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自殺してはならない理由


 「私達霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相(バラエティ)は、地上のどの形式を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」

 本章は死後の生活を主題とした質問と応答の様子を紹介するが、来世の明るい第一印象を伝える上で右のシルバーバーチの言葉が一番適切であろう。シルバーバーチは又霊界を〝完全な計画が完全な形で実施されている現実の例です〟と言い、〝そこに偶然の入る余地が全くないことがお分かりになるでしょう〟と述べている。以下、それを細かく質して説明してもらうことにしよう。

 霊と霊の関係

-死後の世界ではお互いのコミュニケーションはどのようにして行うのでしょうか。

 「こちらへお出でになれば、最早肉体はありません。肉体そっくりの身体はありますが、言葉は話しません。言語というのはいたってお粗末な思念の代用品でして、地上に近い下層界を除けば、そういうお粗末な媒体を用いなくても、以心伝心の素晴らしい交信方法があります。思念は言語を超えたものです。
 同じように、食べることも飲むこともいたましせん。そうやって養わねばならない物的身体が無いからです。身体を大きくする必要がありませんから、蛋白質なんかは必要ではありません。霊的身体がありますが、その養分は置かれた環境から摂取します。
 永遠の太陽とも言うべき光源があり、暗闇がありませんから、寝るということもしません。霊的性質が何一つ隠せないという意味において、みんな霊的に素っ裸ということになります。あるがままの姿が知られ、見せ掛けも代用もカムフラージュも出来ません。
 あなたの交信レベルは霊的に同じレベルの者との間でしか出来ません。自分より上のレベルの者とは出来ません。そのレベルまで霊的に成長するまでは、そのレベルのものが受け入れられないからです。自分より下のレベルまで下りることは出来ます。自分の方が霊的に優れているからです。
 いずれにしても交信は直接的に行われます。あなたが心に抱いたことがそのまま相手に知られ、相手の考えることがそのままあなたに知れます。面倒なことは何も生じません。
 皆さんはの英国に住んでいて英語を喋っています。英語の喋れない外国人と会えば言語が違う為に意志の疎通が出来ません。が、以心伝心の交信には言語は不要です。迅速です。厄介なことは何一つ生じません。
 私がこうして霊媒を支配している間は、思念や画像や映像やシンボルを私に供給してくれる係がいます。供給という用語が適切かどうか知りませんが・・・・私はそれをあなた方の言語に翻訳する訓練が出来ております。それには随分長い年月を要しました。支配中は霊媒の語彙の中から適切な用語を見つけ出さねばなりません。時には霊媒自身が忘れているものもありますが、記憶の層にはちゃんと残っております。が、霊媒から離れてしまえば地上の各種の文献を調べることも出来ます。必要とあれば地上の大家の書いたものを見つけ出して、イザという時に備えてメモしておきます。この霊媒から離れている限りは思念を言葉に翻訳する面倒な手間はいりません」

-どうやってお互いを認識し合うのですか。

 「霊的な眼がありますから一人ひとりが認識出来ます。私達は盲目ではありません」

-私達の視力は物的なものなのですが。

 「あなた方はその二つの眼で見ているのではありませんよ。又その二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もしも脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動も全く無意味なのです。
 脳がレシーバーとしての働きをしてくれれば、後はその情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには〝見る〟能力はないのです。ただ光線を感知する為の媒体に過ぎないのです。カメラのレンズと同じです。自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。〝見えた〟という認識は、精神がその印象を脳から受け取った時に生じるのです。脳を傷めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります」

-霊界で相手を認識する時、その人の何を見ているのでしょうか。

 「人間と同じ形体です。頭もあり胴体もあります」

-身体はないと仰いましたが・・・・

 「物的身体はないと申し上げたのです。霊的身体はあります」

-ということは、相手を認識する時は霊体を見ているわけですか。

 「勿論です。みんな同じに見えるわけではありません。一人ひとり違います」

-書物を読むことがあると仰いましたが、それも思念で出来ているのですか。

 「全ての物体に霊的複製品があります。地上で書かれたものが複製されて納めてある図書館があります。必要が生じるとそこへ行って調べものをして知識を得ます。音楽も絵画もあります。地上にあるものは全てこちらにもあります」

