な超能力を発揮しております。そういうわけで、残念ながら動物の方が霊的存在について人間よりも自然な形で意識しております」

 訳者注-この後動物愛護運動に夫婦共々生活を捧げて最近奥さんに先立たれた人との対話が紹介されているが、私の推察ではこの人は間違いなく英国のテレビ番組《サファリ》の製作者デニス氏で、奥さんが健在の頃に一度夫婦して招かれて、シルバーバーチから賛辞を受けた時の様子が、ステラ・ストーム女史が編纂した Philosophy of Silver Birch by Stella Storm に出ている。これは次の第九巻に予定しているが、理解の便を考えて、その部分をあえてここで紹介しておくことにした。

 「あなた方( Michael & Armand Denis )は肉体に閉じ込められている為に、ご自分がどれ程立派な仕事をされたかご存知ないでしょう。お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。
 大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり(実験で)片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なるものを救い、陽の当たる場所にいる者が片隅の暗闇を少しでも無くす為の努力をすることによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。
 その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。地上の難題や不幸や悲劇の多くが人間の愚かさと自惚れによって惹き起こされていることは、残念ながら真実なのです。
 慈しみの心が大切なのです。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こす時、その相手が人間同士であっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が動物を敵に回している内は自然界に平和は訪れません。平和は友好と一致し協調の中にこそ生まれます。それなくしては地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続ける限り災害は無くなりません。人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営む時地上に平和が訪れ、神の国が実現する基礎が出来るのです。
 残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を呼び、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間自らが破滅の道を辿ることになります。諺にも〝風を蒔いてつむじ風を刈る〟と言います。悪いことをすればその何倍もの罰を被ることになるのです。
 何ものにも憎しみを抱かず、全てに、地上の全ての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造的進化を促進する所以となります。それは、人間がその一部を占めている進化の機構の中で為しうる最大の貢献です。
 挫けてはなりません。あなた方の仕事に対して人は色々と言うことでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心ない誹謗、等々。これには悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせに言う場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、他ならぬ霊的知識であらねばなりません。所詮はそれが全ての人間の生きる目的なのです。霊的知識を理解すれば、後は欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することが出来るのです。
 お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物の為に為すべき仕事が山程残っております。地上の生命は全体として一つの纏まった生命体系を維持しているのであり、その内のどれ一つを欠いてもいけません。お二人が生涯を傾けておられる動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。なぜならば、人間は動物と共に進化の道を歩むべき宿命にあるからです。共に手を取り合って歩まねばならないのです。動物は人間の貪欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。
 自然界の生命は全てが複雑に絡み合っており、人間の責任は、人間同士を超えて草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗する術を知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは、是非とも阻止しなくてはなりません。
 装飾品にする為に動物を殺すことは、神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対に止めなくてはなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事に携わる者は、常にそうした人間としての道徳的原理に訴えながら闘わなくてはいけません。小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。
 動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念の下に、勇気をもって動物愛護の為の仕事を続けてください。多くの残酷な行為が、無知であるが故に横行しています。それ等は、霊的知識を知って目が覚めればたちどころに消えてしまうのです。又、一つの霊的知識に目覚めると、その知識のもつ別の意義にも目覚めてくるものです。その時こそ魂が真の自由への道を歩み始めた時でもあるのです。
 動物と人間とは、進化のある段階でどうしても別れ別れにならざるを得なくなります。地上の年数にして何万年にもなるかも知れませんが、動物と人間とでは霊的進化のスピードが違います。より大きな光を求めて絶え間なく成長していく人間の魂についていけなくて、動物は置き去りにされることになります。
 一旦物質のベールを潜り抜けて霊界入りし霊的生活環境に慣れてくると、つまりあなたを地上に縛り付けていた絆が切れたことを意識すると、進歩しようとする欲求、内部に渦巻く神性を開発しようとする欲求が加速されます。いつどこにいても、修行次第で自分を一層役立てることを可能にしてくれる資質を開発しようとします。その霊的開発の分野において高く昇れば昇る程、動物は付いて行けなくなります。そして、死後も尚炎を燃やし続けた愛が次第に衰え始めます。やがて炎がチラチラと明滅し始め、最後は同じ種族の類魂の中へ融合して行きます。
 創造物全体の進化を支配する総合的機構は一つあるだけですが、それぞれの顕現の形態にそれなりの異なった進化のコースがあります。人間が成就している個別的意識をもつに至っていない動物には、種族全体としての類魂があります。もっとも、同じ種族の動物でも人間との接触を通じて個別化を促進されて、人間に似た形態の個別的意識をもつに至っているのもいます。
