○自己保存の法によると、自分の肉体の要求に応えることは義務ですか。
「左様、健康と体力がなければ、労働をすることが出来ないから」

○地上生活の喜びや享楽を追及することは、良くないことですか。
「物質的幸福を望むことは、人間の自然である。神の禁じられるのは度を過ごすことである。過度は自己保存には有害だからである。人間が享楽を求めても、神はこれを罪とはなされぬ。もしその享楽が他者を犠牲にして得れるのでなければ、また、本人の精神や肉体を弱める性質のものでなければ」

○罪滅ぼしの意味で、耐乏生活をすることは、神の見地から見て価値がありますか。
「他者の為に善い事をしなさい。それはどんな耐乏生活にもまして、価値あることである」
-価値のある耐乏生活がありますか。
「ある。つまらぬ悪習に対する禁欲、これは物質に対する執着を弱め精神を高めるからよろしい。価値があるのは、無益なものに深入り耽溺する誘惑に対する抵抗である。この場合は、困っている人に与える為、必要なものまでも切り詰める。もし耐乏が見せかけだけなら、徒労である」

○過去いつの時代にも、まだどの民族の中にも、禁欲的難行苦行の生活を送った人達がいました。こういう生活はある観点からすれば価値があるのですか。
「人のそのような生活が、貴方に役立っているか、胸に手をあてて考えてみられよ。自ずから回答が得られよう。その生活が単に本人だけの為、本人はその為に他者に役立つことをしないのなら、それは単なる自己主義にすぎない、その人がどんなにうまい口実でそれを弁護しても。難行苦行と申すものは、世の為人の為に、自らに耐乏と労働を課すること、これである」

○幾つかの民族で実施されていることですが、ある種の食物の禁止、あれにはもっともな根拠がございますか。
「健康に有害でない限り、何を食べようと、これは許される事である。立法者は有用な目的の為にその禁止をしたかもしれぬ。また、その禁令に重みをつける為に、神の御意志のように申したかもしれぬ」

○肉食は自然の法に反しますか。
「人間の体質から申して、肉は肉体を養うに役立つ。これがないと、人間の体力は衰える。自己保存の法から申して、人間は自己の健康と体力を維持する義務がある、労働の法を実行する為にである。従って、人間は人体の要求に応じて食事をとるがよろしい」

○動物その他、特定の食物を、罪滅ぼしの意味で禁止することは、何か効用がありますか。
「他者の為にそれを実行するのなら、結構。ただ、神は、忍従を伴わないもの、真剣にして有用な目的のないもの、そのような苦行は一切よしとなされぬ。この故に我等はかように申しておる、上辺だけの断食を行なう者は偽善者であると」

○人間や動物の身体を切断することについて、どのようにお考えですか。
「何の為にこのような質問をするのか。ほどほどにされたい。その事が役に立つのか立たぬのか、自分に問いなさい。有用でないものは神の喜ばれる筈がない。有害なものは神はこれを嫌い給う。神は、人の魂を神へと高めるもの、この事のみを喜び給うこと、しかと肝に銘じられよ」

○この世の苦を、私共が耐えさえすれば、進歩できるものなら、自分で作った苦によっても私共は進歩しますか。
「人を進歩させる苦とは、自然に自分に降り掛かってきたものだけである。それは神が本人に課せられたものであるから。自分で作った苦は、それが他者の役に立たなければ、無意味である。仏教の苦行僧、回教の托鉢僧、もろもろの狂信者が行なう異様な苦行、その為に生命を縮める者達が、それで進歩を早めているとお考えか?彼等は何故に他者の為に役立つ仕事をしないのか?着物のない者に着物を与えよ、悩んでいる者に慰めを与えよ、病む者の為に働け、貧しい者不幸な者の為に自ら窮乏に耐えよ。これが価値ある生活であり、神はこれを喜び給う。自己目的の為に自ら苦しみを作る者は、単なる利己主義である。人が他者の為に苦しむ時、愛の法に従っている。キリストが申された事はこの事である」

○人の為にはなりもせぬ苦しみを、自分で作ってはいけないのなら、自分で予感する苦しみ、我々を脅かす苦しみ、これらは受け流す努力をすべきですか。
「自己保存の本能が、危険や災いから身を守るように、全ての生物に与えられている。霊に鞭打て、肉体にではなしに。高慢の鼻をへし折り、心に食い入る利己を克服せよ。この方がよほど進歩の為になる、少々の断食で身をすり減らして得るものよりも」