○イエスが言われた人類同胞の愛という言葉の、本当の意味は何ですか。
「全ての人への博愛、他者の不完全性への寛容さ、人の非道の行為の許し、これらである」

○イエスはまた、汝の敵を愛せよ、と言われました。しかし、我々の敵を愛するとは、我々の自然の性向に相反します。また敵意は、霊的に共感するものが欠けているから、生まれるのではありませんか。
「確かに、人間が自分の敵に、優しさや熱い思いを抱くなど、難しい事だろう。また、イエスもそのような事を命じたのではなかった。[汝の敵を愛すること]は、その者を許すことである。また悪に対して善を返すことである。その事によって、諸君は相手よりも優れた者となる、恨みをもってすれば、相手の下に自分を置くことになる」

○慈善についてのお考えをお尋ねします。
「乞食にされることは、肉体的にも精神的にも、人間の品格を落とすことになる。それは人間を動物にすることである。神と正義の法に基づく社会状況では、弱者を助けるにしても、自尊心を傷つけずに支給が行われる。生活の資は働けない全員に保障される。偶然のままに放っておかれたり、故人の善意に任されたりせぬように」
-慈善を非難なさいますか。
「非難すべきものは、生活の資を与えることでなく、そのやり方である。イエスの説いたように慈善を理解する者は、手をこまねいて待つことをせず、貧しい者を捜し求める」
「本当の慈善とは、必ず愛と優しさをもつもの。それは慈善の行為と共に、慈善を行うやり方、その上に成り立つものだから。奉仕は、心遣いを込めて行われれば、二重の価値を生むもの。しかし、傲慢な態度ですれば、欠乏は無理にも無くなりはするが、受取った者の心には少しも心が通わない」
「また心得られよ、見栄は神の目の中で、善行の価値を滅ぼしてしまう。イエスはかように申した[自分の右手のした事を、左手に知らせるな]と。高慢と虚栄で慈善を曇らせることのないよう、諸君等にかように命じて教えてくれている」
「諸君は物を与えるだけの慈善と、愛の慈善とを、しかと見分けねばならぬ。最も貧窮な者は、路傍で物乞いする者ではない。屈辱を恥じて物乞いをしない、本当に貧しい多数の者達である。これら無言で苦しみ黙している者達である。真実に愛の心を持つ者は、これら隠れた気の毒な人々を求め、見栄も何もなしに救いの手を差し伸べる」
「互いを愛せよ、これが全宇宙を統べられる神の法である。愛は生きとし生ける有機体を引き付ける法である。この引力は非有機物体の愛の法である」
「決して次の事実から目を逸らしてはいけない。進歩の程度のいかんを問わず、それが肉体をとっていようと、霊界にあろうと、全ての霊はいつも二つのものの間に置かれている。即ち、教え導いてくれる優れた者と、自分がこれを教え導く義務をもつ自分より劣った者達との、二つの間に置かれていること、この事実から目を逸らしてはいけない。それ故に慈悲深くありなされ。あなたに一円を乞う乞食に銭を与えてやるだけでなく、貧窮を隠している貧者を見出すことによって。あなたの周辺にいるこれらの者達を発見することに心を込められよ。彼等の無知彼等の不徳を軽蔑せずに、導くことをしなさい。彼等をより良い状態にしてやりなさい。自分より劣っている人達にいたわりと愛を持ちなされ。それと同じ愛を、低い進化段階の生物達にも持つようにしなされ。これによって、諸君は神法に従う者となろう」
                                                         聖パウロ

○自分の欠陥の為に、乞食に身を落としている人々はありませんか。
「それはある。しかし、もし良い精神教育によって神法実践の道を教えられていたら、このように身を滅ぼす乞食になることはなかったろう。地球改善の究極の実現は、このような教育が普及することに、主としてかかっている」