-地上的成長のどの段階で人間の霊体がそちらから見えるようになるのでしょうか。

 「それはその段階での霊的覚醒のレベルによって違って来ます。地上と霊界の違いは、地上では様々な発達段階の人が一緒に生活出来ることです。こちらでは同じレベルまで発達した者としか会えません。霊的身体は霊格が高くなる程成熟していきます。霊界での成長は(老化に向かうことではなく)成熟するということです。ですから、年老いて他界した人はこちらへ来て若返り、若くして他界した人は霊的成熟度に似合った顔付きとなります」

-やはり顔で分かるのでしょうか。

 「勿論私達にも顔があります」

-人間にはなぜ顔があるのでしょうか。

 「それは、個性というものがそれぞれの魂の刻印だからです。全く同じ人は二人といません。双子でも霊的には同じではありません。完全へ向けての過程-本質的には無限の過程ですが-は顔や形体が無くなるということではありません。個性が崇高さを増し、霊的成熟度が増し、一段と強烈な光輝を発するようになります。その過程を続けて行く内に、上層界には目も眩まんばかりの光輝を発する存在がいることを知るようになります。
 私が地上を離れて内的上層界へ帰ると、〝神庁〟とでもいうべきものに所属する存在と出会うことがある話をしたことがありますが、そうした霊も皆個性を具えた存在です。個体性を失ってはいません。不完全の要素が少なくなり、完全無欠の要素の占める部分が多くなった段階にまで進化しているのです」

-なぜそちらの世界へ行ってからも身体が必要なのでしょうか。

 「霊はその個性に応じて自我を発揮する為には何等かの形体が必要なのです。霊それ自体には個的形体はありません。霊とは生命です。が、その生命が顕現するには人間なり動物なり植物なり花なり、その他ありとあらゆる形体をとる必要があります。霊は何等かの形体をとらないことには存在が認識されません」

-その形体を永遠に維持するのでしょうか。

 「そうです」

-霊界では自分より発達段階の高い者とは接触がないと仰ったように思いますが、そうなると、あなたご自身が〝光り輝く存在〟と直々にお会いになる時は何か特別な配慮をしてもらうわけですか。

 「いいえ。決して自惚れて申し上げるわけではありませんが、私がそうする時は私本来の霊格に戻るというに過ぎません。私はこの地上での仕事への参加の要請を受け、そしてお引き受けしたのです。その為には当然、本来の私の属性を一時的にお預けにしなければなりませんでした。しかし、そうすることによって、あなた方と同じく、私がよく言及している〝正反対の体験〟を得ることになります。それによって、一層の向上が得られることを願っております。
 霊界の生活の全体像をお伝えすることはとても困難です。言語と次元の差が障壁となるからです。例えば音楽を例にとれば、霊界には地上のいかなる楽器にも出せない音色があります。絵画でも、あなた方には想像もつかない色彩と美があります。それが感識出来る人も描写出来る人も地上にはいません。地上の人にとって大インスピレーションと思えるものでも、実際はごくごく小さな欠片に過ぎません」

 招待客が「我々人間にとって霊界の本当の姿を理解することが容易でないことは理解出来ます」と言うと-
 「とても難しいのです。しかし、その理解の為の準備が睡眠中に行われております。睡眠中は肉体を離れて一時的に〝死ぬ〟わけです。そうすることによって徐々に霊界生活に慣れていきます。そうしないと、いよいよ本当の死が訪れた時に何のことか理解出来ず、新しい生活環境に順応するのに長い時間を要することになります。地上にいる間の夜の霊界旅行での体験は全部潜在意識の中に収められています。それがいつか意識に上って来て、霊界があまり不思議に思えなくなります」

 ここでサークルのメンバーの中でも一番背の高い人が質問する。
-背丈のことをお尋ねします。例えば六フィートの人間はそちらでもやはり六フィートでしょうか。

 「どうやらこの質問には個人的興味が混ざっているようですね。答えは〝イエス〟です。物的身体は霊的身体の写しだからです。但し、そのサイズは霊的発達程度とは関係ありません。身体は巨人でも霊的には小人である場合があります」

-他界直後には言語上の問題がありますか。

 「あります。所謂〝幽界〟、つまり地球に最も近い界層においてはあります。そこには霊的自覚が殆ど芽生えていない者が住んでおります。まだ言葉が必要だと思い込んでいるので言葉を用いております」

-一方が英語で話相手がフランス語で話しても、実際は思念で通じ合っているわけでしょうか。

 「勿論です。元々思念には言語はないのです。言語というのは思念を単語に移し変える為の道具に過ぎません。私達の世界では思念に実体があり、物質は影のようにしか見えないことをよく理解してくださらないといけません」