英国国教の教義統一の為に、十五年間にわたって、二十五名の神学者が教会信仰を検討してきたが、1938年に「英国国教の教義」と題して、分厚い報告書を出版した。シルバー・バーチはその引用文の幾つかについて見解を求められ、次のように答えた。以下、(文)として示されているのが、その引用文であり、(注)はバーチの見解である。

○もし人々が幼児のような心になり、過去からのどんなドグマにも囚われなければ、真理は極めて容易く理解出来るものである。
 真理とは、新しい教義や信条を作ろう等との欲があっては駄目で、唯幼児のように率直に求める心、どんな犠牲を払っても、ひたすら正しいものを見出そうという心、この態度にして初めて真理は現れるのである。

○(文)イエスの復活は、人類史上で空前絶後の神の御業である。
(注)こんな結論を出すのに、十五年もかかったのか。イエスを欺く者、それは実に、自らをキリスト教徒と称する者達である。
 復活は生命の法の一つである。誰しも、死によって魂が肉体から離れれば、復活が起こる。復活は一人の人の独占物ではない。それはあらゆる人々のもの。即ち人は誰しも、死の関門を通って帰って行く、こうして肉体を背後に残して霊の世界に入るや、前から用意されていた霊的は媒体をまとって、新生活に入っていくのである。
 イエスは自然の法以上の事は何もしなかった。彼は法を実行する為に来たのであり、その言行全て法の現れであった。イエスは言わなかったか、「これらの事を汝等もなすべし、更にこれ以上の事をも」と。皆さんが人の手の届かない雲の高みに、イエスを持ち上げてしまえば、これは、イエスの使命の全ての価値を失わせることになる。何となれば、イエスが地上に現れた意義は、もし人が誰でも、神法を生活にいかそうとしさえすれば、誰にでも出来ることを、世に示す為ではなかったか。
 彼は霊の世界に入り、又地上へ戻った。このことは彼以前にも多くの霊がそうしたし、彼の後にも無数の霊が戻って来た。宇宙に奇跡はない。何となれば、神の法は絶えず働いているし、又いやしくも過去に何かが起こったとすれば、それは即ち、神法の存在を証しするものであるから。

○(文)洗礼は、幼児洗礼の場合でも、罪を犯しがちな人間の傾向から、人を解放する手段である。洗礼を受けていない聖者の生活には欠陥がある。
(注)僧侶は誰しも魔力などもっていない。水から、水以外の何かをつくることなど出来るものではない。僧は数滴の水をとり、子供の額にしたたらす。唯それだけのことで、子供の人生がこの世でか、又あの世でか変る、そんな馬鹿なことはあり得ない。数滴の水、それはかつて数滴の水であったし、又今後も数滴の水である。水の化学的成分を変化させ、自然の法則に反して何かを作り出す、そんな力など僧にはない。
 魂は、洗礼によって変化しない。誰しも、人の魂を進歩させてあげる力などはもっていない。人は独力で進歩を遂げねばならぬ、地上で送る自分の生活の色合いいかんによって。人の行為の結果は、他人は誰一人、これに指一本触れることは出来ない。ただ本人の償いと、受ける苦しみの応報による外は。
 聖者であることは、洗礼とは無関係である。それは、本人が生活に、神性をいかほど発揮するか否かにかかっている。人が地上生活中に、出来るだけの完全性を、日常生活に達成する限り。

