○霊界の誰かがそれまでに身に付けた知識を伝えて地上世界を少しでも明るくしようと一念発起したとします。その際、その霊が地上で有名人であれば、身元を明かすことを躊躇するものです。少なくとも当分の間は明かしたがりません。それは、その人が通信を送ろうとするそもそもの目的とは関係のないことであって、そんなことで余計な混乱を生じさせたくないからです。

○霊界通信はその内容によって価値が決まります。身元の証拠を提供することと、霊的知識を提供することとは、全く別の範疇に属することであることを忘れてはなりません。前者は疑り深い人間を得心させる必要からすることであり、後者は魂に受け入れる用意のできた人に訴えるのが目的です。

○霊の地上への働きかけは、その為に必要な条件を人間の方で用意するかしないかに掛かっています。霊の世界と連絡の取れる条件を用意してくれれば、身近な関係にある霊が働きかけることができます。よく聞かれる不思議な体験、奇跡的救出の話はみなそれなりの条件が整った時のことです。条件を提供するのは人間の方です。人間の側から手を差し伸べてくれなければ、私達は人間界に働きかけることができないのです。

○『生』を正しい視野で捉えて頂きたい。その中で『死』が果たしている役割を理解して頂きたいと思います。人間はあまりにも永い間、死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私達は是非ともその無知ー死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解して頂きたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく、別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。

○苦痛と老いと疲労と憂鬱から解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでおります。自分が失ったものを嘆いているのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。

○皆さんもいずれは寿命を全うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんの為に尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することが出来ます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。

○あなた方人間こそ『死者』です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で、立派な死者です。神の宇宙の美しさが見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身の回りに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。愛しい人達はそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、計り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役立てたいと望んでいるのです。

○見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。しかし賢明な人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐あるものにする為に勇気付け指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなたは神の子なのです。その愛と叡智をもって全宇宙を創造した大霊の子なのです。その大霊との繋がりを強化するのは、あなたの理解力一つです。もしも教会がその邪魔になるのであれば教会をお棄てになることです。もしも邪魔になる人間がいれば、その人との縁を切ることです。もしも聖典が障害となっていることに気付かれれば、その聖典を棄て去ることです。

○私の説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教-一日二十四時間、一時間六十分、一分間六十秒、その全てを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。それが目標とする理想です。

○人間が地上生活を生き抜き成長していく為に必要な真理は、これ以上付け加えるべきものは何もありません。後は真理をより深く理解すること、神との繋がり、及び同胞との繋がりに関してより一層理解を深めることです。新たに申し上げることは何一つありません。

○叡智というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂がそれを要求するようになった時に初めて真理が受け入れられます。それから今度は、その知識をどうするかの段階となります。その知識を他人の為に活用する義務の問題です。そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。

○もうイエスのような大人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻って来たとしても、多分地上で最も評判の悪い人間となることでしょう。特にイエスを信奉し師と崇めているキリスト教徒から一番嫌われるでしょう。

○大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現代の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで、物的なものを、いずれは残して死んでいかねばならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。戦争、流血、悲劇、病気の数々も、元はと言えば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多過ぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂(スピリット)なのです。それが地上という物質の世界での生活を通して魂を成長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。

○宗教家が豁然(かつぜん)大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私達霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たにすぎません。

○キリスト教界にも奇特な行いをしている真摯な人材は確かに存在します。私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かねばならないからです。真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞の為に自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまで何度申し上げてきたことでしょう。しかるに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし、新しい霊的真理は既に根付いております。もはやその流れをせき止めることはできません。

○神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方(クリスチャン)も是非その理性を使用して頂きたいのです。大きな過ちを犯しそれを神妙に告白する-それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったと仰る言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

○あなた(キリスト教の牧師)に理解して頂きたいことは、聖書のテクストのことをうんぬんするよりも、もっともっと大切なことがあるということです。主よ、主よと叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそ敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一番大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。

○動機が何であるかーこれが最後の試練です。魂の奥の静かな、そして小さな声が反発するがゆえに戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にイザとなれば我が身を犠牲にする覚悟をもって戦場へ赴く人間とは、私達の世界から見て上下の差はありません。動機が最も優先的に考慮されるからです。

○地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。したがって全ての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的なものさし、といったものは存在しません。固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、あるものには厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪とは縁のない人間には何の係わりもありません。

