○地上では[宗教に帰れ]という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊すなわち神に奉仕することです。その為には殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植え付け同胞への愛の心を強めることにならない限り何の意味もありません。いつどこにいても人の為に役立つことをしなさい。同胞の重荷を軽くしてあげることをなさい。それが宗教です。

○人の為になることであれば、どんなことでもよろしい。転んだ人の手を取ってあげることでも、勇気付けの言葉を掛けてあげることでもよろしい。霊的なものに係わることでなくてもよいのです。物的なことであっても、それが相手の人にとって意義のあることであり、あなたもそれを嫌々ながらでなく気持よくしてあげるのであれば、それは立派に神の道具としての役目を果たしたことになります。

○所詮人間は同胞に奉仕することによって大霊に奉仕する以外に、大霊への協力の道はないのです。地上には政治学、経済学、社会学といった立派そうな名称やラベルをつけた分野があり、それが勿体つけて説かれておりますが、どれもこれも、所詮は言葉の遊戯にすぎません。私に言わせればservice(サービス)の一語で全てが片付くのです。人の為に役立つことをする-それが宗教です。

○サービスの真意を理解した人こそ私は偉大な人物と見なします。霊的自我の発見を目的とする人達だけの話ではありません。極貧の人達を救うこと、病の苦しみを取り除いてあげること、不正や横暴と闘うこと、憎悪と闘うこと、自由を守ること、害悪を取り除き、人間の霊性が神の意図された通りに発揮できるチャンスを用意してあげること-こうしたこともみなサービスです。

○相手が立派な地位にある人であろうと、平々凡々な庶民であろうと、そんなことはどうでもよろしい。とにかく一個の魂を立ち上らせ、暗闇にいる人に光をもたらし、無知の牢獄にいる人を解放してあげ、お腹を空かしている人を満たしてあげ、渇いた喉を潤してあげ、争い事を止めさせてあげることが出来れば、あなたは立派に大霊に協力していることになるのです。

○あなた方一人ひとりが大霊の一部であることを忘れてはなりません。一人ひとりが大霊の仕事に貢献し、大霊の力と愛と知識を地上へもたらすことが出来るのです。自分より恵まれない人の為に力を貸そうと努力する時、大霊の力が皆さんを通して顕現するのです。どの分野でもよろしい。どこの誰でもよろしい。意気消沈している人を元気付け、弱った人に手を貸し、暗闇の中に明かりをもたらし、空腹の人に食べるものを与え、身を横たえる所さえない人に安らかな眠りの場を提供してあげれば、それが大霊に協力するゆえんとなります。

○神の働きに何か特別な枠があって、特殊な経路でしかその恩恵がもたらされないかに考える傾向がありますが、神の力はそれを受け取る波長をもつ人なら誰にでも与えられるものです。要するに神の御心に適った心掛けがカギです。地上的名声も社会的地位も、肌の色も人種も、国家も階級も関係ありません。どこであろうと、誰であろうと、神の御心に適った人は真の大源から力を授かり、心が啓発され、魂が鼓舞され、造化の仕事に参加させてもらえるのです。

○聖書もなかなか立派な本です。が、もっと立派な本があります。森羅万象がそれです。大霊の摂理によって維持されている大自然の営みです。地上のいかなる書物、それがいかに分厚いものであっても、いかに敬われているものであっても、いかに神聖視されているものであっても、その大自然が教えてくれるものに較べれば、物の数ではありません。

○そこで私達は大自然の摂理、それだけを説くのです。それをスピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、要するにそれが大霊の法則であり、目に見える見えないに関わりなく、生命活動が営まれているあらゆる階層を通じて働いていることを理解していらっしゃれば、それでいいのです。

○宗教界の学者は宗教というものを不可解きわまる一大神秘-難解な用語と教義による上部構造を築き上げ、それが難問と困惑と混乱を生んでおります。しかし宗教の本質、生命の本能的欲求はサービスの一言に尽きます。

○サービス、すなわち自分を忘れて人の為に役立つことをしようとする心は、大霊の心にほかなりません。今こそ地上世界にはこのサービスの精神が必要です。私達がこうして説き、そして自ら実行しているのはその為です。地上界のモヤも暗黒、疑念と不安、悲しみと闘争、苦難と苦痛の背後には永遠の目的があります。それを一つでも多く理解するように努力してください。

○神の存在を信じ、神を賛美する教説を朗読し讃美歌を歌い、日曜日にはきちんと礼拝に出席しているからといって、それだけで霊性が一ミリたりとも伸びるわけではありません。それは他人への思いやりの心を鼓舞して、暗闇の生活から光明の生活へと導いてあげる行為を実践させる、その手段と考えるべきです。

○大切なのはあなたの[行い]です。そして他のことは信じなくてもこれだけは是非信じてください-たった一つの魂を光明へ導いてあげたら、或いは飢えに苦しむ人に食を与え、喉の渇きに苦しむ人に飲み水を与えたら、或いは又、肩の重荷を軽くしてあげ、足元の石ころを取り除いてあげたら、それだけで地上の全財産にも勝る大切なことをしたことになるのです。

○いかなる教義も魂を束縛します。教義を守るから立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人間は教義の名のもとに戦争をしかけ、教義の名のもとに異教徒を焼き殺してきました。魂を束縛するもの、精神の手かせ足かせとなるもの、霊性の自由な発現を妨げるものは、いかなるものであっても取り除かねばなりません。

