自然の夢遊病現象は自然発生的に、また何ら外的原因もなしに生起するものである。しかし特殊の体質者の場合は、催眠術者の術で人為的に生起させられるものである。この両者間の相違は、一方が人為的なのに対し、他方が自然発生的である、唯この点だけである。
 自然的夢遊病はよく知られている事実で、この存在について、その現象の驚くべき特性にも拘わらず、今日異議を唱える者はいない。ではなぜ催眠的夢遊病の場合は、特別に不審の目で見られるのか。それは単に人為的現象だからという理由ではないのか。それは香具師(やし)がやってきたことだと、そう言う人達がいる。だが、その事実は単に蛇足ともいえる理由にすぎない。将来科学がこれを取り上げる時が来たら、詐術などは問題にされなくなり、他方、夢遊病は自然的人為的いずれにしろ、事実なのだから、また否定され得ないことなのだから、反対者らの悪意にも拘わらず、道を開いてくれるだろうし、また色々な分野で取り上げられ、科学の中に所を得ていくことになろう。程なく、それが科学の中での立場は十分に認められていくことになろう。
 催眠下の霊視の原因も、自然発生の夢遊病霊視の原因も同じものである。これは魂の属性、人間に内在する霊的なものが引き継いでいる能力であって、この力を遮るものはない。夢遊病者はどんな遠方でも、魂の行くところのものを見るのである。
 遠方透視の場合、夢遊病者は、肉体のある場所から望遠鏡で見るように見ているのではない。本人はあたかも其処に自分が居るように見える。というのは、本人の魂が実際そこに居るからである。彼の肉体はいわば無いに等しい、感覚は消え失せたようにみえる、魂が戻って来ればまた元にかえる。この霊肉の分離は正常の状態ではない、ある程度の時間は続くが、いつまでもそれが続くわけではない。これが暫く続くと肉体疲労の原因となる、特に霊肉分離の間の活動が激しい場合はそうである。霊視に枠ははめられない、何処に行くかの所在も定められない。というのは、夢遊病者には霊視をする特別の器官はないということ、焦点も定められないということ、これを裏書きするものである。彼等は見える故に、見える。それがなぜ、どのようにしてかは分からずに。もしその見える感覚と肉体と関係づけようとすれば、その焦点は、肉体中枢、特に脳、或いは霊肉間の結び付きの最大箇所、そこだと本人には思えるだろう。
 夢遊病の活動範囲は無制限ではない。霊は肉体から完全に自由な状態でも、本人の進歩の程度に応じた能力と知識をもっているにすぎない。まして肉体と繋がってその影響に従っている時には、その制約はもっと大きい。こういうわけで夢遊病的霊視は普遍的でもないし、無謬でもない。
 夢遊病者本人が比較的自由になっている感じの状態の時には、彼は、他界の霊や生者の霊と容易に交流する。この交流は複体を構成している液状体との接触を通じて行なわれる。この液状体は電線のような役目をするわけで、思想の伝達をする。それ故、夢遊病者の方は意志を伝えるのに言語を必要としない。
 夢遊病者は、自分の霊と肉体の双方を同時に見る。これは自分が霊と物質の二重存在であること、併も紐で一つに結ばれた存在であることを教えてくれる。夢遊病者はこの二重性について必ずしも理解していない。しばしば彼は独り言を言う、もっとも他者に話している具合に。ある場合には肉体が霊に向かって、ある時は霊が肉体に向かって話す具合に。
 霊は地上生活ごとに、知識と経験を加えていく。だが地上生活中は、折角獲得したその一部を見失っている。それは物質の鈍重さの為、全部を記憶に留めておくことが出来ないのである。しかし、霊魂としてはこの全てを記憶している。従って、夢遊病者の中に、本人の教育程度以上の知識や知能を発揮する者があるのはこの為である。それ故、覚醒中に本人が知的に科学的に劣っているからといって、霊視中に示す知識を本人が持っていないということにはならない。その時の状況に応じ、また目的に応じて、彼は知識を引き出す、自己の経験の貯蔵庫から、またその時生起している事物の霊視から、或いは他の霊達からの助言から。本人の進歩の程度に応じて、その情報は正確と言える。
 自然的にしろ催眠的にしろ夢遊病的現象を通じて、神は我等に霊魂の存在、霊魂の独立、この証拠を与え給うている。神は我等に、囚われの身体より発する崇高な光景を見せ給う、神は我等に、開いた書を読むように我等の未来の運命を読ませ給う。