○神は人間各自に、決して誤ることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した霊的成長の度合いによって定まります。あなたが地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力、つまりそれが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は、例外なく備わっております。あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともあれば低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、双方ともそれなりに正しいということもありうるのです。

○再生(生まれ変わり)というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人達と議論するつもりはありません。理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。どうしてもそうせざるを得ない目的があって生まれ変わるのです。預けた質を取り戻しに行くのです。但し、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物ではありません。一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後再び生まれ出て来た時は別の部分が海面上に顔を出します。潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。

○私は常々人生とは対照の中で営まれていると申し上げております。愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病です。いずれも本質において同じ一本の棒の両端を表現したものです。私はまた、低く沈むことが出来ただけ、それだけ高く上昇することが出来るとも申し上げております。臆病を勇気に、憎しみを愛に転換することが出来るということです。人間の精神には様々な複雑な感情や想念が渦巻いております。それを上手くコントロールするところにあなたの成長があり、進化があり、低いものが高いものへ転換されていくのです。

○世間でいうところの『成功者』になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると確信するものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。それさえ出来れば、世間があなたをどう見ようと、自分は自分として最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ち受ける生活への備えが十分に出来ているという自信をもって、平然として死を迎えることが出来ます。

○名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものです。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません。イエスはそういう名声を一切求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者といわれた人は名声を求めたでしょうか。大切なのは、どれだけ人の為に役立つことをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名乗って出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の基準は何と名乗っているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。

○今地上人類は五感を通して鑑識する条件下に住んでおります。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。この条件が自ずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気付かれないからです。

○思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないのです。肉体による束縛を全く受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現、または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。勘違いなさらないで頂きたいのは、地上にある限りは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉えないといけません。

○あなたはその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行なっているのです。もしも脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動も全く無意味なのです。脳がレシーバーとしての働きをしてくれた後は、その情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには[見る]能力はないのです。ただ光線を感知する為の媒体にすぎないのです。カメラのレンズと同じです。自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。[見えた]という認識は、精神がその印象を脳から受け取った時に生じるのです。脳を傷めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります。

○時として味方であるべき人物が敵にまわることがあります。また時として、悲しいことですがこの道に携わっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その方の為に蔭で涙を流しておあげなさい。

○[証拠]などといっても、ただの用語にすぎません。確信というのは内部から湧き出て来るものです。魂に[受け入れ準備]が備われば理解がいきます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。科学は刻一刻と変わっていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは、真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。

○霊はこしらえるものではありません。過去も未来も常に存在しております。霊としては、あなたは無始無終に存在しているのです。霊を新たにこしらえなければならなくなったことは一度もありません。無が有になる段階というものは、これまで一度もありません。生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生み出されるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。

○母体に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばしの間地上で機能するわけです。しかし霊は様々な側面をもつことができます。その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはありえます。その意味では[年輩の霊][若い霊]と呼べる霊は存在します。しかし[新しい霊]というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。

○『死後』とおっしゃいますが、私は時折地上世界を見渡して、果たして、『死ぬ前』に生命があるのかと思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、或は、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。

○良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのはあなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れればたちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇というべきです。

○物的なことと霊的なこととの区別がつかない人は気の毒です。日常生活で悪戦苦闘していても、霊的な平静さと安らぎを忘れないでいることは可能です。地上のいかなる困難の中にあっても、自分が本来は霊であることを忘れず、その聖域を守ることが出来れば、いつでも内的な安らぎを得ることができます。安らぎは外から得るものではありません。内部から湧き出て来るものです。

○地上の人間が内部に霊的な武器を備えていることを実感することが出来れば、どんなにか充実した生活が送れることでしょうに。それを活用することによって、時には地上的喧騒から身を引いて、冷静さ・落ち着き・平穏・安らぎに浸ることができるのです。

○真理普及の第一線に立って苦悩している地上の偉大なる魂は、その闘いがいかに激しく反抗がいかに強烈でも、その中にあって少しも内的な安らぎを失うことはありません。表面上の物的な出来事と霊的原理とを天秤にかけてはいけません。霊が主人で物は従僕です。常に霊に係わることを優先させなさい。