 全体としての類魂もいつまでも同じ状態にあるのではなく、常に進化しております。高級界の神霊が人間に対する責任を自覚している如くに人間が地上の全創造物に対する責任を自覚するようになれば、動物の進化が加速され個別化か促進されます。しかし、人間との関係が余程接近しない限り、ある程度まで同一方向ではあっても、進むコースは別々です。進化が進むにつれて類魂の数は少なくなり、個別化された魂が増えてまいります。
 全生命を通じて〝霊〟という共通の近親関係が存在します。生命のあるところには必ず霊が存在します。人間の残忍性は動物の進化を遅らせるという形で反映します。それは人間の野獣性が自らの進化を遅らせるのと同じことです。そのプロセスは同じです。全生命は協調、すなわちそれぞれが自分を役立てるということによって互いの進化に貢献し合うように意図されているのです。
 何事につけ動機が重大な要素となります。愛する動物が手の施しようのない状態となっている時、これ以上苦しませるのが忍びなくて地上的生命に終止符を打たせる処置を取るのであれば、その動機は正当です。しかし動物の生得の権利を完全に無視して一欠片の同情心もなしに屠殺するとなると、その動機は利己的です。それは人間自身にとっても動物にとっても良かろう筈はありません。そこで、殺された動物の霊を何とかしてやらねばならなくなります。人間の場合、死産児や夭逝した子の霊は地上で味わうべきであったものについて埋め合わせが行われますが、動物の場合も同じで、地上で得損なったものについて埋め合わせがあります。
 あなた方は自らの意志を行使出来ない生命-その愛情と忠誠心と信頼と献身とが不幸にして、自分達のしていることがいかに間違ったことであるかを知らない人間による情け容赦ない残虐行為によって皮肉な報復を受けている動物の保護の為に献身しておられます。動物虐待は人間が気取って〝文明〟などと呼んでいるものにとっての大きな汚点であり、邪悪な汚辱です。
 西洋人は私達レッドインディアンを野蛮人と呼びますが、人間と同じ霊によって生命を与えられ同じ進化の道を歩みながら、一方的に人間によって略奪され苦しめられてきた動物に対するこれまでの人間の態度は、それに劣らず野蛮です。
 お二人がこの道に導かれたのは決して偶然ではありません。霊的発達の極印は哀れみの情にあるからです。哀れみのないところに霊的進化はありません。全ての存在、全ての動物、あらゆる生物、地上に存在する霊的顕現の全てに対して哀れみの情を向けなくてはいけません。進化の道を少し先まで進んだ者は、共有している世界の不可欠の存在である全ての人間、全ての生物に対して責任があることを自覚するものです。
 抵抗する勢力がいかに強かろうと、障害や困難が見た目にいかに大きかろうと、善いことの為に払われた犠牲はけっして無駄にはなりません。今携わっておられる闘いは最後には必ずや勝利を収めます。なぜなら、最後には真実が勝利を収めるからです。これから辿られる道もけっして容易ではありません。しかし先駆者たる者、大胆不敵な魂は、気楽な生活を期待したり蓮のうてなの生活を夢見たりするようなことがあってはなりません。魂が偉大である程、要請される仕事も大きなものとなるものです。
 申し上げるまでもないことと思いますが、地上であなた方と共にこの道に携わっている同志の他に、私達の世界でもあなた方に協力せんとして、霊の大軍が控えております。その先頭に立って指揮しているのが地上でアッシジの聖フランチェスコと呼ばれていた人物です。地上時代にもこの悪弊の改善運動に全身全霊を捧げ、今又霊界から携わっているパイオニアには長い長い系譜があるのです。
 時として味方であるべき人物が敵に回ることがあります。又時として、悲しいことですが、この道に携わっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その人の為に蔭で涙を流しておやりなさい。
 私達から要求することは、あなた方に啓示された光明にひたすら忠実であってくださる-それだけです。自分を役立てるという目的にひたむきでありさえすれば-これ以上の崇高な宗教はないのです-自動的に莫大な霊の力を呼び寄せ、それが数々の障害を取り除き、神の慈愛溢れる意志が地上に顕現されることになるでしょう。
 生命はその全側面において互いに混じり合い依存し合っております。そこに一種の親族関係とも言うべき密接な繋がりがあります。生命は無限ですから、その顕現も又無限の形態をとっております。どの部分も他と切り離されて存在することは出来ません。
 動物の中には人間との接触を通じて、人間とよく似た個的意識が芽生えているものがいます。もとより人間が動物に個別性を賦与するわけではありません。それは出来ませんが、潜在しているものを加速させることは出来ます。それは皆さんが精神統一その他の修行によって内部の霊的能力を開発するのと同じです。感性を具えた存在に永遠の資質を賦与することが出来るのは宇宙の大霊すなわち神のみです。
 動物の魂も本質においては人間の塊と全く同じです。双方共同じ神から出ているのです。違うのは質ではなく程度です。動物と人間とでは発達の法則が同一方向ではあっても別々になっております。地上に生を享けた目的を果して霊界入りし、他界直後の余波が治まると、両者は別れ別れになります。
 このように、両者にはそれぞれに果たすべき役割があります。人間は地上での人物像、つまり肉体器官を通じての魂の部分的表現が次第に消え、反対に霊的本性が開発され、潜在する完全性がより大きな発現の機会を得ます。永遠の時を経て成就される完全性へ向けて向上するにつれてパーソナリティが減り、インディビジュアリティが増えていきます。又動物は人間との愛の絆がある限り、目的を果たすまで人間との繋がりを維持します。
 全ての〝種〟に地上界と霊界とで果たすべき役割があります。何の原因もなしに、つまり偶然に存在するものは一つもありません。神の完全なる構想によって、あらゆる創造物、あらゆる生命がそれなりの貢献をするようになっているのです。用もない種が地上に発生した為に絶滅させなければならなくなったなどということは絶対にありません。人間が地上で最大の破壊的動物であってはならない理由はそこにあります。
 野生動物と人間との共存共栄が次第に当たり前のこととなりつつあります。それは人間の動物への愛が大きくなって恐怖の壁が崩されつつある証拠です。人間がもしもこれまでのように動物を屠殺したり狩猟したり威嚇したりすることがなかったら、動物の側に恐怖心というものは起きなかった筈です。進化の促進の為に人間との繋がりを求める動物もいるのです。身体機能上の進化ではなくて心霊的進化です。
 しかし進化とは一直線に進むものでないことを忘れてはなりません。上昇と下降とがあります。スパイラルに進行します。感激的な絶頂にまで上る時があるかと思えば、悪魔に呪われたようなドン底へ落ちる時もあります。そうした中にも計画は着実に進展し、進化が成就されて行くのです。
 愛が愛としての本来の威力を発揮するようになれば、全ての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌の種を蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。全ての問題は人間が拵えているのです。神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間か自由意志の行使を誤り、(万物の霊長だなどと)勝手に優越性を誇った為です」