○地上で好きだった人達が思い出してくれると、霊は心を動かされますか。
「それは諸君が想像する以上に、その影響は大きい。もし霊が幸福な場合は、その幸福を倍加するものだし、不幸だったとしたら、大きな慰めになる」

○国によっては死者の慰霊の日が定まっています。そういう日には、特に霊は地上の知人に心を引き付けられますか。霊はその日、お墓参りに来る人達に会うことを目的としますか。
「それはいつの日でも同様、その日にしても、親しい思いを向けてくれれば、霊もこれに応ずる」
-その日には、霊は遺骸の埋めてある場所へ特に行きますか。
「その日には、霊は大挙して墓地へ出かける。それは、大勢の人達の思念によって、そこへ呼ばれるからである。しかし、各霊魂は自分の知友の為にのみ行くのであって、決して無縁のそこに来る大衆の為に行くのではない」
-どんな形をして、霊はそこへ行くのですか。また、もし人間の目にその姿が見せられるとしたら、それはどんな風貌ですか。
「顔も形も、生前見慣れたままの姿である」

○人から忘れられ、誰もその墓を訪れる者のない霊達も、やはり墓へ出かけますか。誰も彼を思い出してくれる人もないのを知って、彼は残念に思いますか。
「霊にとって、地球とは何であろう。もし彼等が大地に繋がっているとすれば、それは心によってのみである。もし、その霊に地上から何の愛情も向けられていなければ、彼を大地に繋ぎ止める何ものもない。彼の前には大宇宙が拡がっている」

○友人が自宅で死者のために祈るより、墓にお参りしてやることの方が、霊には更に嬉しいことですか。
「墓にお参りすれば、その死者が忘れられていないことを霊に示すことにはなる。つまりそのしるしである。既に述べたように、直ちに死者のためになるのは心に念ずることであって、墓に行くかどうか、たとえそれが心からそうしたものでも、たいした意味はないものである」

○故人の銅像とか記念碑が建立される時、本人の霊は除幕式に出席しますか。その式典を嬉しい気持で見守りますか。
「そういう場合、霊は可能な限り、出席することが多い。しかし霊にとっては、そういう名誉よりも、人々に思い出して貰うことの方が大事なことなのである」

○特定の場所に葬ってもらいたいと希望する人がいますが、あれはどういうことですか。死後そこへ本人は好んで行くものですか。こういう物質的なことに重要性を置くというのは、霊的にみて低級なしるしですか。
「こういう希望は、特定の場所に対する霊の愛着から生まれるもので、精神的には未熟な証拠である。進歩した霊により地上の場所は問題でない。骨がどこにあろうと、霊界で愛着のある者同士がまた会えること、彼は知らないであろうか」
-家族全員の遺骸を特定の場所に葬ることは馬鹿げたことですか。
「そんなことは霊にとって殆ど意味が無い。但し、生きている人間には有用なことだ。というのは、こうすれば、故人達に対する彼等の記憶が一層強くなるから」

○他界に入ってから後、霊は自分の遺骸に敬意が表されることに、満足を覚えますか。
「霊はある進歩の段階に達すると、地上的な虚栄の無意味さを知って、そういうことから超越する。だが霊の多くは、死後暫くの間は、自分に敬意が払われると多大な喜びを感じ、また無視されるとひどく悲しがる。彼等は依然として地上時代の馬鹿げた観念を持ち続けているからである」

○霊は自分の葬式に参列しますか。
「参列することは極めて多い。だが多くの場合、霊は、死んだ直後にいつも起こる戸惑いの状態下で、何が行われているかはっきり分からない状態で参列している」
-彼等は自分の葬式に多数の人が出席していると、嬉しいと思いますか。
「概ねそうである。葬式に集まった人々の気持に応じて」

○霊は自分の相続人達の集まりに出席しますか。
「殆ど常に出席している。神慮によりそうし向けられるのであって、これは霊に対する教育のため、また利己主義の懲罰のためである。これで、故人は、生前に自分に向けられた愛や忠誠が本物だったかが判定できるし、また彼の遺産のことで、いがみ合う者達の強欲さを見て、ひどく落胆したりする。だが、この欲張りの相続人達の罰は、そのうち必ず来ることになろう」

○人類は、いつの時代でもどんな民族でも、本能的に死者に対し敬意を表してきました。これは、死後の生存に対する、直観的な信仰から出てくるのですか。
「前者、死者の敬意は、後者すなわち死後生存の信仰から生まれる自然の結果である。もしこの信仰がないとすれば、死者への敬意は、何の目的もなく何の意味もない」