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自殺してはならない理由


 寿命の問題

 自らも霊媒である人が招かれて、シルバーバーチと語り合った中で「人生は目まぐるしく過ぎて行くのに、やりたいことは山程あります」と述べると、シルバーバーチがこう語った。
 「人生を達観することが大切です。あなたが生まれるずっと以前から質実剛健な先輩がいて道を切り開いてくれていたこと、その人達もその仕事の大変さを痛感して、自分達の地上生活が終わった後はどうなるのだろうと案じていたことを知らなくてはいけません。しかし、その人達が巨木や巨石を取り除いてくれていたからこそ、その道をあなた方はその人達より楽に通れるのです。そこであなたが更に幾つかを取り除けば、それがあなたとしての貢献をしたことになります。あなたの後に更に次の人材が用意されることでしょう。そしてその人達が更に多くのものを取り除いていけば、やがて綺麗な道が出来上がります。
 地上は体験学校のようなものです。その地上世界は完全ではありません。あなた自身も完全ではありません。あなたはその不完全な世界で少しでも多くの完全性を発揮しようとしている不完全な存在です。ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。それ以上のものは要求されません。
 縁あってあなたの下を訪れた人に真の自分というものに目覚めるきっかけを与えてあげることは重大な意味のあることです。つまり人間が神に似せて作られていること、言い換えれば神と本質的に同じものが内在していること、その資質を発揮することによって生活に美と愛と光輝をもたらすことが出来、それが全ての体験を価値あるものにするということを理解させてあげることです。
 ですから、仕事上の厄介な出来事を、神が与えてくれた挑戦のチャンスとして感謝して受け止めることです。それを処理して行くことで結果的にあなたがそれだけ霊的に成長するのです。もしも仕事仲間の中にあなたの信念についていけないという人がいたら、もしもその人の信念に迷いが見え始めたら、その時は構わず見棄てることです。果たすべき大目的についての荘厳な洞察力を抱き続けている人とのみ仕事をなさることです」

-人間の寿命は前もって決められているのでしょうか。それとも肉体の強健さ、その他の要因の問題でしょうか。

 「肉体の強健さ等も寿命を決定付ける要因の中に入っております。物的身体構造すなわち肉体は、霊が成長する為の地上的体験を得る上で無くてはならないものです。霊と肉体とは一体不離です。そして地上生活の期間、所謂寿命が切れる時期は大方の場合予め分かっております。
 肉体を霊から切り離して考えることは出来ません。肉体は霊に制約を加え、霊は肉体に生命を与えるという具合に、両者は切っても切れない関係にあります。一個の存在を構成している二つの要素を分離して考えてはいけません。あなたという存在は数々の要素が互いに反応し合いながら一個の総合体を構成しているのです。全ての側面が融合し統合し混ざり合って、あなたという一つの統一体すなわち霊魂を構成しているのです」

-寿命が定まっているということから出る疑問ですが、もしも、例えば千人の乗客が一度に溺死した場合、その人達は皆その特殊な時期に死ぬことになっていたということになるのでしょうか。つまり彼等の魂の成長の為に定められた寿命は同じだったのでしょうか。

 「問題は用語です。あなたは今〝定められた〟という言い方をされましたが、そういう言い方をすると、では一体誰が何を規準に、という疑問が生じます。そして多分その裏には神によって摩訶不思議な方法でそう仕組まれるのだという漠然とした考えがある筈です。が、そういうものではありません。生命現象の広大なパノラマの一つ一つが自然法則によって支配されているのです。
 地上の科学者がいかなる説を立てようと、いつかは必ず肉体に死が訪れます。それは霊を開放するという役目を果たすことになるのです。つまり肉体の死は肉体の誕生と同じです。前者は霊の〝退場〟であり、後者は〝入場〟です。
 地上では死を悲劇と考えますが、私達霊の立場からすれば悲劇ではありません。開放です。なぜなら、魂の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩み事からの開放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒章であって罰ではありません。死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出す為の手段と見做すべきです」

 命日は記念すべきか

 招待客が友人からの質問として「悲しい命日は心の傷みを呼び覚ますだけだから愚かで無意味だという考えはいかがでしょうか」と述べ、それに自分の考えとしてこう付け加えた。