○解放されなければならないのは女性だけではありません。男性だけでもありません。子供だけでもありません。人類によって苦しめられている動物も解放してやらねばなりません。霊は常に自由であるべきです。物的な何ものによっても束縛されるべきではないのです。物的身体は霊が存分に自己表現をする手段として与えられているのであり、解放とはそれを制約するもの全てを取り除いてあげることです。

○敵意や敵愾心(てきがいしん)は無知の産物です。そこには理性の働きが見られません。時には恐怖心から出ていることもあります。また時には[洗脳]の結果である場合もあります。知的抵抗力のない幼い時期に植え付けられたお座なりの教えから一歩も出ることができず、精神がすっかり汚染されているのです。

○あなたの説く霊的真理が敵意をもって迎えられた時は、その素晴らしい宝石の光が見えない気の毒な人への適切な言葉を求めて神に祈りなさい。もしもそれが少しでも効果があれば、その人との出会いは無駄でなかったことになります。もしも何の効果もなければ、それはその人がまだ霊的真理を受け入れる用意ができていなかったことを意味します。魂に準備ができていない時は、為す術がありません。

○地上の同志の方々にいつも申し上げているのは、私達霊団側としては皆さんが誠心誠意、精一杯の努力をすること以上のことは要求しないということです。あなた方は欠点をそなえた人間的存在であり、その欠点を一つ一つ取り除いていかねばなりません。しかしそれは大変な時間を要する作業であり、たった一度の地上生活では成就できません。

○身体に係わる義務をおろそかにしてまで霊的なことに専念しなさいとは決して申しておりません。しかし同時に、霊に係わることも大切にしなければならないことも真実です。地上ではその二つとも大切なのです。

○霊的真理の為の闘争は生易しいものではありません。バイブルにも光の勢力と闇の勢力との戦いの話が出ていますが、両者は現実に存在します。が、光の方か強力です。いつかは光が闇を突き通します。しかし時には闇があまりに濃い為に、それを突き通すのに手こずることがあります。

○霊的計画が推進されていく実情を何とかして皆さんにお見せしたいものです。一度御覧になれば、取り越し苦労などしなくなることでしょう。悲しむということがなくなるでしょう。何事が起きようと、全ては神の叡智で良きに計らわれているとの確信をもつようになることでしょう。宇宙は無限の叡智を伴った無限の愛の力で支配されております。愛はそれ自体でも崇高さをきわめた力ですが、叡智との組み合わせによって、必要なものは必ず成就してまいります。

○図太さを失ってはなりません。愚かな人間による抵抗に惑わされてはなりません。むしろ哀れに思い、折角のチャンスを失ったことを気に毒に思ってあげなさい。そういう人達は自らを傷つけ、更には彼等が生き甲斐としているものまで台無しにしているのです。が、根気よく、そして図太く生きておれば、そのうちそれも排除されてまいります。

○私の名はシルバーバーチではありません。これは私がバイブレーションを下げて地上世界とコンタクトすることを可能にしてくれる一種の変圧器の役目をしている、かつて地上でインディアンだった霊の名前です。いずれにせよ名前はどうでもよいことです。私に関する限り名前は何の価値もありません。これまで一度も地上時代の名を明かしたことはありません。地上時代の私はインディアンではありません。このインディアンよりはるかに古い時代の、別の民族の者です。霊的進化の末に二度と地上世界へ生身に宿って戻って来る必要のない段階にまで到達いたしました。霊界の上層部には[神庁]とでも呼ぶべきものが存在します。それに所属するのは格別に進化を遂げた霊、高級神霊です。その仕事は立案された創造進化の計画を円満に進展させることです。その神庁からこの私にお呼びが掛かり、これまでの進化で私が得たものを一時お預けにして、可能な限り地上圏に近付き、その高級神霊達のメッセンジャーとして働いてくれないかとの要請を受けたのです。私の役目はその指導霊達の教えを取り次ぎ、一人でも多くの、受け入れる用意のできた人間にお届けすることです。私は喜んでその要請をお引き受けしました。それが半世紀近くにもわたって携わってきた私の使命だったのです。

○これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦課題としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰鬱な暗い世界です。しかし、その中にあって私達はそこここに愛と好意と友情の炉辺を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことが出来ております。

○皆さんはついぞこの私の姿を御覧になることがありませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私を御存知ないわけです。しかし信じてください。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる実在の人間です。こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは、地上という惑星を離れるまでは理解して頂けないことかも知れません。