○生物の知性が共通の起源をもつということは、輪廻の教義と繋がりがある、ということではありませんか。
「この両者は同一起源のものかもしれぬが、後世に至っては、似ても似つかぬものとなっている。発芽した種子の胚は形を失っているのに、誰がその葉や花や実を見て、その木を認め得ようか。知性が霊となるに必要な状況にまで発展し、人間の段階に入った時、その瞬間から、知性はもはや原初状態との接合点を失い、木が種子である以上に、動物の魂を越えたものとなったのである。人間はもはや、その肉体とその感情以外は(感情とは、肉体と、物質体に全て生得の自己保存の本能、この二つの合成物)いかなる点も動物ではないのである。それ故に、これこれの人間が、これこれの動物の生まれ変わりである、とは言えないのである。従って、俗説で行なわれている輪廻の教義は、真実ではない」

○人体に生命を与えている霊が、動物に宿ることが出来ますか。
「出来ない。そのような受肉は退化となろう。霊は決して退化しない。川は水源には逆流しない」

○輪廻思想にもっていくことは間違いだとしても、輪廻教義は、人間の前存在に関する、直観的な追懐の故ではないでしょうか。
「その直感的追懐が、この信仰の中にも、他の多くのものにもあるように認められはする。しかしながら、人間の直感的観念の大部分がそうあるように、これも人間がひねくれ捻じ曲げたものなのである」
〔注解〕輪廻思想は、この用語が、魂が低次から高次へと進歩し、その性質を変えていくという意味で解されるなら真理だが、ある動物が人間に直接輪廻したり、また人間が動物に輪廻するという、退化や混合の観念の意味でとらえるなら、それは誤りである。霊の教示によると、再生とは自然の上昇運動に立脚しており、また人間のその種としての進化である、ということである。従って、人間が退化することは、人間が神から与えられた進化の為の能力の誤用、ということになる。
 霊の出発点は、物の起源及び神の計画の神秘、これとかかわる問題である。人間は未だここのところを理解し得ていない。人間の知るところは未だ想像や理論の域を出ていない。霊自身達もなお万事を知るに至っていない。霊達もこの件については、事実と矛盾せぬ域で、大なり小なり個人的見解をとっているようである。
 結局は、どの霊も動物と人間との関係については、同じ見解をとっていないということ。ある霊によると、低級な生物の種々の段階を経て発展し、個性化して、霊は人間に達したと言う。また他の霊によると、人間の霊は初めから人間であって、動物から進化したものではないと言う。前者は動物の将来に希望を与えるものであり、後者の説は、人間の権威と一致するものである。これは下記のように、要点を概括できる。
 動物の種は、進化の過程で、他の種から発したのではない。牡蠣の霊は、魚の霊、鳥の霊、四足動物の霊にはならない。それぞれの種は初めから固定している、身体的にも精神的にも。・・・地球よりも進歩した世界が色々あり、そこには、その世界に相応しい別個の種がいる。しかし、それらは地球の種から、霊的にみて発したものではない。それは同じものではない。人間が肉体的に生物の鎖の中で一つの輪をつくっていることは明瞭である。しかし精神的な面で、動物と人間の間の継続を示す解答はどこにもない。何となれば、人間のみが魂ないし霊、即ち精神性と、動物に欠けている視野を与える神性の火花をもっているから。この魂、霊、火花こそ、人間において重要なるもの、肉体に先行する存在、身体の死後も生き残るもの、また個性を提供するもの。この霊の源とは何であるか、その出発点は何であるか。それは知性の個性化によって成立しているものか。それは見破ろうとしてもせんない、神秘なのか。もはやそれに理論を与えようとしても出来ないものか。確かなことは、理性と経験によって等しく言えることは、死後、霊魂は存在する、個性は生き永らえると言うこと。また、その永遠の進歩向上、つまりはその後の幸福も不幸も、浄化の道程での進歩か停滞かに応じて生じるということ。
 動物と人間の間にある神秘の類似については、言葉を重ねれば神の秘密、他の多くのことと同様、現時点にあっては我々の進歩には殆ど重要性をもたぬ知識、言い張っても益のない知識。