-今更どうしようもないことは分かっているのに年に一回、心の傷みを思い出すのは間違いだと思います。

 「その質問者の言う〝悲しい命日〟というのは何のことでしょうか」

-故人が亡くなった日です。その日に何もしたがらない人がいます。改めて悲しい思いをしたくないのだと思います。

 「誰にとって悲しいのでしょうか」

-その人を失った家族です。亡くなった本人ではありません。私はあなたのお考えに同感です。亡くなった人を悲しむのは一種の利己主義だと思います。

 「一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する者を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から開放された人の為に涙を流すべきではありません。勿論地上生活が利己的過ぎた為に死後も相変わらず物質界に繋がれている人(地縛霊)がいますが、それは少数派に属します。
 大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることが出来るようになるのです。
 過ぎ去った日々の中に悲しい命日を設けて故人を思い出すと仰いますが、一体何の為に思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません!過ぎ去ったことをくどくど思い起こすのは良くありません。それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的に成長する好機の到来を告げるものとして、希望に胸を膨らませて迎えることです。それが叡智の道です」
 訳者注-〝シルバーバーチは語る〟と題されたカセットテープの中で司会者が「ルドルフ・シュタイナーの一派では死者に向かってリーディング(仏教でいう〝読経〟で、読心術ではない)をするのですが、何等かの効用があるのでしょうか」と質問したのに対してシルバーバーチは「害もありませんが、さして薬になるとも思いません。こちらはこちらで救済の為の施設が沢山用意されています」と述べている。
 確かに、例えば『ベールの彼方の生活』を読むと高級霊団が地上各地から地縛霊を大勢救出して戻って来る一行を描写している所がある。国籍が入り混じっているので服装も様々で、救出された者同士がキョロキョロと互いの衣服を見比べて不思議そうな顔をするユーモア溢れる場面もある。その他慰安や看護の為の施設も何度か出て来る。その観点から言うとシルバーバーチの言う通りなのであるが、私は日本人特有の問題として、供養とか戒名とか院号とかにまつわる日本的しきたりに余りに拘った地上生活を送った人の中には、向こうへ行ってから自分もそうしてもらわないと気が済まない-所謂〝成仏出来ない〟霊がいて、霊界の指導者を手こずらせていることが多いことは、事実として認めざるを得ないように思う。この種の地縛霊は日本ではけっして少数派とは言えない。そういう霊は言わば〝分からず屋〟なのであるから、その我侭をある程度は聞いてやる必要があるので、それは地上の人間の協力を要する問題となってくる。
 ただ、シルバーバーチは常に永遠の時を念頭に置いて説いていることを忘れてはならない。人間が余計な心配をしなくても、いつかは霊界の方で何とかします、という意味に解釈すべきであろう。

-肉体に宿っているとそれが悟れないのは悲しいことです。みんな物質に惑わされて、物的なものには価値がないことが理解出来ないのです。そういう人にとって人生は舞台劇のようなもので、カーテン(幕)が下りるとそれでお終いです。

 「それは要するに無知と知識の差です。そこで私共は出来るだけ知識を広め、その境界線を出来るだけ広げていくように努力しているのです。知識を手にすれば、人生を正面から見つめ、そして悟ります。無知のままでいることは暗闇の中にいることです。
 私達はひたすら力になってあげたいと願っているだけに尚のこと嘆かわしく思えるのですが、地上の人間が無知と偏見と、自ら拵えた迷信という壁に取り囲まれている為に、それが目覚めを阻害して、容易に破壊出来ないのです。その厚い壁は真理も突き通せないのです。嘆かわしいと表現したのは、その人達の地上の身内の人でも手の出しようがないからです。そこで死後暫くはベールのそちらとこちらの双方に悲しみがあります。が、地上を去った者の為に涙を流すことはありません。その事実を認識し受け入れることによって、死んでいった者を引き止めるようなことが無くなります。感情的障壁を拵えなくなります。精神と霊を正しく調整することが出来るようになります」

 これを聞いてサークルのメンバーが尋ねた。
-一つの人生の旅が終わったのを見て悲しく思うのが人間の情だと思うのです。それは一時的な情ですから、たとえ悲しんでも、死を嘆いているのとは違うと思うのです。