○(文)神はお望みなら、奇跡を行うことが出来給うが、奇跡が起こるかどうかについては、命令が必要である。
(注)彼等が更に十五年間考えたら、確信をもっただろうか。何と哀れむべき図か。盲人が盲人の道案内をしている。これが皆さんの先生の姿だ。彼等は奇跡が起こるかどうかすら、言うことが出来ずにいる。奇跡はない。奇跡がかつて起こったためしはないし、又将来起こることもない。神は神であり、神法はその働き完全無欠である。又神法は完全者の創造物である。もし神が、この完全者の創造した法を、一時停止せねばならぬとするなら、混乱が起こるに違いない。神が先を見通さなかったが故に、ある出来事を付け加えようとして、創造の計画に手を加えねばならぬとするなら、もはや神は完全者ではなく、神は不完全者となる。もし神がある人に、特によしみを与える為に、奇跡を行なわねばならぬとするなら、神はもはや、卑小な神にすぎず、あらゆる生命の無窮の霊ではなくなる。何と、彼等は貧弱な自分の考えで、神を卑小なものとすることか。
 彼等は高遠な法を知らないが故に、彼等は霊の力を知らないが故に、彼等は私達の霊界から降る力に触れないが故に、彼等は、霊媒を通じて起こされるこのような心霊現象、いわゆる奇跡を理解することは出来ない。イエスの行なった行跡は、今日の科学の法則では割り切れないので、これは奇跡だと、彼等は無理に考えてしまう。もし彼等に、霊の法則の働きが理解出来るならば、昨日も今日も明日も、神には変りがないことが分かるだろう。又、神の賜物を生活にいかすことの出来る人なら、神力を感得し、これを思いのままに活用することが出来ると、彼等は考えるだろうに。
 神は、新しい法を創造する必要はない。全ての法が常に存在し続けているから、宇宙に必要な全てのものが今ここに在る。今までも常に存在したし、未来もそれは変わりなく在り続けるだろう。完璧なる神は、存在の各段階に必要な全てのものを予見されていた。

○(文)キリスト教徒の立場から見ると、聖書は空前絶後の啓示の記録であって、類稀なものである。
(注)何とその心の曇っていることか。いやまことに、その心は真っ暗な迷信の淵に沈んでいることか。厚い壁に取り囲まれて、名神の砦の後に、深く自らの身を隠して。
 天地開闢の初めより、霊師達は人類に、神についての啓示を与える為に、地上へやって来ていた。彼等はその時代の言葉で語りかけた。啓示はその時代の要求に合致したものであり、又その国情、その民族の進歩の程度に相応したものであった。つまり啓示は、人々の理解を超える程高すぎてはいけないのであって、理解してもらえるような方法で啓示されねばならなかった。
 しかしながら、人類進歩の過程は休むことなく進行し、地上の子等が進歩向上するにつれて、新しい教師が新しい霊媒が出現した。彼等は各々、その時代の要求に合致した自己の理想を、自己の夢を、自己の予言を、自己の通信を、自己の霊感を、自己の真理を、自己の教えをもって登場した。啓示に終わりはない。
 何となれば、神は完全無窮無碍であるから。今日の啓示は昨日の啓示と繋がりをもっている。私達はイエスの教えた真理を否定しない。イエスはモーゼの教えた真理を否定しなかった。又未来の世界に私達の後に現れる霊師達は、今日私達が伝える真理を否定しないであろう。
 しかし、未来の人類はもっと高い進化の段階に達しているだろうから、その時代の真理は、今日皆さんが聞く真理より、もっと進んだものとなるに違いない。

○(文)キリスト教徒によって、キリストは唯一の不可欠の仲介者である。父なる神とキリストは直接結ばれているが、私達人間はキリストを通じて父なる神に接するのである。
(注)いや、神は貴方の内に在る。貴方は神の中に在る。「天国は内部に在る」とイエスは教えたではないか。
 彼等はキリストの教えを少しも分かっていないではないか。貴方は神から一寸たりとも離れていない。神も又貴方から寸毫も離れていない。神と貴方を結ぶ一本の絆は不滅のものであるから、貴方は決して失われることはない。
 貴方が生活の中に神性を顕現していくにつれ、貴方は直接神に近付いていく。貴方方は一人残らず神の一部分をもっているから、貴方と神との間には誰も仲介者を必要としない。仲介者はイエスの目的ではなかった。彼は人生のあり方を教える為に地上に来た、人々が神性を発揮するようにと。
 神学は地上世界の呪詛である。それは人間に足枷をはめ、魂を牢獄に入れる。自由を求めるなら、貴方は自分を縛り付ける、一切の信条や教義から遠ざからねばならない。そうして、霊感のように来る囚われのない真理を見出すようにせねばならない、人の心は神からの霊感を超えることは出来ないのだから。

