-霊力とはどんなものでしょうか。

「霊の力は目には見えません。人間界で用いられているいかなる計量器でも計れないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色もなく、容積もなく、味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば、霊力というものはこの世に存在しないことになります。つまり、実在とは五感で捉えられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。
 しかし、愛は目に見えず、耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。
 あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いを巡らすのも、霊の力があればこそです。あなた方の行動の全て、存在の全ては、霊の力のお蔭です。物質界の全て、そしてその肉体も、生命力に溢れた霊力の流入によって、存在と目的と指針と生活とを与えられているのです。
 物質界のどこを探しても、意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは、物質そのものの中には存在しないからです。物質は、それが一時的に間借りしている宿にすぎません。
 霊の力は、あなた方が[神]と呼んでいるもの、そのものなのです。もっとも、その神を正しく理解して頂けないかも知れませんし、誤解してその意味を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が、かつては火の固まりであったものを今日ご覧になっておられるような生命溢れる緑の地球にしたのです。
 その霊力が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の生長にまで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが、霊力なのです。
 それが強大であるゆえんは、物質界に限られていないところにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動の全て、今のあなた方には到底その存在を知ることの出来ない、幾重にも繋がった高い界層、そしてそこで展開する、これまたあなた方の想像を絶した光輝溢れる生命現象に至るまで、その霊力が支配しているのです。
 しかし、いかに強大であっても、或いは、いかにその活動が驚異的であるといっても、それには制約があります。すなわち、それが顕現するには、それに適した器、道具、媒体、通路、霊媒-どうお呼びになっても構いません-そうしたものが無ければならないということです。壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むかは、人間側が決定付けるということになります。
 私が常々、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件の下でこそ霊力が働き易いからです。地上的な力はいつかは衰え、朽ち果てます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても、明日は転落するかも知れません。
 しかし霊の王国は決して滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力は決して衰えません。ただし、その働きの程度を決定付けるのはあなた方であり、現に、いつも決定付けております。
 スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界の方からこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際には、そんなことを言う人程、霊界からそうしてあげる為の条件を整えてくれないものです。
 この苦悩に満ちた世界、暗闇と不安に覆われた世界にあって、どうか皆さんには灯台の光となって頂きたい。あなた方の自信に溢れた生き様を見て人々が近付き、苦悩の最中における憩の場、聖域、波静かな港を発見することが出来るようにしてあげて頂きたい。皆さんはそういう人達の心の嵐を鎮め、魂に静寂を取り戻してあげる霊力をお持ちなのです」

-霊はいつ肉体に宿るのでしょうか。

「霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら、霊は生命を構成する要素そのものであり、生命は霊を構成する要素そのものだからです。あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。が、個体として、つまり他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。
 受胎作用とは精子と卵子とが結合して、生命力の一分子が自我を表現する為の媒体を提供することです。その媒体が提供されるまで、生命力は顕現されません。それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子とが結合して新たな結合体をこしらえると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。
 私の考えでは、その時点が意識の始まりです。その瞬間から意識をもった個体としての生活が始まるのです。それ以降は永遠に、個体をそなえた存在を維持します」

-何の罪もないのに無邪気な赤ん坊が遺伝性疾患や性病その他の病を背負ってこの世に生まれてきます。これは公平とは思えません。子供には何の罪もないのですから・・・この問題をどうお考えでしょうか。

「不公平を口にされるのは、問題を肉体の問題としてだけ、つまり物質界のみの問題としてお考えになり、無限の生命の観点からお考えになっていないからです。霊そのものは性病なんかには罹りません。霊が傷ついたり奇形になったりすることはありません。両親の遺伝的性質や後天的性格を受け継ぐことはありません。それは霊が自我を表現する媒体であるところの肉体に影響を及ぼすことはあっても、霊そのものを変えるようなことにはなりません。
 確かに、地上的観点から、つまり物質的観点からのみ人生を眺めれば、病弱な身体を持って生まれた人は健全な身体を持って生まれた人よりも、物的には不幸の要素が多いと言えるでしょうが、その意見は霊については当てはまりません。身体が病弱だから霊も気の毒で、身体が頑健だから霊も豊かであるという方程式は成り立ちません。実際にはむしろ宿命的な進化の為の備えとして、多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるという考えの方が正しいのです」