 「私の世界へやって来た人は死が階段を一つ昇ったことを意味すること、大きな開放を得たことを理解します。潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかった程生気はつらつとした生活が出来るチャンスを得ます。勿論地上生活に断絶が生じたことに悲しみの情を覚えるのは当然です。が、他界して行った者に何ら悲しむべきものはないという事実を知ることによって、その悲しみを少しでも小さくすることは出来る筈です。(無理な要求をするようですが)私達は皆さんに対して常に理想を目標として掲げなければならないのです」

-愛し合う二人の内片方が先に他界した場合、残された方が後に他界した時に間違いなく幸せの楽園が待ってくれていると考えてよいでしょうか。

 「その通りです。但し、互いに愛し合っていた場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。愛はその対象から切り離して存在することは出来ません。地上というのはほんの一時的な生活の場に過ぎません。肉体に不老不死はあり得ません。ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれば、いよいよその時(死期)が近付いた人を祝ってあげるのが本当なのです。そして又、いずれは自分も後から行って、地上では想像も出来ない、より大きな光明と美と驚異の世界で一緒に生活することになることを知ってください」

-そのことを私達は物的観点から考えなくてはならないところに難しさがあるのです。死ぬまで待つことになりますが、ただ待ってはいられない-色々と生きる為のことをしなければなりません。生き続けなければならないのです。その辺がとても難しいのです。

 「霊的真理を物的観点から考えるとなぜ難しくなるのでしょう?」

-私達は物的存在だからです。

 「でも本質的には霊的存在です。物的身体を携えているというだけです。あくまでも霊が上位で肉体は下位です。そうした観点から、お手持ちの知識に照らして、正しい判断を下さないといけません。何事も価値あるものは困難が付き纏うものです。霊的褒賞が簡単に手に入るとしたら、それは手に入れる価値はないことになりましょう」

-死後の世界について多くのことを聞かされていても、死後に備えた生き方を心掛けている人は少ないように思います。本日お聞きしたことを肝に銘じて、例えばテレビばかり見ていないで、美術とか工芸に手を染めるなどして今から準備を始めるのも一つの生き方だと思うのですが、何か良いアドバイスを頂けますでしょうか。

 「その問題は結局は悟りの問題に帰着します。あなたが肉体を携えた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば・・・もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることが出来れば・・・もしもあなたがそうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直に従うことが出来れば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。あなたの行為は全てあなたが到達した霊的自覚の程度によって支配されるのです」

 事故・災害による死

-霊的発達程度にお構いなく地震などによって一度に何千、何万もの人が死んでいくのはなぜでしょうか。

 「なぜあなたは死をそんなに禍いのようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上では目出度いこととして喜びますが、私達の方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私達は喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。死は大部分の人にとって悲劇ではありません。暫く調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。
 あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物事を見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして100歳まで生きたとしても、無限の時の中での100年など一瞬の間に過ぎません。
 大自然の摂理の働きに偶然の出来事というものはありません。あなたは霊の為に定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊自ら選択しているのです」(霊としての意識と肉体に宿ってからの脳を焦点としての意識とは別である。地上では時間と場所の感覚は脳を焦点とした地上独特のもので、そこから人間的煩悩が生まれる。悟りの程度というのはその地上的感覚による束縛から脱する程度と等しいということであろう-訳者)

-地震その他の災害の話に戻りますが、その災害で生き残る人がいます。が、その人達はそれから他界するまでの永い年月を苦しみながら生きることがあります。例えば家を失ったまま我が家を持つことなく生涯を終える人もいます。そうした場合、その人達はそういう体験を得る為にその土地に生を受けたのでしょうか。

 「地上生活にまつわる幸とか不幸のあらゆる体験から逃れることは出来ません。明るい側面と同時に暗い側面も体験しなくてはなりません。〝蓮のうてな〟の生活では魂は成長しません。困難と闘争と危機の時にこそ魂は自我を発揮するのです。あなたにそれが得心出来ないお気持は分かります。地上的感覚でお考えになっているからです。しかし永遠の観点から見れば、恵まれた条件よりも困難な事態の方が有り難いことなのです」

 別の交霊会でもこう述べている。
 「私達の世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像出来ません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが、〝死〟は独房の扉の鍵を開けて開放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることは出来ないことになっているのです。ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂は又永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んで行くことになります」