○(文)復活は人間の不死の希望をいよいよ強くするものである。
(注)もっともっと学んでもらいたいものだ。人が生きているのは、内部に神の分身があるからだ。物質だって霊によって存在している。霊が永遠の実体なのだ。霊こそは不壊の、不滅の不死の無限のあるものだ。
 人は死んでも焼かれても生きている。それは人間とは霊だからだ。この世でもあの世でも、何をもってしても、貴方のものである不滅の神性を破壊することは出来ない。それはこの世に生まれる者に付与された生命の賜物てある。
 彼等は神を、聖なる創造主を、見事に宇宙を開花させ、これを支え給う力を、卑小なものに限定しようとする・・・僅か三十三年、地上に生きた一人の人間に。又、彼等は神の賜物は、信条の信奉者にのみあるのだと、限定しようとする。否、否、彼等は宗教という言葉のもつ意味を辱めるものだ。唯それだけしか知らないとは、イエスはこれを聞いて、痛苦と悲しみで涙を流すであろう。これをもって彼等は今もなお、イエスを磔にするものである。
 皆さんはキリスト教徒であるが故に、地の塩ではない。教会に入っているが故に、地の塩ではない。キリスト教徒という地上のレッテルは、あの世では通用しない。信条を擁護したとてもそれは何にもならない。価値あるものは唯一つ-どれだけ地上生活中に、貴方が神性を生活に発揮したか、それだけである。

○(文)十字架による罪の償いは、キリストを仲介者として、人類を神に結び付けようとする神の御業である。以上の確信は、贖罪というキリスト教教義にとって、一番大切なことである。
(注)これでは旧態依然たる贖罪論の蒸し返しではないか。神様は嫉妬深くて怒りっぽいので、最後の一人子の血を流さなければ、腹の虫がおさまらないというのか。どんな人間だって、これほど非情で惨酷ではない。神とはそういうものだということなのか。神が人類と手を結ぶには、流血を伴わねばならないということなのか。神を、イエスの使命を・・・これは、まあ何と哀れむべき思想か。
 かつてイエスが言ったように神とは愛であり慈悲であり優しさである。しかるにその神をなだめる為に、イエスの赤い血が流されねばならないのか。人がこの世に生まれたのは、自ら人格を築き魂の進歩をはかる為である。
 人がもし利己的な道を選べば、その報いを受けねばならぬ。又もし奉仕の道を選べば、その人格の成長と共に良い報いを受ける。これが法であり、法は不変であり、どんな偉大な師をもってしても、この法を変えることは出来ない。
 これ以外は全て臆病と不正の教義である。もし貴方が誤りを犯したら、男らしくその代価を支払いなさい。いやしくも自分の責任を他へ転嫁してはいけない。こちらの霊界では、聖徒即ち利他主義者は、その魂が進歩しているので、利己主義者に比して、高い段階に達している。この外のことがあり得ようか。今利己主義者が、死んで後、生涯を奉仕に捧げた人と、同じ段階に達しているということがあり得ようか。かくしてなお、貴方は神とその完全な法を嘲笑しようと思われるか。
 勿論そんなことはない。人生とは貴方次第でどうにでも変るもの。貴方の住む世界が何であれ、その職業が何であれ、手並みの良し悪し、階級の上下、肩書いかん、又皮膚の色、民族、国籍の相違に拘らず、奉仕の機会をもつことに変りはない。もし貴方がその機会を無視するのであれば、貴方はその代価を支払うことになる、誰もそれを遮る者はいない。
 最後にイエスの言葉を引用して、この話を結びたい、「人はその蒔いたものを、刈り取らねばならない」