-では、この世をより良くしようとする衝動はどこから出てくるのでしょうか。

「帰するところ、神がその無限の創造事業への参加者としての人間に与えた自由意志から出ています」

-物的な苦痛によって霊が進歩するのであれば、なぜその苦痛を無くする必要があるのでしょうか。

「私はそのような説き方はしておりません。私がその事を引き合いに出したのは、人生には寸分の狂いもなしに埋め合わせの原理が働いていることを指摘する為でした。
 ここに二人の人間がいて、一人は五体満足で、もう一人はどこかに障害があるとした場合、後者は死後も永遠にその障害を抱えていくわけではないと言っているのです。要するに肉体の健康状態がそのまま霊の状態を表すのではないことをお教えしようとしているのです。
 霊には霊としての辿るべき進化の道程があります。その霊がかなる身体に宿っても、必ず埋め合わせと償いの法則がついてまわります」

-でも、やはり身体は何の障害もない状態で生まれるのが望ましいのではないでしょうか。

「勿論です。同じ意味で地上に貧民街が無い方がいいに決まっています。しかし、その貧民街をこしらえるのも地上天国をこしらえるのも、結局は同じ自由意志の問題に帰着します。人間に自由意志がある以上、それを正しく使うこともあれば誤って使うこともあるのは当然です」


-でも、不幸が霊の為になると知ったら、地上をより良くしようとする意欲を殺(そ)がれる人もいるのではないでしょうか。

「地上の出来事で埋め合わせのないものは何一つありません。もしも神の働きが妨害されて、当然報われるべき行為が報われずに終ることがあるとすれば、これは神の公正を嘲笑う、深刻な事態となります。私が指摘しているのは、埋め合わせの原理が厳然として存在すること、そして、進化の法則に逆らった行為を犯しながら神の摂理とは別の結果が出るようにいくら望んでも、神の計画は少しも誤魔化されないということです。
 しかし同時に、次の事実も知っておく必要があります。すなわち、たとえ現代の地上の不幸の原因がすっかり取り除かれても、人間は又自らの自由意志によって、自らの複雑な文明の中から更に新たな不幸を生じさせる原因を生み出していくということです。
 所詮、人生は完全へ向けての無限の階段の連続です。一段また一段と、自らの力で向上して行かねばなりません。しかも、いつかは最後の一段に辿り着くと思ってはなりません」
(ここの質問と答えに少しズレが見られるが、この後もう一度同じ質問が出る-訳者)

-肉体の病気は霊的な進化を促進するかも知れませんが、その逆も有り得る、つまり性格を損ねることもあるのでしょう?

「損ねることもあるし損ねないこともあります。どちらのケースもあります。病気になるのは摂理に反したことをするからです」

-では、病気又は病気に相当するものは絶対に不可欠のものと仰るわけですね?

「いえ、私は病気に相当するものとは言っておりません。何らかの[苦]に相当するものです。人間に自由意志がある以上、選択の仕方によって楽しい体験となったり苦しい体験となったりするのは当然でしょう」

-それは分かります。苦しみを味わわないと幸福も味わえないからです。ですが、どうも私には、もしもあなたが仰るように、こういうことがあれば必ずこういう埋め合わせがあるというのが事実であれば、世の中を良くしようとして苦労する必要は無さそうに思えるのですが・・・

「人間に選択の自由があるのに、他にどうであって欲しいというのでしょう?」

-この度の戦争のことはさて措いて、私は今日の世界は三百年前よりはずっと幸せな世の中になっていると思うのです。世界中殆どの国が、戦争はあっても、やはり幸せな世の中となっております。