○私がキリスト教に我慢ならないのは、自ら用意した真理普及の場(教会・礼拝堂等)において、既に地上に啓示されている肝心の霊的真理を説こうとしないからです。言いかえればキリスト教と銘打ちながら肝心のキリストを裏切るようなことばかりしているからです。神の座に祭り上げてしまって、人類が模範としようにも、もはや手の届かない、はるかに彼方の天国に連れ行ってしまっております。それが我慢ならないのです。

○私は牧師になって神に奉仕しようと心掛ける多くの殊勝な人達を非難しているのではありません。その中には偉大な魂の持ち主が大勢います。私が非難するのは真理にとって為にならない組織、使い古された意味のない教義を相変わらず後生大事にして、生き生きとした霊力の発揮される場を無くしている、その体制です。

○教義・ドグマ・教条・儀式・ステンドグラス・祭壇・法冠・コープ(儀式用マント)-こうしたものが宗教とどういう関係があるというのでしょうか。宗教とは霊性に係わることです。全存在に内在する霊性です。それが千変万化の律動と形態の中で顕現しています。大自然の営みにも、理想に燃えた指導者や社会革命家の努力にも、それが顕現しているのです。それが教条とどういう関係があるというのでしょう。

○私は時折[霊界からの高等な教え]とやらばかりを欲しがって自分は隣人・同胞の為に何一つ役に立つことをしない人達に嫌気がさすことがあります。教えに[高等]も[低級]もありません。成長するにつれて神の摂理の働きをより深く理解していくのです。難解な教えを騒ぎ求めている人達が、そんなことをやめて地上を少しでも住み良い場所、明るい場所-空腹を抱えた人が飢えを満たし、喉を渇かした人が飲み水にありつき、貧しい人達がその疲れた身体を横たえる家を得て神の恩恵に浴せるようにしてあげれば、それこそ[最高の教え]を実践していることになるのです。

○教義による束縛は地上世界の病苦の一つです。疾病よりも大きな害悪をもたらします。身体上の病気による苦痛など物の数ではありません。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に[目隠し]をしてしまうのです。

○人間はなぜか、神の叡智を見えなくする教義に好んでしがみつきます。不思議なことに、牢の中に閉じ込められている方が幸せと思う人がいます。自由とは、自由の有難さが分かった者だけが手に出来るものです。

○私は教義も儀式も作法も説きません。神の愛が子等を通じて顕現しようとしている事実だけを説きます。いかなる書物や巻物、ドグマ、特定の指導者や権威、或いは学識さえも絶対と思ってはなりません。聖遺物を信仰の対象としてはなりません。神の摂理に従うことだけを心掛ければよいのです。それが宇宙で最も大切なものだからです。それが唯一絶対の権威なのです。

○宗教的建造物には過去の無知な時代の産物に過ぎないものが沢山あります。神はいかなる建造物の中にも閉じ込められません。神はどこにでもあまねく存在しているのです。石を重ね、高い尖塔を建て、ステンドグラスの窓を取り付ければ神が喜ばれると思っているようですが、そんなものよりも、太陽の恵みが子等の心を明るく照らし、雨が作物を実らせることの方が、神はよほど喜ばれます。ところが、そうした恵みと子等の間にとかく宗教家と政治家と商売人が介在します。こうしたものこそ取り除かねばなりません。今それが次々と取り除かれつつあります。

○霊力の地上への働きかけを過去の話と考えてはいけません。過去の霊覚者を通して働いた霊力が今まさにこうした形で働きかけていることを理解しないといけません。当時の宗教家がその霊力を目の敵にして悪魔の仕業であると決め付けたのと同じように、今日の宗教家はそれと全く同じ霊力が今まさに働いている事実を認めようとしません。しかし、地上世界もその後進歩したようです。もはや磔刑の手段には出ないからです。

○私達のことを悪魔の福音を説く者と非難する人達は、二千年前にイエスに対して同じ非難を浴びせた者達と同列です。私達はイエスを通して働きかけた大霊の霊力と同じものを携え、同じ霊現象を演出し、そして同じメッセージを説く者です。すなわち喪の悲しみにある人を慰め、病の人を癒し、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人には生きる意欲をもたせ、無知の中で模索している人に知識を授けてあげましょう、ということです。

○物質の世界に存在するもの-それが物であろうと人間であろうと、又その人がいかに高い地位にあろうと、それを信仰の対象としてはなりません。物質の世界の彼方にあるものへ目を向けなさい。

○私という一個の霊、ただのメッセンジャーにすぎない者にあまり関心を寄せてくださるのは困ります。私の用事はただメッセージをお届けすることでしかないのです。地上の人間はこれまであまりにも永いこと教えそのものよりも教えを説く人物に関心を向けすぎております。そしてその人物を誇大な評価をし、祭るべきでない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れております。

○私の使命は一個の男女を権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を啓示することです。私の申し上げることに真理の刻印が押してありさえすれば、私という人物が地上で大変高い地位にあった者か卑しい身の上の者であったかはどうでもよいことではないでしょうか。名前・権威・書物、そんなものはもうどうでもよろしい。私が訴えるのは理性のみです。

○私達はもはや書物や人物や権威を拠り所とはいたしません。神から授かっている理性、これを拠り所とし、これに訴えかけます。真理というものは[神聖]のスタンプを押されている書物から文句を引用することで広まるものではありません。理性が納得しないといけません。もしも私の述べることがあなたの理性にそぐわない時は、あっさりと拒絶なさってください。しかし同時に、私の申し上げていることが人間の最高にして最上の本能に訴えていること、古い時代からの誤った知識を取り除いて、人間にとって大切な霊的真理をお届けしようとしていることも分かって頂けるでしょう。地上で宗教と呼ばれているものは真理を基盤としなければなりません。そして理性の攻撃に耐え切れないものは棄て去らないといけません。