 夢遊病者が遠隔地で起こっていることを述べている時には、彼はその通りのものを見ている。それは肉眼で見ているのではない。この事は明瞭である。彼は遠く離れたところにある自己を見ており、また、其処へ自分が来ていることを感じている。それ故に、彼の或るものがその遠隔地に実際に居るのであり、その或るものとは自身の肉体ではなく、まさに自分の魂、霊である。
 人間は自分の精神の根源を訪ねて、遂には抽象の中へ、わけの分からぬ形而上のモヤの中に迷い込むのであるが、神は人間の目の前に、手の届くところに、最も単純にして正確な人間心理実験の手段を与え給うておられるのである。
 没我状態は、魂が肉体から独立していることを最も鮮やかに見せてくれる、いわば観察者が手で触られるような状態である。
 夢や夢遊病で、魂は地上世界との間をさ迷う、つまり没我状態となって、魂は異次元の世界いわば幽霊達の世界へと入り込み、其処でこれら精霊達と交流するのである。但し、霊と肉を繋ぐ紐を断ち切らねば行けない限界を踏み越える境までは入って行けない。新奇な光輝に包まれ、地上では知り得ぬ調和で心躍らされ、言語に絶する祝福にまみれ、魂は天上の美を毒味する形となる。それはまさに永遠の敷居に片足を置いたというべきか。
 没我状態下では、地上は殆ど絶縁した状況となる。肉体はもはや物理的な生命を留めるだけとなる。魂は一本の糸で繋がれているにすぎず、この糸をそれ以上、魂は自分の力で断ち切ることはしないであろう。
 この状態下で、一切の地上的思想は消滅し、我等霊的存在の精髄である純粋感覚が現れる。この厳粛な沈思に没入して、本人は次のように思う。地上生活とは、わが永遠の旅路の小駅にすぎないと。また、この世の成功といい不幸といい、喜怒哀楽も、いま喜びにうち震えて予見している旅路の中での、ささいな出来事にすぎないと。
 このことは夢遊病者の場合も、恍惚状態下の人の場合も同じである。彼等は大なり小なり完全に正気なのである。その霊の進歩に応じ、物事の真実を見抜く力も秀れている。彼等は異常な状態に入ると、正気の時よりも、神経が興奮する。もっと正確に言えば、この興奮によってその正気さは後退し、そのため現象はしばしば真実と誤謬との混交、崇高な観念と奇妙な馬鹿らしい幻想との混乱したものとなる。低級霊はこの神経興奮を利用して、しばしば恍惚者を支配することがある(この神経興奮は、これをコントロール出来ない者達にとっては弱点となる)。邪悪霊は本人の目にもっともらしい現象を見せつけ、そのため本人の覚醒時にこれが本人の観念となり、偏見となるようにさせるのである。このような欺瞞による霊視支配は、霊示現象の中での「暗礁」なのである。しかし、彼等の全てがこの危険な誘導に従うわけではない。また、これら霊示を冷静慎重に考慮して、科学性と理性の光に照らし判断を下すのは我々の側なのである。
 千里眼能力のある人には、時として、覚醒状態の時に魂の解放が起こり、五官を超えた霊視・霊聴・第六感が発揮されることがある。彼等は自分の魂の働きの及ぶ場所での物事を感受する。彼等は普通の視力を超えて、蜃気楼でも見るようにものを見る。
 千里眼現象が生起した瞬間は、霊視者の肉体的状態は目に見えて変化する。視点はぼんやりして、目前に、見ることなしにものが見えてくる。その顔つきは神経の異様さを反映して異相となる。本人の目はその霊視とは何の関係もない、本人は目を閉じているのに霊視は続いているからである。
 このような能力は、肉眼と同じ程度に霊視能力に恵まれている人の場合に起きる。本人達は当たり前の事と思い、特殊のことだとは気付いていない。一般に、はっきり見えているのは一時で、やがて記憶も薄れ、夢のように遠のいてしまう。
 千里眼能力は、初歩の段階では混乱があるが、次第に近くの物でも遠くの物でもはっきり見えてくるようになる。人によってはその判断や行動の面に機転・明敏さ・正確さなどが出てきて、精神もしゃんとしてくる。能力が進むと、虫の知らせのようなものが分かるようになり、更に発展すると、過去の出来事、まさに起ころうとする出来事が見えるようになる。
 夢遊病、没我現象、千里眼も原因は皆一つで、形式の相違にすぎない。夢と同じくこれらは自然現象の枝なのである。従って、いつの時代にもこれらは存在したし、また歴史を見ても分かる通り、誤用虐待はされたが、遠い昔から知られてきている。迷信や偏見の為、人間は異常現象というレッテルを貼ってきたが、そういう出来事に正しい説明を与えられるのはこれなのである。