「仰る通りですが、それが私の言っていることと、どこがどう矛盾するのでしょう?」

-我々人間は(取り立てて人の為と説かれなくても)常に世の中を良くしてきているということです。

「しかしそれは、世の中を良くしたいという願望に燃えた人がいたからこそですよ。魂に宿された神性が自然な発露を求めたのです。神の一部だからこそです。仮に今日要求したことが明日、法の改正によって叶えられても、明日はまた不満が出ます。進化を求めてじっとしていられない魂が不満を覚えるのです。それは自然の成り行きです。魂が無意識の内に、より完全なものを求めようとするからです。
 今日の地上の不幸は、その大半が自由意志による選択を誤ったことに起因しています。それには必ず照合がなされ、更に再照合がなされます。そうすることで進歩したり退歩したりします。そうした進歩と退歩の繰り返しの中にも、少しずつ向上進化が為されております。先んずる者もいれば、後れを取る者もいます。先を行っている者が後れている者の手を取って引き上げてやり、後れている者が先を進み過ぎている者にとって、適当な抑制装置となったりしております。そうやって絶え間なく完成へ向けての努力が為されているわけです。が、その間の人生のあらゆる悲劇や不幸には、必ず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません」

-改めるべきことが山ほどありますね。

「あなた方は自由主義を誇りにしておられますが、現実には少しも自由とはいえない人々が無数におります。有色人種をごらんなさい。世界中のどの国よりも寛容心を大切にしているあなた方の国においてすら、劣等民族としての扱いを受けております。私がいつも、これで良いと思ってはいけない、と申し上げている理由はそこにあります。世の中はいくらでも明るく、いくらでも清らかに、そして、いくらでも幸せになるものなのです」

-葛藤や苦悩が霊的進化にとって不可欠のものならば、それは霊界においても必要なのではないでしょうか。なのに、あなたは、そちらには悪と邪の要素が無いように仰っていますが・・・

「ご質問者は私の申し上げたことを正しく理解していらっしゃらないようです。私は邪と悪には二種類ある-この[悪]という言葉は嫌いなのですが-すなわち、既得権に安住している利己主義者が生み出しているものと、人類の未熟さから生まれるものとがあると申し上げたつもりです。
 私達の世界には邪悪なものは存在しません。勿論、ずっと低い界層へ行けば霊性が貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした侘しい世界は例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心ゆくまで従事しております。
 葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっとも、その意味が問題ですが・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で、絶え間ない葛藤があります。一つは動物的先祖ともいうべきもの、つまり身体上の進化に属する獣的性質、そしてもう一つは神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を賦与してくれた神の息吹です。その両者のどちらが優位を占め、そしてその優位をどこまで維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で、自由意志によって選択することです。
 こちらの世界へ来てからも葛藤はあります。それは、低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする、絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力ということです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精錬と試練を経て、ようやく霊の純金が姿を現します。こちらの世界にも悩みはあります。しかしそれは、魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れでもあって、ほんの一時のことです。完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです」

-でも、葛藤と進歩、それに努力の必要性は常にあるわけでしょう?

「仰る通りです。だからこそ私は、先程の言葉の解釈が問題だと申し上げたのです。自然界の常として、より高いものがより低いものを無くそうとします。それは当然のことで、そうでなかったら進化というものが真実でなくなります。
 人間は、低い段階から高い段階へ向けて成長しようとする、進化性をもった存在です。進化する為には、光明へ向けての絶え間ない葛藤がなければなりません。その場合の葛藤は、成長の為の必須の過程の一つであるわけです。
 先程私が言いたかったのは、地上には不必要な葛藤、無益な努力が多すぎるということです。それは自由意志の使用を誤って、薄汚い知恵、病気、貧民街といった、あってはならないものを生み出し、それが霊界からの働きかけをますます困難にしているのです」